北九州の旧五市

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小倉
 

城下町で、過去も現在も、北九州の経済・商業の中心地です。

次の内容で紹介します。
1.小倉の昔
2.小倉市域
3.小倉の近代
4.小倉の鉄道と駅
5.小倉の今
6.小倉のにぎわい



1.小倉の昔
 

535年大抜屯倉が置かれました。現在の貫(ぬき)のことです。古代より小倉は豊前国企救郡に属し、蒲生郷と長野郷がありました。大宰府からの官道は島門(しまと、芦屋町)から夜久(やく、八幡西区上津役)−独見(ひとみ、八幡西区前田)−到津(いたむつ、小倉北区到津)−杜崎(もりさき、門司区旧門司)の各駅を通って、関門海峡を渡り、都に上りました。また到津から豊前国府への道も通っていました。

平安時代後期になると、律令制度は崩れ、有力貴族や寺社に土地が集まり、それが荘園となっていきます。小倉には宇佐神宮の到津荘・貫荘・長野荘等がありました。また、宇佐弥勒寺の篠崎荘や小倉荘・大野荘がありました。この荘園を実際に管理していたのは武士達で、しだいに武士層の力が強くなり、ついには平氏が政権を取ります。西国はその平氏の地盤でした。しかし、その平氏も壇ノ浦の戦いで滅亡してしまいます。

鎌倉時代になると、平氏が支配していた所に、東国から御家人達が地頭としてやって来ました。領主には東国から来て、その地の領主になった者と、以前からの在地領主達がいました。
この後、室町時代にかけて、中央政権の争いに北九州の武士団も巻き込まれます。この武士団には東国から下向して土着化した門司氏が東に、麻生氏が西に二大勢力として存在していました。小倉には、その間で在地の長野氏や貫氏らの中小の領主がいました。

室町時代になると、中国地方の守護大名大内氏の勢力が強くなり、豊前、続いて筑前の守護職となり、北九州はその勢力下に入ります。その後、大内氏は毛利氏に取って代わられます。
戦国時代、豊後の大友氏の力が強くなり、北九州は大友氏と毛利氏の勢力争いの場となり、ついには毛利氏は北九州から追い出されます。しかし、大友氏は北上する島津氏に侵攻され、大友宗麟は豊臣秀吉に援助を求めます。秀吉によって、九州は平定されます。秀吉の家臣毛利勝信(森吉成)が豊前国の企救郡と田川郡を与えられ、居城を小倉に置きます。

関が原の合戦後、豊前国と豊後国の2郡が細川忠興(ただおき)に与えられます。忠興は最初中津に入りますが、その後、小倉に入り、1602(慶長7)年小倉城を築城します。ここに城下町小倉の基礎ができます。小倉城の北は海で、他の三面は濠で囲まれ、その面積は非常に広いものでした。石垣は足立山の自然石の野面積みでした。天守閣は五層六階で、四層と五層の間に屋根の庇がなく、五層が四層より張り出して、黒く塗られていました。

再建された小倉城

1632(寛永9)年細川氏が肥後に移封され、小笠原忠真(ただざね)が播磨国明石より入国します。豊前国の企救・田川・京都(みやこ)・仲津・築城の五郡と上毛郡の一部で15万石が与えられました。武家屋敷は小倉城の近くに建てられました。小倉のまちは紫川を中心に板櫃川までの西曲輪(くるわ)と現在の砂津川までの東曲輪からなっており、曲輪の北端の紫川河口付近に常盤橋と南端近くに豊後橋が架かっていました。
常盤橋は長崎街道の起点(門司の大里と言う説もあります)と言われ、周辺には九州の大名の本陣が何軒もありました。この橋の北の河口には湊があり、下関や上方に通じていました。小倉は交通の要衝でしたので、城下の門を通じていくつもの街道が出ていました。門司口門から大里・門司に行く門司往還、中津口から中津・宇佐に行く中津街道、香春口から香春・秋月・久留米に行く秋月街道、到津口から飯塚・佐賀・長崎に行く長崎街道です。
小倉の宿場は小倉の他、秋月街道では呼野と石原町がありましたが、石原町は大火災のため焼失し、その後、徳力に宿駅が置かれました。中津街道では下曽根に宿駅がありました。
藩主小笠原忠真は黄檗宗の隠元に願いを入れ、その高弟の即非を迎えて広寿山福聚寺を建立します。
江戸時代は天災が多く、農村は飢饉に見舞われ、藩の財政も米によるものであったため、大きな影響を受けます。そこで、財政建て直しのため、新田開発を行いました。日明新地・中島新地・曽根開作・沼開作・吉田開作といわれる新田開発を行いました。また、殖産興業政策もとられ、その一つに小倉織があり、女性の内職として、帯地・袴地が織られました。田川で採掘した石炭を販売したり、途絶えていた呼野金山が再興されました。
1866(慶応2)年幕府と長州藩との間の長州戦争で、幕府側の小倉藩は長州藩に敗れ、田川郡香春に退却する際、自らの手で、火をかけ、小倉城は炎上してしまいます。



2.小倉市域
 

西暦

元号

市域拡大状況

1871

明治4

廃藩置県により、小倉県が置かれます

1876

明治9

小倉県は福岡県に併合されます

1889

明治22

小倉・長浜浦・平松浦が合併し、小倉町になります

1900

明治33

小倉町が小倉市になります

1925

大正14

小倉市は板櫃町を併合します

1926

昭和2

小倉市は足立村を併合します

1937

昭和12

小倉市は企救町を併合します

1941

昭和16

小倉市は西谷村・中谷村を併合します

1942

昭和17

小倉市は曽根町を併合します

1948

昭和23

小倉市は東谷村を併合します

1963

昭和38

小倉市は五市合併で北九州市小倉区になります

1974

昭和49

小倉区は小倉北区と小倉南区に分区されます



3.小倉の近代
 

1871(明治4)年、明治政府は小倉に、全国的な軍事力掌握のため、西海道鎮台を置きます。しかし、まもなく熊本に移され、小倉城跡には歩兵14連隊が置かれます。西南の役で、同連隊を率いた乃木希典(まれすけ)は連隊旗を西郷軍に奪われます。明治天皇崩御の際の殉死はこの責によるものといわれています。
1898(明治31)年には12師団が置かれます。この翌年、明治の文豪森鴎外が同師団の軍医部長として赴任し、3年近く勤務します。

小倉城にある12師団正門跡

軍都小倉といわれ、北方には兵舎があり、城野には兵器庫がありました。
富野の台地をはじめ、関門海峡に面した地域に砲台が築かれ、1899(明治32)年、要塞地帯法が施行され、北九州一帯は下関要塞地に指定されました。
第一次世界大戦後、日本は戦後恐慌に陥り、財政は悪化し、軍縮を行わざるを得なくなります、1925(大正14)年、久留米に12師団の司令部は移転します。
1935(昭和10)年、現在の大手町には、兵器工場の陸軍造兵廠小倉工廠が開設されました。

藩政時代の商人のひとり、中原嘉左右(かそう)や守永・神崎家は、明治になると地元経済で活躍しますが、金融恐慌を契機に明治後期になると、それまでに進出した中央の資本の支配下に入ります。彼らがかかわったのは石炭、鉄道、汽船、築港、製造工場、銀行など多くの分野にわたっていました。

小倉は九州鉄道、豊州鉄道、小倉鉄道が通っていたり、始発であったりする鉄道網の要でありましたし、城下町でありましたので、商業面では北九州の中心でした。
江戸時代から魚町・京町に商家が並んでいました。明治後期になると、魚町はにぎやかになりました。また、鉄道が開通すると、駅前の室町には商店が集まってきました。
1916(大正5)年、北九州で最初のデパート、兵庫屋デパートがオープンしました。しかし、1920年には閉鎖されました。
1930年代は地方百貨店時代の幕開けの時期で、1936(昭和11)年にはかねやす百貨店、小倉井筒屋が開店します。1938(昭和13)年、菊屋デパートが開店し、後、改称されて小倉玉屋となります。

このように商業都市とともに、小倉は北九州工業地帯の一翼を担っていました。以下主要な工場の設立をみてみます。

1990

明治23

 千寿製紙(十條製紙

1906

明治39

 東京製綱小倉工場

1911

明治44

 九州水力電力変電所

1916

大正5

 大阪砲兵工廠小倉兵器製造所

1917

大正6

 大阪ソーダ小倉工場

1917

大正6

 東洋陶器

1918

大正7

 浅野小倉製綱(住友金属小倉製鉄)

1924

大正13

 東芝電気小倉工場

1929

昭和4

 九州ガス(西部ガス)

1930

昭和5

 帝国酸素小倉工場

1931

昭和6

 九州電力小倉

1933

昭和8

 陸軍造兵廠小倉工廠

1934

昭和9

 東洋セメント小倉(磐城セメント)

1934

昭和9

 段谷産業

1937

昭和12

 東芝油脂小倉工場

1942

昭和17

 日華油脂小倉工場

1946

昭和21

 西日本車体工業



4.小倉の鉄道と駅
 

現在の鹿児島本線は九州鉄道によって建設され、1891(明治24)年4月黒崎−門司間が開通しました。その時開業した駅で、小倉にあるのは小倉駅だけでした。黒崎−小倉間は現在の海岸沿いでなく、内陸部を通る大蔵を経由するルートでした。

1895(明治28)年4月九州鉄道が小倉−行事間を開業します。同年8月豊州鉄道の行橋駅まで延伸され、行事駅は廃止されます。1897(明治30)年、豊州鉄道が行橋−長洲間を開業します。1901(明治34)年、豊州鉄道は九州鉄道に併合されます。そして、九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。この路線は現在の日豊本線です。小倉−行事間の開業当時は小倉・城野・曽根・苅田・行事の5駅でした。

1915(大正4)年、小倉鉄道は東小倉−上添田間の路線を開業します。1943(昭和18)年、この線は国有化され、添田線となります。豊州鉄道が建設した行橋−伊田間の線は国有化され、田川線となります。田川線は彦山まで延長されます。1956(昭和31)年、石田と日豊本線の城野が結ばれます。そして、東小倉−石田間は廃止されます。翌年、香春と伊田が結ばれ、1960(昭和35)年城野−伊田−彦山−夜明を結ぶ路線は日田彦山線となり、香春−添田は添田線となります。1987(昭和62)年国鉄は民営化され、添田線は1988(昭和63)年廃線となります。開業当時の東小倉駅はなくなり、小倉にある当時の駅は石田・石原町・呼野の3駅です。

開業時の小倉駅は現在の西小倉駅の位置にありました。前に言いましたように、黒崎−小倉間は内陸部を通っていました。そして、小倉駅自体ももっと内陸部に造り、小倉−門司間の線路ももっと南側に造るように、政府より指示されていました。これは、海岸沿いに造ると、戦時に、敵の艦砲射撃を受けやすいということでした。しかし、このルートは技術的に難しいため、海岸沿いに仮線として、開通しました。そして、その後、この線を本線とする代わりに、南側に連絡線を敷設し、軍用停車場を設ければよいということになりました。現在の足立中学校、北九州中央郵便局、小倉職安付近に足立停車場があり、日露戦争時利用されましたが、大正時代、線路も停車場も撤去されました。

1958(昭和33)年、小倉駅は現在の位置に新築移転します。山陽新幹線は1975(昭和50)年、博多まで開通しました。小倉駅の北側が新幹線駅で、北九州の新幹線駅となりました。
現在の駅舎は1998(平成10)年3月建設されました。このとき、1985(昭和60)年より開業していました小倉南区の志井とを結ぶモノレールも駅から発着するようになりました。

小倉駅

小倉北・南区の現在の駅は上りから次の通りです。
鹿児島本線 (門司・門司区)−小倉−西小倉−(九州工大前・戸畑区)
日豊本線 小倉−西小倉−南小倉−城野−安部山公園−下曽根−朽網−(苅田・京都郡苅田町)
日田彦山線 城野−志井公園−志井−石原町−呼野−(採銅所・田川郡香春町)

次に路面電車についても記しておきます。
1908(明治41)年設立された九州電気軌道(九軌)が1911(明治44)年門司東本町−八幡黒崎駅前間の電車の営業を始めます。1918(大正7)年、小倉電気軌道が設立され、魚町−北方間の北方線の営業を始めます。1929(昭和4)年、九軌は戸畑線(小倉大門−戸畑−八幡中央区)を増設します。同年、同社はバス事業に進出し、1942(昭和17)年、同社は他社と合併し、西日本鉄道(西鉄)となります。戦後、1980(昭和55)モノレールの開業で、北方線が廃止となり、モータリゼーションの発達によって路線維持が困難となり、1985(昭和60)年、門司−砂津間、戸畑線が廃止となります。



5.小倉の今
 

旧城下町であったため、小倉は商業機能を北九州の中で一番持っていました。それと同時に軍都の機能も持ち、軍需産業がありましたが、終戦により、それらはなくなりました。戦後、隣の戸畑の工業化が進むと、小倉は二次産業から三次産業のウエイトが高くなり、北九州の商業の中心地になりました。

小倉の中心部にあったかねやすは米屋から始まり、明治期呉服屋を営み、昭和に入ると百貨店となりますが、戦後火事にあい、閉店します。
しかし、北九州全体では1960年代まで、九州地域で最大の小売販売額を誇っていました。五市合併後、小倉・黒崎に商業機能が集中する兆しがありました。
1958(昭和33)年、小倉駅が現在地に移転すると、小倉のにぎわいの重心は東に移っていきました。小倉駅前、魚町商店街、そして小倉井筒屋にかけてが小倉の中心地になっていきました。

北九州工業地帯の一翼を担った集積が失われたわけではありません。
住友金属小倉製鉄所は和歌山製鉄所へのバックアップの役割を果たしました。
新しい産業としては、安川電機小倉工場はロボット産業に進出します。
東陶はウォシュレットでブームを引き起こします。

五市合併後、北九州全体の地盤沈下の中で、門司や若松での小売業の売上が低下し、北九州市は福岡市に主役の座を奪われます。
現在、小倉駅周辺の再開発が進み、都心での商業機能の集積が高まっていますが、他の政令都市に比べますと、まだ低位にあります。

1993(平成5)年、小倉駅前に小倉そごうが出店します。しかし、そごう破綻のため、2000(平成12)年末、小倉そごうは閉店します。2002(平成14)年、小倉玉屋は小倉そごう跡に移転してきますが、同年末、65年の歴史に幕を下ろして閉店しました。この後、小倉そごう跡への伊勢丹の進出が決まり、2004(平成16)年2月、小倉伊勢丹が開店しました。
小倉都心部への機能集中はサービス業、金融を含めた三次産業全般にわたっています。

小倉市街地

最近の小倉の状況は、北九州ルネサンス構想の個別の実施で見ていきます。
なお、北九州ルネサンス構想については「北九州の旧五市」の「北九州ルネサンス構想」をご覧下さい。

小倉での構想実施地域は臨空・臨海エリアと都心エリアです。まず、臨空・臨海エリアです。このエリアは門司区と小倉南区にまたがる周防灘に面したエリアです。
フェリー基地と、建設されている新北九州空港、東九州自動車道の陸・海・空の三拍子揃った複合輸送拠点の創出を目指しています。門司区の臨海ゾーンは「門司」をご覧下さい。

ここでは小倉南区の臨空ゾーンとアメニティ未来ゾーンについて書いてみます。
(1)臨空ゾーン
周防灘の海上空港、新北九州空港は大型ジェット機の24時間の離着陸が可能で、2005(平成17)年の開港を予定し、連絡道路の整備が急がれています。また、東九州自動車道の一部が整備されています。この空港と道路を生かした産業団地が予定されています。
(2)アメニティ未来ゾーン
下曽根駅周辺の区画整理事業が行われ、にぎわいのあるまちづくりが行われていますが、新空港建設による現空港の跡地利用は、曽根干潟などの自然環境との調和を図ったまちづくりが期待されています。

次に都心エリアです。JR小倉駅を中心とする小倉北区の市街地が北九州の都心です。ここは北九州及びその周辺の広域都市圏の中心としての役割が期待され、高度で多様な都市機能が強化されています。

都心エリアは5つのゾーンからなっています。
(1)コンベンションゾーン
JR小倉駅北口地区は国際化や高度情報化に対応するため西日本総合展示場、アジア太平洋インポートマート(AIM)や北九州国際会議場などのコンベンション施設が建設され、関連してホテルや商業施設が立地しています。しかし、FAZ(輸入・対内投資法)法に基づく輸入促進施設であるAIMは予定していたキーテナントのヤオハンの関連会社は出店せず、ヤオハン自体が破綻してしまい、大塚家具が代わりに出店しました。それに加えて、入居するテナントが少なく、市が借り上げる面積が増え、FAZ法の枠を外すことも検討されています。
(2)商業メディカルゾーン
JR小倉駅南口地区は従来より魚町・京町・旦過市場などには商業機能の集積が行われていましたが、都心にふさわしい機能充実のため、多くの再開発事業が行われたり、現在も行われています。
しかし、1993(平成5)年小倉駅前東地区市街地再開発事業の再開発ビルに進出した小倉そごうは、そごう自体が破綻し、2000(平成12)年末閉店しました。その後、後継店の目途がつかず、駅前の一等地は閉店されたままでした。2002(平成14)年、小倉玉屋が室町から移転し、そごう跡地で仮営業をしていましたが、同年、65年の幕を閉じました。そして、やっと後継店が決定し、2004(平成16)年小倉伊勢丹が開店しましました。
馬借にありました市立小倉病院は建替えられ、市立病院の機関病院とする医療センターになり、その隣接地には地域福祉ネットワークの中核施設の総合保健福祉センターが建設され、医療と保健福祉の拠点になっています。
(3)リバーサイドゾーン
マイタウン・マイリバー事業として紫川の治水対策が行われ、紫川の景観を生かした周辺市街地の再開発が行われています。紫川には洪水対策や交通渋滞緩和のため10の橋の架け替えや新設が計画され、9の橋は完成しています。
(4)文化・情報発信ゾーン
紫川の西側は小倉城や勝山公園などとともに、市役所、小倉北区役所や文化施設があります。JR西小倉駅に近く、小倉玉屋、ダイエー小倉店、小倉北区役所があった室町1丁目は商業施設、新聞社、放送局、劇場、美術館がある複合施設リバーウォークが2003(平成15)年春完成しました。
リバーウォークに隣接した小倉城には松本清張記念館が建設され、下屋敷跡には日本庭園が整備されています。
(5)都心外延ゾーン
以上4つのゾーンを取り囲む地区は、都心型居住や、沿道型の商業業務機能の集積のよって、都心部との補完関係の形成を図る事業が行われています。



6.小倉のにぎわい
 

小倉駅
小倉駅にはアミュプラザという商業施設と小倉ステーションホテルが入っています。アミュプラザには駅にはつきもののおみやげ品を販売する店舗や食堂街は勿論のこと、ファション関係の専門店がたくさん入っています。

 

 

小倉駅北口
小倉駅の新幹線側の北口には、大型電気店のベスト電器小倉店やシティホテルの小倉リーガ ロイヤルホテルがあります。
若者のファッションビル、ラフォーレ原宿が進出していましたが、撤退しました。

 

 

コレット
小倉駅の表玄関の南口正面の小倉そごうの跡地に、小倉伊勢丹が2004年2月10日オープンしま した。しかし、債務超過となり、提携先の井筒屋に譲渡し、2008年3月25日小倉伊勢丹は閉店 しました。引き継いだ井筒屋は2008年4月1日コレット井筒屋としてオープンしましたが、現
在はコレットになっています。

 

 

魚町商店街
小倉駅の南口の西側に、南北に伸びているのが魚町商店街で、古くからにぎわっている北九州で一番の商店街です。

 

 

旦過市場
魚町商店街から小文字通りを隔てて南に続いているのが旦過市場です。その食材の豊富さと人出の多さでにぎわっています。

 

 

小倉井筒屋
旧電車通りを魚町商店街から西に行くと井筒屋です。地方のデパートが次々と閉店したり、中央のデパートの傘下に入るなか、地元のデパートとして、九州の有数のデパートになっています。

 

 

リバーウォーク
小倉井筒屋の少し先が紫川で、その対岸の小倉城の南側の室町1丁目の再開発で、2003年春オープンしたのがリバーウォークです。ショッピングは勿論、飲食店のほか、映画館、美術館、劇場、NHK、朝日新聞、地図のゼンリンが入っています。

 

 

 チャチャタウン
小倉駅の東側、砂津の西鉄の車庫跡につくられた、観覧車があるショッピングタウンです。北九州の言葉で、「そおっちゃ」というように、語尾にです・ますの意として「ちゃ」を付けることが多いので、ネーミングされました。

 

 

ザモール
以上は全て小倉北区の小倉駅の近くですが、ここは小倉南区日豊線下曽根駅前のショッピングモールです。再開発事業で整備された駅前に、西友を中心に映画館やテナントが入っています。

 

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