奈良時代

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奈良時代
3.平城京 
 

大宝律令によって畿内の有力豪族であった貴族と地方の豪族との間には大きな格差が生じました。そのため反発を内在していきます。一方、公民は重い負担を強いられました。律令施行後、天災や疫病などにより、社会不安が続くと、庸を半減したり、義倉を軽減するなどの対策を取らざるを得なくなりました。
大宝律令施行の翌年、持統太上天皇は死去し、その5年後、文武天皇も死去します。文武天皇の子、首(おびと)皇子はまだ幼少であったため、文武天皇の母が即位し、元明天皇となります。708年、武蔵から銅が献上され、和銅と改元され、貨幣の和同開珎が鋳造されました。

710(和銅3)年、元明天皇は藤原京から平城京に遷都します。これから784(延暦3)年の長岡京遷都まで、平城京は75年間都となり、ここに奈良時代が始まります。平城京は藤原京の東西が2倍、南北が1.5倍の規模を持ち、薬師寺は藤原京から移建され、大官大寺は移建されて大安寺となりました。
元明天皇は皇位を首皇子に譲らず、娘に譲り、元正天皇となります。これは力を持っていた藤原不比等の娘が首皇子の妃にまだなっていなかったためと思われます。不比等が力を得たのは自分の娘を後宮に入れることと、もう一つは律令の推進の中心人物になったことです。古いタイプの豪族から律令制の官僚貴族になったことが時代をリードする力を得たと言えます。

この時代、学問・技術の発展が奨励された時代でした。天武天皇によって稗田阿礼(ひえだのあれ)は「帝紀」「旧辞」の誦唱(そらんじること)を命じられていましたが、元正天皇の命によって、それを太安萬呂(おおのやすまろ)が筆録して「古事記」が712(和銅5)年完成します。同様に、天武天皇の発案によって「帝紀」「旧辞」ばかりだけでなく、朝廷の記録、豪族の先祖の由来記、海外の資料の編纂が進められ、舎人(とねり)親王を総裁にして、元正天皇の世、720(養老4)年、最も古い史書、朝廷の公的事業として「日本書紀」は完成します。「風土記」は諸国の状況等を国司達に命じ、記録・報告させたものでしたが、これ以降遅れて報告されてきました。

都では平城京の造営、地方では国府の造営、そして条里制が施行され、これらは農民の力によって行われていました。このため、農民の逃亡や浮浪が跡を絶ちません。これに対し、国−郡−里の制度の末端に修正が加えられました。それは里を郷の名に変え、その郷の下に新しい里を設けるもので、これが郷里(ごうり)制と言われるものです。戸の中の小集団の房戸(ぼうこ)と言う名が与えられ、房戸が幾つか集まって郷戸(ごうこ)がつくられました。こういった村落制度で農民の掌握を強くしょうとしました。

藤原不比等は息子の房前(ふささき)を元正天皇即位に際し、参議に抜擢します。一氏族から一公卿とう慣行が破られたため王族や諸氏の反発を買いました。そこで、不比等が亡くなると、左大臣は欠員で、右大臣に長屋王がなりました。これに対し、藤原氏も積極的に動きます。藤原不比等には4人の息子がいました。長男武智麻呂(むちまろ)二男房前、三男宇合(うまかい)、四男麻呂、娘には文武天皇夫人、首皇子妃がいました。王族や諸氏と藤原氏の動きは表面上は沈静化していきました。そして、首皇子が即位し、聖武天皇となりました。

 

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