古墳時代

北九州の歴史

ホーム

古墳時代中期

古墳時代
古墳時代前期 
 

 1.前方後円墳

古墳時代は弥生時代の次に時代です。代表的遺物、古墳のよって名付けられた時代です。古墳時代は4世紀を前期、5世紀を中期、6・7世紀を後期と区分されます。ここでは前期を取り上げ、古墳を中心に時代の状況を見てみます。
ムラを束ねるクニの首長達はしだいに力をつけてきました。弥生時代末期、その様な人達、いわゆる豪族が現れてきました。そして、大きな力を持った豪族達は、自分の墓を造ることにエネルギーを注ぐようになります。古墳時代の到来です。弥生時代の墓と違うのは、一般の墓と区別されて、盛り土をした墳丘が築かれるということです。

奈良盆地に巨大な前方後円墳が現れます。箸墓古墳や茶臼山古墳です。例えば、箸墓古墳は全長278m、高さは後円部が26mという大きさです。どのようにして弥生時代の墓から古墳に移行していったかはまだはっきりしません。方形の溝で区切られた方形周溝墓にその中間を見出す説もありますが、古墳時代中期まで造られたことを考えれば、そうではないかもしれません。
古墳の外形はわが国独自の前方後円墳の他、円墳もあれば方墳もあります。箸墓は平地にありますが、前期は丘陵の先端や尾根の上、傾斜に多く造られました。内部は竪穴式石室で、鏡・玉・武器や生活用具が副葬されました。鏡・玉・剣は亡くなった神としての豪族に奉納された神宝で、呪術的性質を持っていました。前期の後半になると、円筒や家形埴輪が現れます。前方後円墳は後円部が墳丘で、それより狭く、低い前方部が付いています。
畿内では豊富な経済力を持った豪族が生まれ、その中で、有力な豪族が力を持ってきます。そして、大和王権が成立していきます。

 

2.北部九州の前期古墳

弥生時代のクニ同士の抗争が続く中、古墳時代に入るとそれを克服する過程で、大和王権が地域の豪族を統合して、連合体ができてきます。このような背景のもとに畿内や瀬戸内で成立した前方後円墳が北部九州にも築かれます。
「日本書紀」の景行天皇はこれらを征服して豊前長峡県(ながおのあがた)に行宮を建てます。そして、ここを京(みやこ)と呼びます。これが京都(みやこ)郡の起源と言われます。このように、この地方と大和王権とは深い関係があったと思われます。ここに4世紀前半に築かれた前方後円墳があります。そのうちの一つが石塚山古墳(京都郡苅田町)で、周防灘を望んで低台地にあり、全長120mあります。
 

遠賀郡には島津丸山古墳(遠賀町)を始めとして、4〜5世紀の数基の前方後円墳があります。「4.神功皇后伝説」に登場する崗県主(おかのあがたぬし)の祖である熊鰐の墓はそのうちのどれかである可能性が高いと思われます。
北九州を見てみますと、紫川流域には方形周溝墓は見られますが、前方後円墳はありません。郷屋古墳や南方浦山古墳のように弥生時代の伝統的な箱式石棺がある円墳です。前者は紫川流域にある最古の古墳で、双方とも紫川中流域にあり、その地の有力豪族の墓です。

遠賀町の島津丸山古墳

 

3.朝鮮半島の4世紀

中国は4世紀に入ると、西晋の内部は紛争が絶えず、中国北部は五胡と言われる五族が侵入し、五胡十六国が乱立します。晋朝は中国南部に東晋を再興し、南北朝の混乱した時代に入ります。朝鮮半島では、このような中国の後退によって諸国家の活動は活発になります。4世紀初め、高句麗によって楽浪郡と帯方郡は滅ばされます。高句麗は中国東北地方、沿海州、朝鮮半島北部にまたがる国となります。同じ時期、馬韓を統一して朝鮮半島南西部に百済ができます。4世紀中頃、辰韓を統一して朝鮮南東部に新羅ができます。弁辰は百済と新羅に挟まれ、小国が分立して、この頃加羅と呼ばれるようになっていました。倭国は鉄を求めていました。このため、朝鮮半島、特に加羅の小国の金官加羅国が倭国と関係を深めていました。金官加羅国を別名任那(みまな)と呼んだり、加羅全体を任那と呼んだりします。ここでは後者を使います。

石の上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀があります。369年、七支刀を造り、百済王が倭王に送ったという意味の銘文が刻まれています。
4世紀後半、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅で激しい抗争が起きていました。この頃の倭は大和王権で、百済と関係を持つようになっていました。北部九州・壱岐・対馬の豪族は任那や新羅と関係を持っていました。北部九州の勢力を統合した大和王権は瀬戸内海を通じて交流を行い、任那・百済と手を結んでいました。このような状況を高句麗は快く思わず、南下して来ました。この状況を表しているのが、現在の中国吉林省に残されている好太王碑文です。これはこの当時の高句麗の広開土王の功績を顕彰して建てられたものです。この中で、4世紀から5世紀の初めにかけて、広開土王が百済を破り、続いて新羅や任那で、渡海した倭を破ったことが書かれています。

 

4.神功皇后伝説

北部九州には神功皇后の伝説が数多く残されています。「古事記」「日本書紀」によりますと、神功皇后は14代仲哀天皇の妃であり、15代応神天皇はその子であり、16代仁徳天皇は孫に当たります。
「古事記」「日本書紀」は8世紀初めに完成します。この時代の支配者の立場で書かれたものであり、年代の錯誤があり、神功皇后を卑弥呼と同一人物とみなしているところもあります。神功皇后は一部の説を除いて、実在しなかったとされます。しかし、その描かれた時代は4世紀から5世紀の初めとされ、朝鮮出兵については、高句麗の好太王碑文に、4世紀末、倭が渡海して攻めて来たこと書かれていることと一致しますし、地名起源説話としても興味ありますので、神功皇后伝説の北九州に関する部分のみ、見ていきたいと思います。

 

仲哀天皇は九州の熊襲の謀反の知らせで、穴門(あなと)の豊浦の津(山口県下関市)に到着し、角鹿(つぬか・敦賀)にいた神功皇后に穴門に向かうように使いを出します。
豊浦の津に着いた神功皇后は海中から玉を得ます。その時の玉、満珠と干珠を朝鮮出兵から大和に戻る際、豊浦の津の沖合の二つの島に納めます。これが満珠と干珠の島です。穴門の豊浦宮を造り、ここでしばらく滞在します。この宮があった所が忌宮神社(下関市)です。

 

九州に向かって出発の際、崗県主(おかのあがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)が出迎えにやって来ます。崗とは遠賀のことです。岡田神社(八幡西区)には県主の祖神が祀られています。熊鰐は船の舳先に賢木(さかき)を立てて、その枝に鏡・剣・玉を下げました。そして、熊鰐は魚塩(なしお)の地を献上しました。それらは、現在は埋め立てられてなくなっている名籠屋崎(戸畑区)や洞海湾、六連島、藍島、白島の漁場と逆水(さかみず・若松区)の塩田地です。仲哀天皇と神功皇后は関門海峡を通ります。

仲哀天皇の船は響灘から山鹿岬(若松区遠見ヶ鼻)を回って、岡浦に入ってきますが、ここで船は進めなくなります。水先案内を務めていた熊鰐は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。そこで、お祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸します。この二神を祭神とするのが高倉神社(岡垣町)と岡湊神社(芦屋町)です。男神の大倉主は高倉を本拠にした遠賀地方の豪族で、遠賀・企救郡を支配していたと思われます。

神功皇后は仲哀天皇とは別の船で、彦島から関門海峡を南下し、小森江(門司区)に渡ります。小森江や近くの白木崎は高麗や新羅に由来する地名で、後の時代に付けられたものと思われます。小森江に停泊し、風師山に登り、ここで海上交通の安全を祈って神祇を行います。小森江を後にして、一行は洞海(くきのうみ・洞海湾)に入って行きます。
若松の浦に入った時、一行は海岸で霊石を得て大いに喜び、武内宿禰が事代主を祀らせ、その側に若松を植えて、霊地にしたので、若松と呼ばれるようになったと言われています。神功皇后は洞海湾の南岸に陣営を設けます。その地に仲宿八幡神社(八幡東区)があります。ここから皿倉山に登り、国見岩から国見します。下山の途中で日が暮れ、ますます暗くなったので、「さらに暗し」と言ったことから、さらくら山と呼ぶようになったと言われています。
 

一行は皇后崎(八幡西区)でしばらく停泊した後、江川に進みます。その途中で二島(若松区)に寄ります。二島の日吉神社の近くに紅影の池があります。神功皇后が装束を改めようとしましたが、清水がなかったので、村人の案内で泉のほとりに立つと、澄み切った水に顔の紅まではっきり映ったので、紅影の池と呼ぶようになったとのことです。
神功皇后一行は洞海湾から江川に進んでいきますが、干潮のため船は身動きが取れなくなります。その時、岡浦から熊鰐が出迎いにやって来ますが、この様子を見て、恐れおののき、皇后の怒りを鎮め様とします。熊鰐は干潟に魚と鳥の池、魚鳥池(ぎょちょういけ)をつくり、魚と鳥を集めます。魚と鳥が群がっているのを眺めた神功皇后は気分を直します。この地に魚鳥池の跡(若松区払川)があります。やがて、潮が満ちて来て、皇后一行は再び出発します。神功皇后は岡津(芦屋)で仲哀天皇と合流します。

若松区払川の魚鳥池石碑

 

岡津は遠賀川河口にあり、ここでしばらく滞在し、遠賀川の下流域を巡幸しています。大倉主を祀る高倉神社に参拝したり、垣生(中間市)に行ったりします。岡津を出発して、儺県(なのあがた)の橿日宮(かしひのみや・福岡市香椎)を目指し、仲哀天皇は海路を、神功皇后は陸路を進みます。陸路は遠賀川の支流の西川を南に上り、現在の鞍手郡、宗像郡、古賀市から香椎に入ります。橿日宮があった所が香椎宮です。
ここで熊襲の討伐の軍議を行います。その最中、神功皇后は神がかり状態になり、仲哀天皇に次のように言います。熊襲の土地は荒れて、討つに値しない。その国よりも海の向こうの金・銀がたくさんある国がある。そちらを討ちなさい。しかし、仲哀天皇は、この神のお告げに対して高い山に登り、そんな国は見えないと疑いを持ち、従いませんでした。神に逆らった仲哀天皇は香椎宮で急死します。

神功皇后と武内宿禰は仲哀天皇の死を隠し、朝鮮への出兵を決意します。この時、神功皇后は身ごもっていました。朝鮮出兵前に熊襲や逆らう者達を討ちます。そして、各地を巡幸します。その後、群臣を集めて軍議を行います。諸国では出兵の準備が行われます。北九州関連では、馬寄(まいそう・門司区)では軍馬を集め、帆柱山(八幡西区)では木を切って船の帆柱とし、勝山(八幡東区)では竹を切って旗竿にしました。
朝鮮に出兵した神功皇后率いる軍は新羅の金城(韓国慶州)を包囲したため新羅は降伏します。

凱旋帰国された神功皇后は出産されます。その場所に宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)があります。出産されたのは男児で、後の応神天皇です。この後、神功皇后は穴門の豊浦宮に向かいます。この時は香椎宮に来られた時とは違うルートをとります。宇美から穂波を通って、飯塚に入り、南下して嘉穂を通って、英彦山に登って、田川に入り、京都郡に出ます。ここから船に乗って周防灘を南下します。そして宇佐に入ります。宇佐を巡幸した後、船で周防灘を北上します。苅田で上陸して到津(小倉北区)に向かいます。

 

古墳時代前期↑|→古墳時代中期

古墳時代

北九州の歴史

ホーム