奈良時代

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2.大宝律令

奈良時代
1.藤原京 
 

天武天皇が亡くなり、続いて皇太子が亡くなり、立太子した軽皇子が幼少であることと、皇位継承の混乱が考えられ、皇后が即位し、持統天皇となります。
689年、浄御原令が施行されます。持統天皇の政治は、天武天皇の独裁の形が修正され、諸臣が加わるようになりました。しかし、諸臣の頂点の太政大臣には高市皇子がなり、それ以降しばらく天武天皇とつながりがある皇族が太政官を監視する地位につきます。
翌年、浄御原令に基づいて、戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作られます。この庚寅年籍以降、6年毎に戸籍がつくられるようになります。庚寅年籍は里ごとに1巻づつ作られ、里は50戸から構成されていました。そして、戸籍の役目とともに、庚寅年籍は口分田を班給する台帳として租税のための基本台帳としての役目も持っていました。

694年、飛鳥浄御原宮から藤原京への遷都が行われます。藤原京は天武天皇の時代に計画され、持統天皇の代になって建設されました。この遷都は唐の制度を実行し、国の内外に対し、その力を示すことが動機にあったと思われます。藤原京は内裏と朝堂院からなる藤原宮を中心にして、条坊制の唐風の、日本で初めての本格的な都城でした。壮大な都城を造営したのは、この時期整備された官僚制との関係があります。官人が執務できる役所と居住する生活の場が必要でした。これまでのように必要な時に宮に出掛けると言う訳にはいかなくなっていました。そのため、役所と宮を造るだけではなく、通勤させるためには都市計画を立てて条坊を造り、そこに住まわせるようにしました。

柿本人麻呂が代表する宮廷貴族たちの和歌、朝鮮半島からの王族や貴族に刺激された漢詩、法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、造営されていた薬師寺など、唐の影響を受けた白鳳文化が新都の内外に生まれていました。白鳳文化の時代を白鳳時代と言います。普通大化の改新から平城京遷都までを言いますが、ここではその前半は飛鳥時代で、後半は奈良時代で紹介します。

 

1.藤原京↑|→2.大宝律令

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