古墳時代

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古墳時代後期
 

1.北九州の後期古墳

古墳時代後期は6・7世紀に当たります。前方後円墳は規模が小さくなり、後円部が小さくなり、前方部が大きくなります。各地で小規模な古墳が一箇所に群がるという、群集墓が出現します。

これは限られた有力豪族のみでなく、中小の豪族も古墳の造営を行い、一部の一般の民まで参加した結果と思われます。
北九州では、6世紀の中頃、曽根・貫地域の前方後円墳の荒神森古墳(小倉南区)や、響灘を臨む丘陵斜面に築かれた6世紀末の円墳、日明一本松塚古墳(小倉北区)があります。日明一本松塚古墳の石室にはベンガラで、放射線状文様が描かれています。
この時期、九州の古墳のうち、石室の壁面に三角、月、蕨(わらび)手等の文様、馬、船、人物などや独特の構図を絵具で描いた装飾古墳があります。近くでは、遠賀川の支流の流域の王塚古墳(嘉穂郡桂川町)や竹原古墳(鞍手郡若宮町)があります。

小倉北区日明一本松塚古墳


この時期大和王権と中国・朝鮮との交流に貴重な役割を果たしたのが、漁労民であり、航海術に優れ、水軍としても働いた海人族でした。小倉沖の藍島の北の小島、貝島に13基の円墳がありますが、6世紀の海人族の古墳と考えられます。同じ時期の古墳が若松区の響灘に面した丘陵端部に20数基の円墳の古墳群、こうしんのう古墳があります。これも同じく海人族の古墳と思われます。

 

2.氏姓制度

畿内の大和王権の大王や有力豪族達は交易を活発に行い、先進技術を組織して経済力を蓄えました。そして、中国・朝鮮と北部九州、瀬戸内海、畿内を結ぶ海上交通の主導権を握っていました。
大和王権は5世紀中頃から、氏姓(うじかばね)や部(べ)によって成り立つ氏姓制度をつくりだしていきます。王権によって認められた有力族長を中心にした血族の集団を氏、氏の身分の序列を定めたのが姓と言います。部は王権の色々の職掌を受け持つ伴造(とものみやっこ)と呼ぶ中小の豪族の管理の下で、王権に貢納したり、労力を提供する人々を言います。
5世紀後半、王権の外戚として栄えてきた葛城氏が没落し、代わって軍事的伴造の大伴・物部氏が台頭してきます。そして、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)という官職の最高のものを設けます。王権はここに氏族の上に立って、氏族を官僚として組織し始めます。

 

3.磐井の乱

6世紀の朝鮮半島を見てみますと、百済は武寧王の時代で、武寧王は人質で日本に来ていた弟王の子(王の子との説もある)として、佐賀県東松浦半島沖の加唐島で生誕したと言われています。武寧王の次は聖明王で、日本に仏像と経論をもたらします。
武寧王は先代の王が南方に勢力を広げていく政策を引き継ぎます。この結果、任那諸国との間に摩擦が起きます。そして、日本に対し任那の四県の割譲を求めてきます。一方、新羅も南方政策を推し進めてきます。こちらの方が任那の中心部に近いので、日本は新羅を牽制して、百済の求めに応じます。このため、任那諸国から信頼を失っていきます。
5世紀末以降、日本は中国の南朝との関係がありませんでした。高句麗の勢力が強いため、直接使いを出すことができませんでした。百済はこの時代も南朝と交渉を持っていて、南朝の文明を取り入れていました。このため、日本は百済から儒教の専門家の五経博士を派遣してもらいました。

 

新羅の法興王は任那諸国の中心に勢力を伸ばし、最南端の金官加羅国にも手をつけます。このため527年、大和王権は近江毛野臣(おおみのけぬのおみ)を将として6万の兵を出兵させようとしますが、筑紫国造磐井(ちくしのくにのみやっこいわい)によって阻止されます。これに対し、大和王権は物部大連あら鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)に命じて討たせ、磐井は御井郡(三井郡)で敗れます。この時、その子葛子(くずこ)は糟屋屯倉を献上し、許されます。
 

福岡県八女市の丘陵地に数基の古墳がありますが、その中の岩戸山古墳が磐井の墓と言われています。この岩戸山古墳は北部九州最大の前方後円墳で、後円部に方形の別区があるといった特異な形をしています。磐井の墓は生前から築かれ、墳丘には阿蘇山の溶岩である凝灰岩でつくられた石人石馬が置かれていました。別区では裁判の様子が再現されていたと言われます。磐井は大豪族であり、その勢力や権力は九州で有数のものであったと思われます。大和王権が百済と深い関係にあったのに対し、磐井は対立する新羅と関係を持っていたため、出兵を阻止する動きに出たと思われます。

八女市の岩戸山古墳

近江臣は磐井の乱後、渡海しますが、何ら成果を得ることなく帰国となり、その途上病死します。そして遂に金官加羅国は滅亡してしまいます。

 

535年、北九州では大抜(おおぬき小倉南区貫)、み碕(みさき、門司区)に屯倉が置かれます。大和王権は地方の大豪族を国造に任命し、その支配を認めていました。しかし、吉備国造や筑紫国造の反抗に対して力で押さえつけてきました。屯倉は大和王権の直轄地を意味します。最初は王権自ら開き、経営していたものを指していましたが、後には国造が開いた土地を接収したものを屯倉としました。
磐井の子から献上された糟屋屯倉の東に穂波・鎌の屯倉を置き、田川郡赤村と思われる我鹿(あか)に屯倉を置きました。これは玄界灘の近くから周防灘に到る要地に置かれたと思われます。大抜・み碕屯倉は周防灘から関門海峡に到る要地に置かれたと思われます。これらの設置は磐井の乱や金官加羅国の滅亡などの軍事的危機があったためと思われます。そして同じ理由により、福岡市南区にあった対外交渉の門戸である那津官家(なのつのみやけ)を修造し、その財政を強化するようにしました。

 

4.任那滅亡

新羅による任那諸国の侵略はなおも進み、実力者の大伴大連金村は息子達を派遣します。その子狭手彦(さでひこ)は松浦半島から船を出しますが、松浦で契りを交わした佐用媛(さよひめ)が褶振(ひれふり)の峰で褶を振って別れを惜しんだという話が残っています。
大和王権の大王が代わった際に、出兵は得策でないという方針が主流となり、外交上の責任を大伴金村は問われ、政権から離れます。この後、大伴氏は没落していきます。代わって、大臣の蘇我氏と大連の物部氏が政権を動かしていきます。大臣の蘇我稲目は大王の後宮に娘を入れ、外戚として力を伸ばしていきます。
百済は、武寧王の子の聖明王が熊津(こむなり)から泗ひ(しひ、扶余)に都を代えます。これは日本に仏像と経論をおくった538年のことです。大和王権は任那諸国を新羅の南方政策から守るため安羅(あら)に任那日本府を置きます。(日本の呼称は後世用いられるようになって付けられました)

大和王権は百済の聖明王を通して、任那日本府や任那諸国に働きかけ、任那の意思を統一して新羅から独立を保つようにしていました。このような状態の時、高句麗が百済を攻めます。攻撃を受けた聖明王は新羅に援けを求めます。援けを受けた百済は、失っていた漢城を奪回します。しかし、漢城の維持に苦心していた百済に対し、新羅はこれを占領します。そこで、百済は大和王権に援けを求めます。これに応じて大和王権は出兵しますが、聖明王は攻撃を受けて死亡します。この後、新羅は次々と任那諸国を征服し、562年任那は滅亡します。
聖明王が仏像と経論をおくってから30余年、蘇我稲目は仏教を保護しますが、大和王権は仏教が広がるのを許しませんでした。彼の死後、仏教は禁止されます。稲目の子の蘇我馬子は再度仏教を興そうとします。しかし、布教は許されませんでした。

 

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