古墳時代

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古墳時代中期 
 

1.北九州の中期古墳

古墳時代中期は5世紀に当たります。中期になると巨大な古墳が登場し、台地や丘陵のほかに平地に造られるようになります。

前方後円墳は前方部がしだいに大きくなります。内部構造は朝鮮半島の影響により竪穴式石室から横穴式に移行していきます。副葬品は鉄器が多量に出土してくるようになります。また馬具や須恵器などが副葬されるようになります。
北九州の紫川流域では箱式石棺を有する円墳が竪穴式石室や横穴式石室を有する円墳に代わっていきます。しだいに大和王権の影響を受けていったものと思われます。古墳の副葬品としては鏡、玉類、鉄製の武器、農工具や馬具や須恵器があります。
小倉南区曽根から貫にかけて数基の前方後円墳がありますが、茶毘志山(ちゃびしやま)古墳は5世紀後半に築かれました。

小倉南区茶毘志山古墳

 

2.倭の五王

4世紀末から5世紀初め、倭は朝鮮半島に出兵し、新羅を討ちました。この新羅に対し、百済は両国の間の加羅を併合したい思いがありました。新羅は高句麗の南下に対抗したい思いがありました。倭にとって、新羅と高句麗は朝鮮半島に進出するには障害になっていました。ここに百済と倭の利害の一致がありました。しかし、出兵した倭は高句麗から撃退されたり、打撃を受けたりしました。
このような状況の中、「宋書倭国伝」に讃・珍・済・興・武の倭の五王が中国の南朝に遣使し、方物を献じたことが記されています。この五王が天皇の誰に該当するか諸説がありますが、応神・仁徳から雄略天皇までの5世紀の天皇の時代と思われます。倭の五王は南朝に官爵を得ようとします。これは国内の支配の権威づけと共に朝鮮半島における劣勢を挽回しょうとするものでした。
5世紀後半、高句麗は百済の漢城を攻め、百済は熊津(ゆうしん)に都を移します。劣勢になった百済は任那に対して圧力を強め、倭の任那における勢力は弱まっていきます。

 

3.沖ノ島の遺跡

沖ノ島は玄海灘に浮かぶ孤島で、宗像大社の沖津宮のある神域の島です。この島が注目されるのは祭祀遺跡があることです。それ以前の縄文時代・弥生時代からの遺跡がありますが、4世紀後半より祭祀遺跡が登場します。あまりに大量で、貴重な遺物があるので、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれています。
 

巨岩を神の依代として、その上に奉納の品々を置いた岩上遺跡が最も古く、巨岩の下に置く岩蔭遺跡、露天遺跡と形式を変えて、9世紀頃まで続きます。
宗像大社の神は宗像市田島の辺津(へつ)宮、大島の中津宮そして沖ノ島の沖津宮の三宮からなり、いわゆる宗像三女神を祭神にしています。
沖ノ島の祭祀は宗像の氏族によって行われていた祭祀に、朝鮮との往来に神の島と崇められる祭祀が加わり、航海の神となったと思われます。難波-瀬戸内海-朝鮮半島とのコースにおける神の島と崇められるようになり、その中で、宗像の神は道中をつかさどる貴い神、地主貴(ちぬしむち)として崇められるようになっていきます。そして後、天武天皇と宗像君徳善の娘との間に高市(たけち)皇子が生まれたことも宗像の氏族の神が宮廷の神統譜に列せられることを促進します。

沖ノ島の位置

 

4.河内の大王

5世紀に巨大古墳が集中して畿内の河内に出現します。その最大の仁徳陵古墳は全長486mにも達する前方後円墳です。王者の墓は他の豪族達の墓よりも大きく、その地位は抜きん出ていて、既に王権が部族の同盟の上にある段階でないことを物語っています。
河内は大和と難波津を結ぶルートにあります。難波津は瀬戸内海ルートの発着点で、海外への畿内の玄関口になっていました。難波津を通って中国・朝鮮半島から渡来文化が入ってきました。特に任那や百済から多くの技術者が渡来しました。

渡来した氏族で有名なのは、弓月君(ゆづきのきみ)に率いられて渡来したと伝えられている秦(はた)氏、阿知使(あちのおみ)に率いられて渡来したと伝えられている氏族のうち大和に定着した東漢(やまとあや)氏、河内に定着した西文(かわちのふみ)氏があります。
技術者は陶部(すえつくりべ)・鞍部(くらつくりべ)画部(えかきべ)・錦織部(にしごりべ)等の人々です。陶部は須恵器の生産、鞍部は馬具の製作、画部は絵画を描き、錦織部は織物を織る仕事に従事する人々です。土師器(はじき)は酸化炎で焼いた赤褐色軟質の土器に対し、須恵器は高温の還元炎で焼いた灰褐色硬質の土器です。この他、鍛冶の技術者も渡来し、武具や農具の鉄器の生産に寄与しました。このような技術の渡来は、この時代の生産力を高め、階級の分化を進め、権力者の基盤を強化していきました。

 

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