飛鳥時代

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3.白村江の敗戦
 

唐の太宗の次の高宗は新羅の要請により高句麗を数回攻撃します。しかし、方向転換して百済を滅ぼすことが高句麗を征服することにつながるとして、百済に出兵します。唐・新羅軍は泗ひ(しひ)城を囲み、遂に百済は滅亡します。
滅亡直後から百済を再興しょうとして、百済各地で反抗が始まります。百済の旧臣達は日本に応援と、日本に出していた人質の王子の帰還を頼みます。百済を見捨てることは友好国を失い、朝鮮半島での足場を失い、朝鮮半島全体が唐の勢力下に置かれ、日本自体が脅威にさらされることが考えられました。そこで日本は、時の天皇は女帝でしたが、斉明天皇自らが中大兄皇子をはじめとして中臣鎌足ら要人を従えて筑紫に赴きました。この折、現在の朝倉郡朝倉町に造った朝倉宮を行宮とします。しかし、斉明天皇は急死し、中大兄皇子は即位することなく、天皇の政務を行うことになります。

日本は数度にわたって大軍をおくります。663年、唐・新羅軍は熊津から錦江を下り、その下流で百済軍と会戦し、河口の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅の水軍は日本の水軍を破り、日本の水軍は多数の戦死者を出します。

唐がさらに軍事的圧力をかけてくることを恐れ、大和朝廷は対馬・壱岐及び筑紫等に防人(さきもり)と烽(とぶひ・のろしのこと)を置き、筑紫に水城(みずき)を築き、長門と筑紫の大野城・基肄(きい)城を築き、さらに対馬に金田城、讃岐に屋嶋城、大和に高安城を築きます。この中で、水城・大野城・基肄城は大宰府を守る防衛施設でした。この頃に、那津官家から現在の都府楼跡地に大宰府の官衙(かんが)は移ったと思われます。唐は永年高句麗を攻めましたが達成することはできませんでした。

大野城市の水城跡

しかし白村江の勝利後、唐・新羅軍は遂に百済を滅ぼします。百済が滅亡後、多数の人々が日本に亡命します。高句麗が滅亡後も多数の人々が亡命します。これらの人々の中には貴族が多数いました。それらの人々によって日本の文化は高められていきました。

中大兄皇子は西国の国土防衛とともに、国力の強化を痛感し、大化改新の路線を一歩進める改革を行い、近江大津宮に遷都し、即位して天智天皇となります。朝廷は左右大臣の上に太政大臣を置き、御史大夫(ぎょしたいふ)という名の官を置き、これら太政官の下に六官を置くという中央官制が整えられています。従来、伴造-品部制を基礎にした諸官司は天皇の家政機関である内廷が主であったのが、ここに初めて国家機関である外廷が充実してきます。
朝廷は戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)がつくられます。これは大化改新以来進めてきた国-評(こおり)制が定着し、臨時官の惣領でなく、中央官人が国司として地方に派遣され、国の下に多くの評が置かれることによって可能になったと思われます。庚午年籍によって朝廷は全国の民を把握することができるようになりました。

 

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