飛鳥時代

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飛鳥時代
1.聖徳太子
 

飛鳥時代は6世紀末から7世紀のかけてで、遺物の時代区分である古墳時代後期の後半部に当たります。

蘇我氏は大王の外戚としてその地位は安定していましたが、物部守屋は武力で挽回しょうとし、蘇我馬子と衝突します。馬子は多くの王族や氏族を味方につけ、物部氏を討ち、ここに物部氏は滅亡します。この結果、馬子の独裁体制ができます。馬子を嫌う大王でさえ、馬子は暗殺してしまいます。これに王権内は動揺し、妃に即位を要請します。これが推古天皇です。天皇の号については推古天皇時代に始まったと言う説や、7世紀末、天武天皇以降だという説がありますが、便宜上ここから使っていきます。この後約180年間の15代のうち8代、6人の女帝が誕生します。このように政治勢力が激しく争い、皇位継承が困難な時に、女帝は現れます。推古天皇は厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子とし、摂政に任じます。厩戸皇子は聖徳太子のことですが、両方の呼び名とも8世紀初めから使われました。
仏教に反対していた天皇や物部氏もいなくなり、仏教を信奉する蘇我馬子が権力の座に着くことにより、仏教は発展します。出家が許され、百済から渡来した仏師を使って大和に飛鳥寺が建立されます。難波にも四天王寺が建立されます。朝鮮半島では仏教文化が早くから定着し、中国に留学した僧もいました。高句麗や百済からの外来僧によってこれらの寺で進んだ学問が授けられました。聖徳太子は斑鳩(いかるが)に邸を構えます。この近くに斑鳩寺が建立されます。これは若草伽藍と呼ばれ、法隆寺に隣接して伽藍跡が残っています。


589年、北朝の隋が南朝の陳を倒して中国は統一されます。高句麗と百済は早速隋に使いを出します。新羅も遅れて使いを出します。しかし後に、隋は高句麗を攻撃します。百済もこれに呼応して高句麗を攻め、朝鮮半島は大きく揺れます。これに乗じて大和朝廷は出兵し、新羅を攻めますが失敗に終り、任那の回復はなりませんでした。大和朝廷は遣隋使を出し、洛陽を訪れます。大和朝廷の外交は任那の回復から隋との国交へとかわっていきます。

 

推古天皇は政治には関わらず、摂政である聖徳太子に任せ、太子が蘇我馬子の協力の下に政権を運営していました。この政権において大きな二つの政策が打ち出されました。一つは603年の冠位十二階の制定であり、もう一つは604年の十七条の憲法の発布です。

冠位十二階は位階の違いを冠の色であらわしましたが、これは天皇が地方の豪族や官人に授ける身分をあらわしたものであり、姓(かばね)が氏に与えられるものに対し、個人に与えられるもので、世襲のものではありませんでした。隋との国交で国際舞台に立つために、まず使節に官位を与え、威儀を正す必要がありました。それと、この時代身分の構造が変わってきたこともあります。氏姓の他に上層部では大夫(まえつきみ)という官が制度化され、下層部では伴造の他に百八十部(ももあまりやそのとも)といった官人的身分層が諸官司を構成していました。冠位を定めたことは、このような変化に対応するとともに、豪族の官人化を進めていこうとしたものと思われます。

十七条憲法には君・臣・民からなる国家像があります。その中の臣に対しての道徳と規律を特に憲法は規定しています。そして、儒教的な道徳の実践には仏教への帰依が必要だとも説いています。仏像とともに君権による法の絶対を説いているのです。この憲法は前の冠位とともに絶対的な君、その官人としての臣、そして一般の民といった秩序を確立しょうとしたものと思われます。そして、君の前に集合してその命令を聞く場としての朝廷、臣である官人が勤める官司がある天皇の住まいの宮といった形も確立してきました。

 

607年、大和朝廷は小野妹子を隋に派遣し、煬帝(ようだい)に国書を奏呈します。「日出る処の天子、日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」の書き出しが有名ですが、こんな対等な立場で書かれたのを見て、煬帝は怒ったと言われています。しかし、当時隋は高句麗を討つ準備をしていましたし、高句麗は日本に接近していましたので、無視できず、裴世清(はいせいせい)を派遣します。この日本という国号を正式に使い出したのは、後の8世紀初頭の大宝律令以降と言われています。7世紀初めに筑紫大宰(ちくしのみこともち)が置かれていたことが、日本書紀に書かれています。大宰府の前身の筑紫大宰は那津官家にあったと言われています。

裴世清の帰国に際し、高向玄理(たかむこのくろまろ)・僧旻(みん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)等の隋への留学生が同行します。彼らは20年以上中国に留学し、帰国した後は各分野で活躍しますし、大化の改新で貢献します。
隋は百済・新羅を味方にして、高句麗に遠征します。しかし、うまくいかず撤退します。その後も遠征しますがうまくいきませんでした。そして、613年煬帝は暗殺され、唐の高祖が帝位につきます。

隋が滅び、唐もまだ安定しない時代、聖徳太子は死去します。太子の発願による法隆寺金堂釈迦三尊像は鞍首止利仏師(くらつくりのおびととりぶっし)によって太子の死後完成します。また太子を慕う妃多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)によって中宮寺に残る天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅごくまんだらしゅちょう)が作られました。太子の死後、蘇我馬子、推古天皇と相次いで亡くなります。

 

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