奈良時代

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奈良時代
2.大宝律令 
 

皇太子の軽皇子が15歳になると、持統天皇は位を譲り、文武天皇が誕生しますが、持統太上天皇として政治に関わります。持統太上天皇は刑部(おさかべ)親王や、娘を文武天皇の夫人に入れて力を持つようになった藤原不比等(ふひと)に命じて律令の撰定が行われました。701年、年号が大宝と定められ、この年大宝律令は完成し、施行されます。律とは刑法に当たり、手本にした唐律とほとんど同じでした。令は儀式の体系、機構組織、租税・労役、官人の服務規程などの統治に必要な法を言います。

大宝律令によって浄御原令に於ける外廷六官と内廷の官司が統合され、太政官の下に八省が設置されて、政務が分担される中央官制が定められました。天武天皇による畿内・七道制は同時に幹線道路の意味を持っていました。大宰府への山陽道が最重要道路で、七道はそれぞれの国の政庁がある国衙と国衙を結んでいました。七道は計画的に直線で作られ、途中には駅家(うまや)が置かれました。
各官庁はかみ・すけ・じょう・さかん(役所によって該当する字が違う)と言われる四等官をはじめとした官人によって構成され、すべての官は位に相当する官位相当制になっていました。全ての人に官人になる道が開かれていましたが、五位以上の人には蔭位(おんい)の特権があって、その子孫は自動的に定めれた位が与えられることになっていて、官人の道は狭いものになっていました。また五位以上の人(通貴)には様々な特権が与えられ、その中でも三位以上の人(貴)の特権は大きく、この人達は蔭位によって事実上世襲を保証されていました。

六位以下の有位者、大多数の民である白丁、特別な職能集団として課役を免除され、その職能によって各官庁に属す品部(しなべ)、雑戸(ざっこ)を含む人々が良民です。これに対し、官戸・陵戸・家人・公奴婢・私奴婢の五色の賎である賎民は区別されていました。

 

6年毎に作られる戸籍に氏名と姓が登録されました。班田収授法によって、6歳以上の良民・官戸・公奴婢の男子には2反、女子にはその2/3、家人・私奴婢には良民の男女の1/3の口分田(くぶんでん)が6年に1回班給されました。口分田の売買は禁止され、死者の口分田は収公されされました。これに伴って、田地を整然と区画した条里制が郡・国を単位に実施されました。
公民に班給された口分田について、1反につき2束2把の租が課せられ、国々の正倉に蓄えられました。租は五位以上の者に与えられる位田、太政官中枢部の官に与えられる職田、功労の者に与えられる功田にも課せられ、これらは輸租田と言います。収穫が天皇の食料に当てられる官田、神社・寺に与えられる神田・寺田は納租の必要のない不輸租田とされました。口分田を与えた残りの田地は乗田あるいは公田と言われ、国司は民に貸し、収穫の1/5を地子(じし)として徴収しました。

戸籍とともに、毎年計帳が作られました。これによって課役が課せられました。調は成人男子の正丁に課せられました。その内容は地域の特産物である繊維製品、海産物や鉄などの物品でした。庸は年10日都に出ての労役ですが、物品による代納ができました。この調庸では筑紫の綿が上質で知られ、平城京発掘の木簡に豊前国の調綿として郡単位に記されたものが出てきています。
調は官人の俸禄や国の経費に、庸は動員された畿内の人々の食料に当てられました。さらに、正丁には2年間60日の国司の下での労役がありました。これを雑徭(ぞうよう)と言いました。

国や郡の倉に租として蓄えたものの一部を種籾や元本として貸し付け、収穫時5割の利を付けて返済させました。これを正税出挙(すいこ)と言います。国で行っていたので公出挙(くすいこ)と言いますが、民間でも行っていましたので、これは私出挙と言いました。さらに凶作に備えて毎年一定量の粟を納める義倉(ぎそう)の制度がありました。
正丁の義務として兵役がありまします。正丁3・4人に1人の割合で兵士が徴発され、各国軍団に、一部は上京して宮廷等の警備につきました。東国の場合、兵士の1/3は3年間防人(さきもり)として筑紫・壱岐・対馬等の防備の任につきました。

中国や朝鮮半島から渡来した技術や一般の民の及ばない高度の技術を持った人々を育成する組織が必要でした。そのため、これらの人々を課税が免除された品部・雑戸として組織し、技術を世襲させました。海人・山の民・芸能の民の有力者に官位を与え、それらの民への技能の教習に当たらせました。
地方での戸籍を作り、徴税し、軍団を監督し、裁判を行い、寺社を管理するなどの権限が国司に委ねられました。国司の政庁である国衙がある土地が国府です。この国府は都を小規模にした区画と施設を持っていました。都から派遣される国司が統治するためには、土着したかっての国造などの有力者を郡司をはじめ里長などに任命して、その力に依存する必要がありました。

 

大宝律令の制定に伴って、吉備・周防・伊予など広域地方行政機関として置かれた大宰府は廃止され、筑紫大宰府のみが存続され、名実ともに大宰府が成立しました。国司が置かれたことを考えれば、内政面でなく、対外交渉にその役割の重点が置かれたものと思われます。長官である帥以下、大・少弐等の四等官が置かれ、博士・陰陽師・医師・防人関係・営繕・船舶・主厨等の官人によって構成されました。その財源の租は諸国の財源とされましたが、その一部は大宰府に貢進されました。調庸は大宰府に集められて、一定額は都に貢進されましたが、残りは大宰府の用に当てられました。

大化改新以前、九州は筑紫・豊・肥・日向国に大別されていました。律令下、筑紫は筑前と筑後、豊は豊前と豊後、肥は肥前と肥後に分割されます。薩摩は日向を分割してでき、更に日向を分割して大隅もできました。
北九州の範囲は筑前国遠賀郡から豊前国企救郡にわたります。豊前国の国衙は仲津(なかつ)郡(現在の京都郡豊津町)にあったと思われます。

律令下、全国の道路網が整備され、駅家(うまや)が設けられ、公務で往来する者に馬や食料が提供されました。大宰府道は久爾(くに、福岡市博多区)−夷守(はなもり、福岡市東区)−席打(むしろうち、古賀市)−津日(つひ、宗像市)−島門(しまと、遠賀町)−夜久(やく、八幡西区上津役)−独見(ひとみ、八幡東区前田)−到津(いたむつ、小倉北区到津)−杜碕(もりさき、門司区田野浦)に駅家があり、杜碕で関門海峡を渡って山陽道に入ります。この頃那津に外国使節接待のため鴻臚館が置かれました。道はこの他、田河(田川市)を経て豊前国府に到る田河道、鞍手道、到津から苅田を経て豊前国府に到る道や、更に宇佐に南下する道等がありました。

 

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