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弥生時代 
 

1.弥生式土器

紀元前3世紀の福岡市板付の水田遺跡で、弥生式土器の板付式土器が発見されます。文様は単純で、赤味を帯びたこの土器は九州一円から四国南部まで急速に広がってゆきます。
弥生式土器というのは、明治時代、東京都文京区弥生町の貝塚から発見されたもので、縄文式土器の一種と思われましたが、その後、その差異に気付き、別に名前を付けられ、しだいに縄文より新しい時代のものと認識されるようになりました。
紀元前3世紀から紀元3世紀の期間を弥生時代と呼び、土器の形態から前期・中期・後期に区分されます。従来の狩猟・漁労・採集に稲作が加わりました。縄文時代以来、朝鮮半島・済州島・対馬・壱岐・北部九州・瀬戸内海などの地域を結ぶ海人の交流が文化の伝播を支えていました。

 

2.稲作

遠賀平野での稲作適地は、遠賀川が土砂を運び形成した沖積土三角州の周辺地域でした。洞海湾に面した河川に形成された沖積地なども稲作適地でした。

遠賀川流域の立屋敷(水巻町)から出土した弥生前期の土器は遠賀式土器と呼ばれ、紀元前2世紀には南は薩南諸島の一部、東は伊勢湾沿岸と丹後半島を結ぶ線まで広がっていました。
川の土砂が堆積する泥質の沖積地は稲作の適地でした。米は道具との交換が可能でした。それは財産として価値を持ちました。集落間での格差が広がり、水田をめぐって争い、あるときは助け合って灌漑工事を完成させました。いくつもの集落を有力な集落が支配し、その首長は農事や灌漑工事、祭祀を行い、時には戦って一定地域を支配するようになりました。このようにして、弥生時代は身分差が生じるようになります。

水巻町の立屋敷遺跡あと 後は遠賀川

遠賀川式土器と同じように弥生前期の土器の高槻式土器が出土した高槻遺跡群(八幡東区)では、石斧とその未完成品が発見されました。近くの山にある石材を原料にして製作されています。これはもっぱら集落内で使うことを目的に作られましたが、周辺各地に分布していますので、交易で流通していったと思われます。
前述しましたように、稲作だけではまだ食料は不十分でした。小倉南区の長野小西田遺跡では、ドングリを水にさらしてあくを抜いた30m以上もの水さらし場遺構が発掘されています。

八幡東区松尾町の高槻遺跡石碑


紀元前1世紀から紀元1世紀の弥生時代中期になると、青銅器製の武器や楽器が朝鮮半島より入ってきて、そのうち国内で鋳造されるようになります。そしてそれらはしだいに祭祀に使われるものとして、銅剣・銅鉾・銅戈・銅鐸が作られます。銅鏡は中国製のものが朝鮮半島を経由して入ってきます。中国製の鏡や、後、国内で作られた倣製鏡も副葬されて出土します。
鉄器も弥生時代初めより朝鮮半島から入ってきて、中期には木工具・農具・武器の鉄器が揃いました。後期には実用器は石器から鉄器に完全に移行しました。
水田耕作には鉄製の工具や石斧で作られた木製の鍬・鋤・えぶりが使われました。収穫には石包丁のほか、木・竹で作られた道具で穂首が刈られ、木臼や竪杵などで脱穀され、収穫した米や種籾は高床式の倉庫で保管されました。
首長はこれらの倉庫の管理や季節ごとの農耕神事や様々な祭祀を主宰し、水田の造成や灌漑のための集団労働を指導するなどその役割は大きくなってきました。
この時代、採集や狩猟・漁労も行われていました。漁労に関わった海人は専業化の方向に向かいました。土器による製塩も専業・集団化していきました。石斧を作る工人や青銅器を鋳造する集団が生まれました。船による海人たちの活躍は各地との交易や海外との交流を支えました。このようにして共同体の間の分業や交易が活発になりました。

 

弥生時代の北部九州の葬り方としては、大きな甕に入れて葬ることが多かったのですが、この甕を甕棺といいます。これに次いで、板石を組み合せた箱式棺が多く、他に土を掘って埋めただけの土壙墓などがあり、これらは地上に目印はありません。数個の石を置いて、その上に大きな石を置く支石墓は南朝鮮の影響を受けたものと思われます。これらの墓の多くは副葬品を伴わないものが多いのですが、なかには青銅器や鉄器、玉類や装身具を副葬したものがあります。これはこの時代、身分差ができたことを物語っています。

 

3.邪馬台国

「古事記」や「日本書紀」が書かれたのは8世紀に入ってからです。ここで取り上げる4世紀までの日本には文字での記録はありません。ここでは中国や朝鮮の状況と中国で記録された日本の状況を見てみます。

紀元前202年、中国を前漢は統一します。この動乱の中、衛満が朝鮮に亡命し、紀元前195年、彼は王を追放し、自分が王になります。衛氏朝鮮の成立です。衛氏朝鮮は領土拡大を狙って中国からの移民を受け入れます。このため、土地を奪われた朝鮮の人々が北部九州に多く渡って来たと言われています。
前漢は武帝の時代、朝鮮半島に侵入し、四郡を置きます。その後、四郡のうち二郡が廃止され、一郡は縮小され、楽浪郡のみが繁栄します。この楽浪郡に周辺の民族の首長は交易を求めます。
「漢書地理志」に、紀元前1世紀頃、倭国が100余国に分かれて、楽浪郡に交易に来ていることが書かれています。

紀元前1世紀頃、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗ができます。前漢はこの頃から衰え、ついには滅び、新になりますが、それも滅び、後漢の光武帝が統一します。
「後漢書東夷伝」に、紀元57年、その様な中国の動きに対応して、倭の奴(な)国王が使者を光武帝に送り、印綬を授けられたことが書かれています。江戸時代、福岡市の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、この印綬であると言われています。
同じく後漢書に、107年、倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう・奴隷のこと)160人を献じたと書かれています。この倭国はどの国か分りませんが、当時、北部九州の首長達は活発に活動していたと思われます。

福岡市志賀島の金印公園


この頃、朝鮮半島の南部の韓には馬韓・辰韓・弁辰がありました。そしてその中は小国に分立していました。しかし、名目的な君主が立てられ、それらを代表して外交を行っていました。後漢はその後政争が続き、倭国から直接使者が行くことはなかったようですが、楽浪郡・韓・倭の交流が盛んに行われていました。
2世紀末、軍閥の公孫氏が朝鮮半島北部を支配するようになりました。公孫氏は楽浪郡の南に帯方郡を置き、韓や倭と外交を行うようになります。
220年、後漢は滅亡し、魏・呉・蜀の三国時代になります。魏は後、公孫氏を倒し、帯方郡を引き継ぎます。

 

さて、この時代の日本について書いているのが、「三国志」の「魏志倭人伝」であり、書かれているのが邪馬台国です。
2世紀末、倭国は大きく乱れます。長期間戦いが続きました。この時代の集落は溝や濠によって囲まれた環濠集落が多く見られるようになります。倭の首長達は男王を立てていましたが、大乱が起こりましたので、鬼道に仕える卑弥呼を邪馬台国の女王に立てることによって大乱はおさまりました。卑弥呼がシャーマン的性格を持っていたことが分ります。
邪馬台国の位置については、畿内説と九州説があり、その中でも諸説があります。邪馬台国に到る道程の中で、現在はっきり分る国は、末盧国(肥前松浦郡)、伊都国(筑前怡土郡)、奴国(筑前那珂郡)が九州にあったことが分ります。邪馬台国に属していたのはこの3国を含めて20余国ありました。北部九州は邪馬台国の勢力内にあったと思われます。
卑弥呼は首長たちによって共立されましたが、相当な軍事力を持っており、女王を助ける男王がいて、独自の判断で政治を行っていたと思われます。邪馬台国の官制は整えられていて、支配する諸国に対し統制の方策が採られていて、官が派遣されていました。倭国では、法を犯すと罰せられ、身分の上下が守られ、税があって、それを収める倉庫があり、市が立って交易が行われました。
魏が公孫氏を滅ぼした翌年の239年、卑弥呼は魏に使いを出します。これに対し、魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授けます。243年にも卑弥呼は魏に使いを出します。

 

247年、卑弥呼は敵対していた狗奴(くな)国と戦闘になります。その後まもなく、卑弥呼は亡くなります。卑弥呼に代わって男王が立ちますが、再び内乱となります。その後、卑弥呼の後継者の壱与を女王として立て、内乱はおさまります。
中国では265年、魏が滅び、西晋が成立します。晋書に倭王が使いを送ったことが書かれていますが、この後約150年間、日本に関する記事は中国の史書にはありません。

 

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