北九州の旧五市

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八幡
 

八幡製鐵所と共に発展した工業都市です。

次の内容で紹介します。
1.八幡の昔
2.八幡市域
3.八幡の近代
4.八幡の鉄道と駅
5.八幡の今
6.八幡のにぎわい



1.八幡の昔
 

古代、八幡には大宰府と都を結ぶ官道の夜久(やく、現在の上津役)と独見(ひとみ、現在の前田)の駅がありました。律令下、八幡は筑前国遠賀郡に含まれていました。
律令制が崩れ、荘園が集約された時代、槻田は到津荘、大蔵・枝光・尾倉は小倉(おぐら)荘、黒崎は麻生荘、折尾は山鹿荘、上津役は上津役郷、木屋瀬付近は野面荘、香月は香月荘と呼ばれていました。

 平家滅亡後、東国の御家人が北九州の進出して来ます。山鹿荘を拝領した宇都宮氏の一族が、その前に治めていた山鹿氏の名を名乗り、孫の代になって、その一人が麻生荘、野面荘、上津役郷を譲り受けた際に麻生氏を名乗ります。その後、全領地を土着した麻生氏が治めるようになり、北九州の西側の有力な領主となります。
東国からの御家人だけでなく、在地の領主もいました。そのなかの一人、香月氏は香月荘を治めていました。
麻生氏の居城は花尾城でした。勢力を増した麻生氏は戸畑も若松も支配下に置きました。
室町時代になると、中国地方の守護大名、大内氏の勢いが強くなり、豊前続いて筑前の守護職となり、北九州はその勢力下に入ります。この時代、遠賀川河岸の木屋瀬は宿駅として既に開けていました。
その後、毛利氏が大内氏に取って代わります。
戦国時代、豊後の大友氏の力が強くなり、北九州は大友氏と毛利氏の勢力争いの場となり、ついには毛利氏は追い出されます。しかし、大友氏は北上する島津氏に侵攻されます。大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求め、秀吉によって九州は平定されます。この折、麻生氏は秀吉軍に入りますが、大名にはなれず、筑後に転封されます。
 
関が原の合戦後、筑前国は黒田長政に与えられます。黒田長政は黒崎に、東の備えとして黒崎城を築き、井上周防之房(すおうゆきふさ)を城主とします。しかし、その後一国一城令によって黒崎城は廃城となります。

この黒崎に宿場を置き、東の玄関口として、旅人の手形改めを行いました。八幡には、他に木屋瀬にも宿場を置き、領内の長崎街道の飯塚、内野、山家(やまえ)、原田(はるだ)の四宿をあわせて、筑前六宿といいます。
筑前国と豊前国の国境は現在の大蔵の両国橋あたりで、東岸の小倉寄りは小倉藩で、西岸は福岡藩で、高見には国境を示す国境石があります。
小倉を出た長崎街道は豊前国から筑前国に入り、黒崎宿に着きます。

黒崎宿東構口跡

更に黒崎宿を出て、遠賀川河岸の木屋瀬に向かいます。木屋瀬で、長崎街道は更に南下しますが、遠賀川を渡って、赤間・博多そして唐津に到る唐津街道に分かれます。
 
遠賀川の流域は洪水が多く、福岡藩は悩まされていました。そこで、水害をなくし、灌漑をよくし、舟での輸送の利便のため、藩主長政は堀川の開削を計画します。栗山大膳を責任者にして工事に着手しますが、長政が死去したため、中断します。この後、栗山大膳は、世に言う黒田騒動の首謀者として、盛岡に配流、お預けとなります。
江戸時代は天災が多く、農村は飢饉に見舞われます。藩の財政も米が基本でしたので、大きな影響を受けます。年貢増収のため、福岡藩は、新田開発を計画し、洞海湾の干拓が行われます。17世紀後半には、本城で開作が行われ、熊手、藤田、陣原、穴生の干拓が行われます。18世紀中頃には、城石の開作、本城御開で大開作が行われます。
中断された堀川の開削は再開され、1762(宝暦12)年、開通されます。その後1804(文化元)年、上流の楠橋村寿命(じめ)まで延長されます。
この堀川の開通により、川ひらた(五平太船)による輸送は、遠賀川から堀川で折尾を経由して、洞海湾を渡って、若松に荷物が運ばれるようになりました。
石炭は江戸時代から盛んに燃料として使われるようになります。特に、瀬戸内海の塩田に使われるようになると、その需要は大きくなりました。そして、筑豊の石炭は開通した堀川を通って若松に集まるようになりました。



2.八幡の市域
 

西暦

元号

 市域拡大状況

 1889

明治22

大蔵・枝光・尾倉村が合併して、三村に産土神(うぶすながみ)として八幡神社が祀られていたので、八幡村とします
鳴水・熊手・藤田村が合併して黒崎村となります
木屋瀬・野面・笹田・金剛が合併して木屋瀬村になります
山峰・下上津役・上上津役・引野・市瀬・穴生が合併して上津役村になります
永犬丸・則松・折尾・本城・陣原村が合併して洞南(くきなみ)村となります 洞南村はその後、折尾村となり、折尾町となります

1897

明治30

黒崎村が黒崎町になります

1898

明治31

木屋瀬村は木屋瀬町になります

1900

明治33

八幡村は八幡町になります

1917

大正6

八幡町は八幡市になります

1926

大正15

黒崎町は八幡市に編入されます

1937

昭和12

上津役村は八幡市に編入されます

 1944

 昭和19

折尾町は八幡市に編入されます

 1955

 昭和30

木屋瀬町は八幡市に編入されます

 1963

昭和38

八幡市は五市合併で北九州市八幡区になります

 1974

 昭和49

八幡区は八幡東区と八幡西区に分区されます



3.八幡の近代
 

1891(明治24)年に、現在の鹿児島本線および筑豊本線が、1895(明治28)年には現在の日豊本線が北九州内では開通しています。この鉄道の開通によって、筑豊からの石炭が、直接北九州に輸送されるようになりました。この石炭を基礎にした北九州の工業化が始まるようになります。政府は富国強兵の中、日清戦争を契機に、製鉄所の設置場所を検討していましたが、遠賀郡八幡村に決定します。

1897(明治33)年、官営製鉄所が設立され、1901(明治34)年、溶鉱炉に火が入れられました。この官営製鉄所は1934(昭和9)年、日本製鐵となり、戦後は八幡と冨士に分割され、1970(昭和45)年に再び合併して新日本製鉄となります。この製鉄所の誘致では、敷地の一部は無償の献納であったり、買い上げ価格が時価の半額であったり、敷地が途中で、倍の広さを求められたり、地元民にとっては厳しいものでした。そんな中を八幡村の村長、芳賀種義は必死の説得を行い、やっと誘致されました。

 操業開始地東田にあるシンボルの高炉

八幡村の時代は、人口1200人ほどの寒村でしたが、製鉄所が設立され八幡町になると、6500人に、市域が広がり八幡市になると、8万人、戦後更に市域も広がりましたが、五市合併前には、33万人に膨れ上がっていました。
工業都市への発展の軌跡を見てみますと、製鉄所の設置を契機に、八幡は北九州工業地帯の中核として発展していきます。その特長は、素材生産を重点に置かれた重化学工業が主力で、大きな資本が必要なため、中央資本が主役でしたが、地元資本も活躍しました。その代表が安川・松本家で、八幡に関連があるものとしては、九州製綱、黒崎窯業、安川電機の設立があります。九州製綱は日本製鐵に合同参加しました。黒崎窯業は八幡製鐵所と技術提携し、関連企業となりました。

 以下主要な工場の設立をみてみます。

1879

明治12

 大辻炭砿

1892

明治25

 亜細亜セメント(小野田セメント)

1897

明治30

  八幡製鐵所

1911

明治44

 安田製釘

1919

大正8

 黒崎窯業

1920

大正9

 安川電機

1925

大正14

 大石産業

1934

昭和9

 日本タール黒崎工場(三菱化学)

1938

昭和13

 岡崎工業

1948

昭和23

 山本工作所

1954

昭和29

 三菱セメント

1959

昭和34

 八幡製鐵戸畑製造所


八幡に於ける商店街は八幡製鐵所の3つの通用門近くに形成されていきました。北門にできたのが枝光、東門が中央町、南門が西本町でした。その中で、西本町の町並は、明治末期には既に出来あがっていました。1930(昭和5)年、玉屋デパートは西本町に開店しました。しかし、1932年閉店し、小倉玉屋として移転していきました。
中央町は近くに市役所やビジネス街もある工業都市八幡の都心になっていました。1932(昭和7)年、中央町に九州百貨店(丸九と呼んでいました)が開店しましたが、1945(昭和20)年空襲により焼失しました。1954(昭和29)年再建され、八幡丸物百貨店(京都丸物百貨店の系列店)となりましたが、その後閉店となり、建物は撤去され、跡地は銀行の支店となっています。



4.八幡の鉄道と駅
 

現在の鹿児島本線は九州鉄道のよって建設され、1891(明治24)年2月遠賀川−黒崎間が開通しました。駅は遠賀川、折尾、黒崎の3駅で、八幡にあるのは折尾、黒崎の2駅でした。その年の4月、黒崎−門司間が開通しました。しかし、その時の黒崎−小倉間は、現在の海岸沿いではなく、内陸部を通る、大蔵を経由するルートでした。開業時は黒崎−小倉間は駅はありませんでした。
このように九州鉄道が現在の鹿児島本線を建設している頃、九州で2番目の鉄道会社、筑豊興業鉄道が設立され、同年8月、直方−若松間が開通しました。駅は直方、中間、折尾、若松の4駅で、八幡にあるのは折尾の1駅です。3年後、同社は筑豊鉄道と改称されます。その後路線は延伸され、筑豊本線となります。
九州鉄道の黒崎−小倉間は途中駅はありませんでしたが、当時の遠賀郡八幡村大蔵の地元の要望があり、1898(明治31)年、大蔵駅が開業されました。この駅は現在の大蔵公園にありました。
このような内陸ルートにしたのは、現在の海岸ルートにすると、距離は長くなるし、戦時に敵の艦砲射撃を受けやすいという理由でした。1897(明治30)年、八幡村に官営製鉄所が開所し、戸畑村では築港が行われており、海岸ルートの要望が高くなりました。1902(明治35)年12月、海岸ルートは開通します。この時開業したのは八幡、戸畑の2駅で、八幡にあるのは八幡の1駅です。

九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。海岸ルートは複線化されますが、内陸ルートは1911(明治44)年廃線となり、大蔵駅も撤去されます。内陸ルートの遺構のレンガ造りの橋が九州鉄道茶屋町橋梁として保存されています。
1987(昭和62)年、国鉄は再度民営化され、現在JR九州になっています。 

九州鉄道茶屋町橋梁

折尾駅は遠賀郡洞南(くきなみ)村に建てられました。九州鉄道と筑豊興業鉄道の折尾駅は個別に建てられました。不便だということで、2階の九州鉄道と1階の筑豊鉄道の共同駅が1895(明治28)年建てられました。珍しい立体交差駅で、九州で最初でした。その後、折尾駅は1916(大正5)年建替えられます。門司港駅に次いで、北九州で2番目に古い駅舎です。
折尾駅の前を堀川が流れています。堀川は江戸時代開削された運河で、鉄道が開通するまでは堀川を川ひらた(五平太船)が石炭を運搬していました。直方−若松間の鉄道が開通すると、主役を奪われ、1939(昭和14)年には川ひらたはほとんど見られなくなりました。
 
黒崎駅は遠賀郡黒崎村に建てられました。黒崎駅は1984(昭和59)年、橋上駅となり、駅前はペストリアンデッキ(人工地盤)になっていて、地上より高いところに駅前広場があります。そして高架の連絡道で各方面とつながっています。
 
八幡駅は、両駅より遅れて、黒崎−小倉間の海岸ルートが開通して、遠賀郡八幡町に建てられました。現在の八幡駅の東、春の町の北側、国道3号線(復興道路)付近になります。戦後復興期の1955(昭和30)年、現在地に移転新築され、駅の下がトンネルになり、国道3号線が通っています。

八幡東・西区の現在の駅は上りから次の通りです。
鹿児島本線 (戸畑・戸畑区)−枝光−スペースワールド−八幡−黒崎−陣原−折尾−(水巻・遠賀郡水巻町)
筑豊本線 (二島・若松区)−本城−折尾−(東水巻・遠賀郡水巻町)
 
次に路面電車について記しておきます。
1908(明治41)年設立された九州電気軌道(九軌)が門司・東本町−黒崎駅前間の電車の営業を始めます。黒崎駅前−折尾間の折尾線は1914(大正3)年開通します。この線は他の北九州線が路面電車だったのに対し、郊外型の路線でした。その後、中央町−枝光と伸ばしていた路線が、既に開通していた小倉・大門−戸畑と連結して、1929(昭和4)年戸畑線が開通します。
同年、同社はバス事業に進出し、1942(昭和17)年同社は他社と合併し、西日本鉄道(西鉄)となります。
戦後、モータリゼーションの発達により、路線維持が困難となり、1985(昭和60)年戸畑線が廃止になり、1992(平成4)年砂津−黒崎駅前、最後に2000(平成12)年折尾線が廃止になりました。
 
北九州にはもう一つ私鉄が通っています。戦前から福岡、北九州と筑豊を結ぶ路線が計画され、西鉄により筑豊電鉄が設立され、1956(昭和31)年貞元−筑豊直方間が開通しました。しかしその後、炭坑の閉山が相次ぎ、路線はそこで打ち止めとなりました。現在の路線は黒崎駅前からとなり、沿線のベットタウン化により、郊外型の通勤・通学路線となっています。
 
北九州の路線バスは主に西鉄バスが運行されていますが、一部北九州市営バスが運行されています。八幡では折尾、本城方面を市営バスが運行しています。詳しくは「若松」で説明します。



5.八幡の今
 

八幡製鐵所を中心に、重化学工業の集積が厚く、八幡は北九州工業地帯の中心を形成していました。戦後も、傾斜生産方式や朝鮮戦争の特需で、生産力は回復しました。八幡製鐵所は、その後急増する鉄鋼需要への対応、国際競争への対応のため、銑鋼一貫の臨海製鉄所を戸畑に建設します。そして、しだいに八幡から戸畑へ生産拠点を移してゆきます。その後、製鉄各社は太平洋ベルト地帯や大消費地を指向して新鋭銑鋼一貫製鉄所を建設します。八幡製鐵所は新設の君津製鉄所の兵站基地の役割を担います。
1970(昭和45)年、新日本製鐵が発足します。
1972(昭和47)年、製鉄所発祥の地東田で、高炉の操業が停止されます。八幡の工場は高級鋼の加工拠点に再編されます。
三菱化学の前身三菱化成の時代、黒崎工場から水島工場へバックアップが行われました。
重化学工業のほか、重電機の安川電機がありますし、金型の三井工作所は三井ハイテックとなり、ICリードフレームでは世界的シェアーを有しています。
 
八幡製鐵所の3つの通用門近くに形成されていた商店街は、工場の主力が戸畑に移行したことと、他の製鉄所への人員の移動、それと地域の高齢化によって、昔日の面影はなくなっています。
江戸時代の宿場町黒崎は、筑豊電鉄の開通と八幡西南部の市街地の拡大により、北九州市発足後は、副都心と言われるほどにぎやかになりました。

八幡製鐵所の発祥の地である東田から戸畑に工場が移転し、その跡地の一角にテーマパークのスペースワールドが1990(平成2)年オープンします。
同年、戸畑に総合センターが完成し、東田の隣接地の枝光にあった本事務所の機能は移転し、その建物は撤去され、その跡には八幡ロイヤルホテルが建てられます。そして、工場の外周を通っていたJRの線路はショートカットされて東田を通り、スペースワールドの前にはスペースワールド駅が新設されています。 

スペースワールド

黒崎は北九州の副都心と言われましたが、周辺を含むこの地域から人口が流出し、郊外に大型店ができ、地域では大型店の閉店・閉鎖が相次いでいます。それに加えて、小倉が北九州の中心としての地位を高め、若者を中心に福岡への関心が高まるにつれて、黒崎の地位は相対的に低くなっています。
 
最近の八幡の状況は、北九州ルネサンス構想の個別の実施で見ていきます。
なお、北九州ルネサンス構想については「北九州の旧五市」の「北九州ルネサンス構想」をご覧下さい。
八幡には八幡東区の八幡東田・平野エリアと、八幡西区の副都心エリアと、八幡西区と若松区にまたがる学術・研究エリアがあります。
まず、八幡東田・平野エリアを見てみます。1901(明治34)年八幡製鐵所が操業して以来、東田はその発祥の地でありましたし、平野は従業員の社宅が建ち並んでいました。しかし、その役割は変わり、新しいまちづくりが進んでいます。
(1)八幡東田ゾーン
八幡製鐵所の主力が戸畑に移って、東田の一角に1990(平成2)年、テーマパークのスペースワールドがオープンしました。そして、博物館が開館し、東田第一高炉はシンボルとして残され、その跡地は整備されました。産業を支える技術や知識を次代に引き継ぐ施設の建設も計画されています。広大な遊休地は都市機能が整備され、マルチメディア・情報関連産業が誘致されています。今後は商業施設や集合住宅の建設が計画されています。
(2)国際交流ゾーン
生産施設や産業技術の蓄積を生かして、国際的な技術研修や大学教育を通じた国際交流の場が整備されています。開発途上国からの研修生の受け入れや国際協力の情報提供をする国際協力事業団(JICA)の九州国際センターが開設され、海外からの研修生と市民や学生の交流の場である九州国際村交流センターが建設されています。隣接地に九州国際大学のキャンパスが建設され、以前あった枝光からここに統合されました。他に、市立八幡病院が北九州の西部の救急医療機関として整備・充実されています。また、八幡駅前の老朽化した市街地が、その立地を活かして、高度利用するため再開発されています。
 
副都心エリアは小倉を都心とするのに対し、黒崎を北九州の西部の中心地として考え、市外の中間や遠賀郡から宗像にかけての戦略拠点としての広域的なまちづくりが計画されています。
(1)商業・交通拠点ゾーン
大形商業施設や商店街のある黒崎駅周辺では、駅西地区の市街地再開発事業が行われました。バスターミナルが整備され、JR黒崎駅、筑豊電鉄との接続がスムーズになりました。車両の駐車場が新設整備されました。以上の施設をまとめた再開発ビルに大型商業施設コムシティが2001(平成13)年11月開業しましたが、2003(平成15)年5月破綻しました。採算性や予測の甘さが指摘されています。これ以前にも、トポス・長崎屋・黒崎そごうの閉店など黒崎地区の地盤沈下が言われていました。コムシティの今後や黒崎地区全体の活性化など大きな問題を抱えています。今後、国道3号線の黒崎バイパスの着工が予定されていますが、その完成の頃の黒崎の姿が今までの計画でよいのか検討される必要があります。
(2)文化・健康ゾーン
九州厚生年金病院が岸の浦の八幡製鐵所社宅跡地に新築移転します。この地区には社会保険施設等があります。病院の跡地は文化・交流の拠点に整備することが計画されています。曲里地区には北九州プリンスホテルがあり、ここにはテニスコートやアイススケート場がある都市型リゾートホテルになっていますし、その横は旧長崎街道の松並木が整備されています。なお、八幡西区役所は移転改築が計画されています。
(3)環境共生ゾーン
皇后崎・陣原・穴生・竹末一帯の環境に優しいまちづくりが進められています。穴生の八幡製鐵所社宅跡地に住宅・道路・公園の整備が一体に行われ、環境共生高層集合住宅が建てられ、年長者のスポーツやレクリエーションのためのドームや研修大学校が建設されています。三菱化学の貯水池の周辺を整備して瀬板の森公園が開園されています。貨物駅跡地を整備してJR陣原駅が開業し、駅周辺が整備されています。工場団地の皇后崎にはゴミ処理の工場が更新・建設されています。
 
学術・研究エリアは八幡西区北西部から若松区西部にかけての北九州学術研究都市と折尾地区になります。
(1)学研ゾーン
理工学系の大学や研究機関を集積して、新時代の学術研究都市の建設が行われています。北九州市立大学・九州工業大学・早稲田大学・福岡大学・英国クランフィールド大学・ドイツ国立情報処理研究所の学部・学科・研究所が設置されています。これらの研究施設を中心に周辺に住宅・道路・公園が整備されてまちづくりが進められています。
(2)文教ゾーン
鹿児島本線と筑豊本線が交差する折尾は交通の便がよく、昔から学校が多い地区でした。学術研究都市のアクセス拠点ともなった折尾地区は人口の流入も多く、折尾駅周辺を含めての総合整備事業が計画されています。老朽化した八幡西区役所折尾出張所や八幡西消防署折尾出張所は新築移転した折尾警察署の近くに新築移転しました。
折尾に隣接する本城地区も人口増の地区で、折尾駅への集中を緩和する目的で、筑豊本線本城駅が新設されました。 



6.八幡のにぎわい
 

黒崎井筒屋
2000(平成12)年7月そごうが破綻すると、黒崎そごうは同年12月閉店しました。ふれあい通りにあった黒崎井筒屋は、翌年の10月黒崎駅東のそごう跡に移転開業しました。黒崎駅とはペデストリアンデッキ(人工地盤)でつながっています。

 

 

黒崎商店街
周辺にあった企業の社宅はほとんどなくなりました。JR・筑豊電鉄・バスの駅やターミナルがある地区でしたが、それらで連絡している郊外には大型商業施設ができました。黒崎の地盤沈下が言われています。今後は北九州でも有数の商店街の底力を期待します。

 

 

サンリブ折尾店
国道3号線から若松に通じる国道199号線は狭く、折尾で渋滞していましたので、新しくこの道路ができました。折尾駅から九州共立大学等があるキャンパスまでの学園大通りと国道199号線が交差する一角にサンリブ折尾店のショッピングセンター2棟が建っています。

 

 

メルクス本城
ホームセンターと食料品がメインで、数店のテナントが入ったショッピングセンターです。ここ本城と折尾、若松区二島は車で数分の距離で、他にも大型店がひしめいていて、食料品や日用品は北九州では最も価格競争の激しい地域になっています。

 

 

則松〜三ヶ森
則松から三ヶ森の間の金山川に沿った地域が開発されました。これまでこの地区を囲んだ高台にしか住宅地はなく、平坦地のここは農地でした。この地区の南北に走る幹線の沿線に広い駐車場を持った様々な店舗が進出しています。住宅は店舗の後方に建てられています。
以上5つが八幡西区で、次は八幡東区です。

 

 

中央町商店街
八幡製鐵所の主力が八幡から戸畑に移り、君津に人々が移動し、東田地区から工場がなくなり、商店街の人出は少なくなりました。しかし老舗商店街は頑張っています。近年、起業祭は製鐵所から地域主催になり、毎年にぎやかに開かれています。

 

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