北九州の旧五市

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若松
 

石炭積出港として発展してきました。

次の内容で紹介します。
1.若松の昔
2.若松市域
3.若松の近代
4.若松の鉄道と駅
5.若松の今
6.若松のにぎわい

 

1.若松の昔
 

古代律令下、若松は筑前国遠賀郡に属していました。
中世、この地を治めた麻生家の文書には、若松、二島、修多羅(すたら)、岩屋、脇田、在毛(ありげ、現在の有毛)の地名があり、現在もそのまま残っています。

江戸時代になると、筑前国に入った黒田長政は国境警備のため、洞海湾の中ノ島(現在の若戸大橋付近、戦前削り取られて、現在はありません)に若松城を築城、三宅若狭家義を城主とします。船を備えて、洞海湾を往来する船の取り締まりに当たらせますが、一国一城令により廃城となります。

その後洲口番所が置かれました。これは船改番所で、出入国を管理していました。
1720(享保5)年、それまで芦屋に置かれていた福岡藩の米蔵が、若松の修多羅に移されました。ここから米は大坂に輸送されました。

若松渡し場前の洲口番所跡

若松は唐津街道の東端の宿駅で、二島を経て山鹿に至り、遠賀川を渡り、芦屋宿に着きました。唐津街道は芦屋から赤間を経て、博多・唐津に至りますが、木屋瀬から赤間に至る道もありました。

 江戸時代は天災が多く、農村は飢饉に見舞われます。藩の財政も米によるものであったため、大きな影響を受けます。年貢増収のため、福岡藩は新田開発を計画します。若松では17世紀後期、蜑住(あますみ)から竹並にかけて干拓が行われ、これにより払川村ができました。
 
遠賀川の水害をなくし、灌漑をよくし、舟での輸送の利便のため、藩主長政は堀川の開削を計画しますが、工事は中断されます。1762(宝暦12)年、中断された堀川の開削は再開され、開通しました。その後1804(文化元)年、堀川は上流の楠橋村寿命(じめ)まで延長されます。この堀川の開通により、川ひらた(五平太船)による輸送は、遠賀川から堀川で折尾を経由して、洞海湾を渡って、若松に荷物が運ばれるようになりました。年貢米の輸送も、堀川を通って洞海湾に出て修多羅に運ばれました。
 
江戸時代より、米とともに石炭が堀川を利用して若松に運ばれました。石炭は薪の代わりに使われますが、その臭気が嫌われます。しかし、殻(がら、石炭を蒸し焼きにしてつくる)が使われるに従い、採炭量は増え、瀬戸内海の塩田の塩焼き釜に使われだすと、その需要は増大します。そのため、福岡藩では、石炭を統制下に置き、芦屋・若松に設置した焚石(たきいし)会所を通じて取引しました。小倉藩の田川郡で採掘した石炭は国境で福岡藩に引き渡し、若松焚石会所で委託販売されました。

2.若松の市域

西暦

元号

市域拡大状況

1891

明治24

若松村が若松町になります

1898

明治31

若松町は石峰村修多羅(すたら)地区を併合します

1906

明治39

若松町は石峰村を併合します

1927

大正3

若松町が若松市になります

1931

昭和6

若松市は島郷村を併合します

1963

昭和38

若松市は五市合併で北九州市若松区になります



3.若松の近代
 

明治に入ると、県は若松と芦屋に石炭役所を開設します。この頃の筑豊の炭坑は小規模なものが多かったのですが、規模の拡大化が計画されます。その大鉱区獲得に中央資本が参入し、筑豊御三家といわれた麻生、貝島、安川・松本の地元資本も対抗します。
江戸時代からの筑豊-遠賀川-堀川-洞海湾-若松の川ひらた(五平太船)による遠賀川水運は明治20年代が最盛期でした。競争も激しく、収入も多いが危険も多く、きっぷのよさと喧嘩早いが情にもろい、川ひらた(五平太船)の船頭達の川筋気質は、石炭に関係する人々にその後も引継がれていきました。
石炭がエネルギーの中心になるにつれて、その輸送の大規模化が検討されます。そして、若松築港と筑豊興業鉄道が中央資本と地元資本の共同事業として設立されました。1891(明治24)年、直方−若松間の鉄道が開通します。この開通により、石炭の輸送量は増え、最初は門司港の石炭積出量が多かったのですが、しだいに若松港が追いつき、追い越し第1位になります。

この様にして、若松は石炭を中心にして、その輸送に携わる沖仲仕(ごんぞう)、鉄道や船の輸送機関、商社、問屋、鉄工所、商店、その他サービス業で繁栄します。こんなまちの様子は火野葦平の「花と龍」に描かれています。しかし、石炭の積替え作業も、人力から石炭桟橋から直接積替えられたり、ガントリークレーンによって機械化されたりして、しだいに沖仲仕の数も減っていきます。

旧古河鉱業ビル

このような石炭積出港とともに、若松は北九州工業地帯の一翼を担っていました。
以下主要な工場の設立をみてみます。

1892

明治25

 九州鉄道若松工場

1916

大正5

 東海鋼業若松工場

1917

大正6

 日本油脂若松工場(日華油脂)

1919

大正8

 日本板硝子

1921

大正10

 城水鉄工所

1923

大正12

 今村製作所

1927

昭和2

 日本化薬若松工場

1932

昭和7

 永田製作所

1935

昭和10

 東海電極若松工場

1938

昭和13

 服部製作所

1941

昭和16

 洞海造船

1943

昭和18

 栃木造船(九州造船)

1945

昭和20

 日炭高松鉱業所

1946

昭和21

 植田歯車

1963

昭和38

 電源開発若松


若松は石炭積出港として発展を続け、それに伴って商業活動が活発となり、大正・昭和にかけて、本町筋は大変なにぎやかになり、明治町はおしゃれの商店街でした。1938(昭和13)年、メインストリートの中川通りに丸柏百貨店が開店しました。戦後、丸柏百貨店の経営が井筒屋に移り、若松井筒屋となります。



4.若松の鉄道と駅
 

九州で2番目の鉄道会社、筑豊興業鉄道が設立され、1891(明治24)年8月、直方−若松間が開通します。駅は直方、中間、折尾、若松の4駅で、若松にあるのは若松1駅だけでした。3年後、同社は筑豊鉄道と改称され、1897(明治30)年、現在の鹿児島本線を建設していた九州鉄道に併合されます。そして、九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。この直方−若松間が筑豊本線のスタートとなります。
この路線の目的は、筑豊からの石炭輸送でした。そのため、炭鉱があるところに路線を延伸していきました。それまでは遠賀川の河口の芦屋や、遠賀川から運河の堀川を経由し、洞海湾の若松への川ひらた(五平太船)での輸送が主でした。鉄道の開通により、主役は入替りました。明治末には鉄道の1割に減ってしまい、1939(昭和14)年には川ひらたはなくなってしまいました。
 
1940(昭和15)年が石炭輸送の量のピークでした。戦後も、大量の石炭を運び、復興の基礎を支えますが、昭和30年代、エネルギー革命により、石炭需要が急減し、炭鉱も閉山が続き、筑豊本線の支線の廃線となっていきます。1968(昭和43)年、篠栗線が延長し、筑豊本線と接続され、鹿児島本線とは違う、筑豊経由福岡−北九州の路線ができ、近年は電化され、福北ゆたか線と命名されています。しかし、折尾−若松は電化されていません。現在は、筑豊から炭鉱がなくなり、若松への石炭輸送もなくなりました。1987(昭和62)年、国鉄は再度民営化され、現在はJR九州となっています。

若松駅は遠賀郡若松町に建てられました。建てられたのは現在より南側の洞海湾寄りでした。開通した頃、運ばれた石炭は人力によって貨車から船に積替えられました。この作業に従事していた沖仲仕をごんぞうと呼んでいました。この人たちを主人公にしたのが、火野葦平の「花と龍」です。その後石炭桟橋ができ、桟橋の貨車から直接船倉に入れられるようになり、大型クレーンも設置され、機械による積替えができるようになりました。そうなると沖仲仕たちは必要ないようになりました。年々輸送量は増えるにつれて、石炭貨車の操車のために駅構内が狭くなりました。1920(大正9)年、構内を拡張し、駅舎は現在地に移転、新築されます。

操車場から最盛期には年間1,000万トンの石炭が船積みされました。この操車場のほか機関区・客貨車区・鉄道工場・保線区等の機関が次の藤ノ木駅に到るまでの用地に設けられました。
しかし戦後、エネルギー革命により、石炭から石油に主役が代わると、広大な駅構内は不要となり、集合住宅が建ち並ぶニュータウンに衣更えします。1984(昭和59)年、現在の駅舎に建替えられます。

操車場跡に展示されている9600型機関車

若松区の駅は上りから次の通りです。
筑豊本線 若松−藤ノ木−奥洞海−二島−(本城・八幡西区)
 
若松には北九州のほかの4つの地区と違って路面電車はありませんでした。北九州市営バスは1929(昭和4)年若松市営バスとして若松渡し場と折尾間の運行が開始されました。当初は5台の小型バスで運行されたようで、車庫は大正町、現在の丸仁市場当たりにあったようです。1963(昭和38)年五市合併で北九州市になりますと、交通局が担当部局の北九州市営バスとなりました。現在路線は一部西鉄バスが乗り入れているところもありますが、若松区と八幡西区西北部をほぼ単独運行しています。
 
1975(昭和50)年まで若松区の目抜き通りを電車が走っていました。しかし、それは市営貨物電車でした。1936(昭和11)年国鉄若松駅と臨海埋立工業地帯の間、旧中川通りに貨物電車の軌道が敷設され、開業されました。戦争の拡大と石炭の増産によって軌道は北湊の各工場に拡げられました。1960(昭和35)年頃までは順調でした。しかし、石炭産業の衰退、輸送形態の変化により、その後赤字に転落し、沿道住民の運行反対の声も強く、昭和50年廃線となり、現在はその面影さえありません。



5.若松の今
 

筑豊からの石炭の積出港として、若松は発展してきました。石炭の積出量は1940(昭和15)年がピークで、戦後、復興期には石炭がエネルギーの基礎を支えましたが、昭和30年代後半、石炭から石油へのエネルギー革命が始まると、斜陽化し、筑豊の炭鉱も閉山となり、1982(昭和57)年、石炭の貨物取扱は廃止されました。

響灘の埋め立てが始まり、1962(昭和37)年、若戸大橋が完成すると、北九州工業地帯の中心部と直結することになりました。翌年、五市は合併し、北九州市が発足します。
昭和50年代には響灘廃棄物埋立護岸が行われ、廃棄物処理場に廃棄物投棄が始まります。
響灘の沖合いの白島にエネルギーの安全保障に対応するため、大型浮体式貯蔵船石油備蓄基地が、途中防波堤の被災事故もありましたが、1996(平成8)年10年以上を要して完成しました。

響灘に広がった埋立地

小売業は1960年代まで、北九州全体では九州地域では最大の販売額でした。しかし、五市合併後は、小倉・黒崎に商業機能が集中する傾向が強くなり、若松の販売額は減少していきました。その様な傾向の中、戦前から続いていました丸柏百貨店、後に経営が代わり改称された若松井筒屋が閉店し、建物も撤去されました。

最近の若松の状況は、北九州ルネサンス構想の個別の実施で見ていきます。
なお、北九州ルネサンス構想については「北九州の旧五市」の「北九州ルネサンス構想」をご覧下さい。
 
若松には戸畑区と若松区にまたがる若戸エリア、響灘・エコタウンエリア、八幡西区と若松区にまたがる学術・研究エリアの3つがあります。まず若戸エリアを見てみます。戸畑区に関するゾーンは「戸畑」をご覧下さい。若松区に関してはウォーターフロントゾーンがあります。
ウォーターフロントゾーン
洞海湾に面する若松南海岸は、かって筑豊炭田の積出港として栄えました。その面影が建物等に残っています。また高度成長期には死の海と言われた洞海湾も、公害克服に官民が取組んだ結果、きれいな海がよみがえって、ウォーターフロントの開発が進められています。
旧国鉄若松駅操車場跡地を利用して久岐の浜ニュータウンが建設されました。このニュータウンから若松渡船場にかけてのプロムナードの整備が行われました。その途中にある若松南海岸のシンボル的建物の旧古河鉱業ビルはコミュニティ施設として保存活用されることになりました。若松駅と洞海湾に近い市街地の再開発が行われ、集合住宅・駐車場・市立図書館、それに商業施設の入ったベイサイドプラザ若松が建設されました。
若戸大橋は4車線化されていますが、今後増加が予想される響灘地区へのアクセスとして、トンネルの新若戸道路の建設が行われています。
 
響灘・エコタウンエリアは若松の北側の響灘の埋立地の東部でエコタウン事業を推進し、西部で大水深港湾を建設し、隣接する響灘緑地に緑豊かな自然環境の中の市民の憩いの場を整備するものです。
(1)エコタウンゾーン
公害を克服した経験と技術を生かして、資源循環型経済社会を構築するため、廃棄物処理技術やリサイクル技術の研究開発が進められています。現在、ペットポトル・OA機器・自動車・家電・蛍光管・医療用具等のリサイクル事業が操業中です。また、PCB処理事業が予定されています。
(2)環黄海ハブポートゾーン
コンテナ船の大型化に対応するため、水深15m級の岸壁をもつひびきコンテナターミナルが建設されています。これはアジア、特に環黄海のハブポートを目指すものです。ところで、ひびきコンテナターミナルは公共事業に民間企業の資金やノウハウを活用するPFI方式を採用し、ガントリークレーンや管理棟等を運営会社が整備するようになります。シンガポールの港湾運営会社PSA社と日本側の企業・市で運営会社を設立する予定でしたが、PSA社が2002年経営改善を理由に運営会社への出資比率を引き下げることを決めたため、調整が難航し、2003年末の設立予定は延期となりました。初期投資を縮小し、資本金も減額する予定になっています。
このゾーンには市内の一般廃棄物の最終処分場があります。環境保全を図って整備されています。
(3)レジャーゾーン
頓田貯水池を中心にした響灘緑地は自然を活かして整備され、北九州最大の公園、グリーンパークと呼ばれています。その北にある脇田漁港は、新しい漁港・漁村づくりを行い、地域の活性化を図り、都市住民と漁民との交流の場をつくるという、マリノベーション事業が進められています。南にある八幡西区の本城運動公園には陸上競技場や野球場が整備されています。
 
八幡西区から若松区にまたがる学術・研究エリアのうちの学研ゾーンは八幡西区北部から若松区西部にまたがっている北九州学術研究都市ですが、八幡で紹介していますので、「八幡」の(1)学研ゾーンをご覧下さい。



6.若松のにぎわい
 

本町商店街
若松は古くから筑豊の石炭の輸送・販売拠点でしたので、早くから都市化されていました。そして、その中心が現在の本町商店街です。その当時のにぎわいはありませんが、商店街の広さはその当時の名残かもしれません。

 

 

ベイサイトプラザ若松
洞海湾に面して、若松駅に近い地区の市街地再開発事業が行われ、2棟の建物が建てられました。キーテナントはスーパーのサンリブ若松店で、他に地元のテナントが入り、図書館が併設されました。上層は住宅になっていて、駐車場も完備しています。

 

 

イオン若松ショッピングセンター
1919(大正8)年建設され、1977(昭和52)年に閉鎖・撤去された日本板硝子若松工場の跡地が二島にありましたが、ここに2002(平成14)年イオン若松ショッピングセンターがオープンしました。ジャスコをメインに多数の専門店が入っています。このオープンにより、若松区西部、隣接する八幡西区本城・折尾地域は商業激戦区になっています。

 

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