奈良時代

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4.藤原広嗣の乱
 

長屋王は天武天皇の孫で、高市皇子の子でした。王族を代表する長屋王と藤原氏とは対立関係にありましたが、表面上は沈静化していきました。そして、首皇子が即位し、聖武天皇となりました。この時、長屋王は左大臣になりました。
この頃、国は農民の徭役を軽減しました。そして、摘発した浮浪人を本貫地(戸籍に記載されている土地)に送り還しました。しかし、本貫地が分らない者はその地の戸籍に載せられるようになりました。また、723(養老7)年、三世一身の法が出されました。これは新たに溝や池を造って開墾したならば、本人の一生涯その田地の耕作を許すと言うものでした。このように長屋王が代表する政権は現実に即した政策を取りましたが、これは律令制を修正するものでもありました。

長屋王は自ら詩歌の宴を催しました。そこには大伴家持、山上憶良、山部赤人などの「万葉集」の歌人や「懐風藻」の漢詩人が集いました。
聖武天皇の光明子夫人は藤原氏一族期待の皇子を産みますが、誕生日を迎えることなく亡くなります。翌729(神亀6)年、謀反の疑いがありとして、藤原宇合の率いる兵によって長屋王の邸は囲まれ、その中で王や一族は自殺します。この事件を長屋王の変と言います。この年は天平元年と改められ、皇后と妃は内親王がなるものと令や慣行で決められていましたが、これを破って光明子夫人は皇后となりました。長屋王亡き後、藤原氏の四兄弟は揃って公卿となります。

 

古くからの有力氏族の大伴氏の中心人物は、この頃大伴旅人でありましたが、彼は当時大宰帥として赴任しており、長屋王の変の後、大納言となって帰京していますが、政界に於ける彼や大伴氏の勢力は非常に低くものとなっていました。
大伴家持は父旅人とともに大宰府に来ており、山上憶良は当時筑前守として赴任しており、万葉集には彼らの歌が多く収まられています。
律令下の農民の徴税物の負担は勿論、その輸送も納税者の義務で、往復の食料も自弁で、過酷なものがありました。天災や飢饉、疫病によって、その生活は破壊されました。そんな状態を歌ったのに山上憶良の「貧窮問答歌」があります。その中には筑前守在任中の歌もあります。

 

この頃、遣唐使は南路を取って東シナ海を渡っていました。これは黄海を海岸沿いに渡る北路が新羅との関係で取れなかったためです。朝鮮北部の旧高句麗に渤海と言う国ができました。渤海は新羅に圧力を加え、唐と対抗しました。新羅と唐の関係は良好なものとなり、対抗上渤海は国交を日本に求めてきました。日本と新羅は微妙な関係になっていました。東海・東山・山陰・西海道に節度使を任命し、臨戦体制に入りました。しかし、日本と新羅との間の軍事行動は起きませんでした。

国内では蝦夷を帰服させ、東国から人々を移住させて、出羽国がつくられましたが、反発が出て反乱がおきました。蝦夷地をよく知っていた大野東人(あずまひと)はこれらを鎮圧する遠征に従軍し、その後は将軍として駐在していました。

藤原四兄弟はそれぞれ家名で呼ばれていました。武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家でした。力を誇っていた藤原氏に突然の悲劇が襲います。それは天然痘の流行で、藤原四兄弟全てが死去しました。残された公卿は二人だけになりました。そのうちの一人の橘諸兄(たちばなのもろえ)が次の政権を担うようになりました。参議の一人に大野東人が任ぜられ、公卿は一氏族から一人という慣行も復活します。このような人事異動の中で、式家藤原宇合の子広嗣が大宰少弐に左遷されました。

 

橘諸兄が代表する政権は僧玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を重用します。二人は遣唐使とともに入唐し、唐で学んで帰国していました。二人の起用には反発する空気もありました。
740(天平12)年、政治の乱れを指摘し、玄ムと真備を退けるように上表文を出して、大宰少弐の藤原広嗣は乱を起こします。朝廷は大野東人を大将軍として、東海・東山・山陰・山陽・南海道の1万7,000人が鎮圧に派遣されます。
 

広嗣の軍は三軍に分け、広嗣が鞍手道から、弟の綱手は豊後から、多胡古麻呂(たこのこまろ)が田河道から板櫃(いたびつ、小倉北区到津)鎮(ちん、兵営)を目指します。しかし、官軍は、板櫃鎮、京都(みやこ、京都郡苅田町)鎮、登美(とみの、築上郡吉富町?異説があります)鎮を攻撃します。そのため、板櫃川の西岸に広嗣軍1万余人が、東岸に官軍6,000余人が布陣します。官軍は投降を呼びかけます。すると、広嗣軍から離反者が続出し、遂には広嗣軍は敗退します。この戦いがあった所は小倉北区の到津八幡神社付近の板櫃川と思われます。

小倉北区板櫃川古戦場跡

敗走した広嗣は肥前国松浦郡の五島列島の一つの島で捕らえられ、斬罪に処せられます。板櫃川の少し上流にある八幡東区の荒生田(あろうだ)神社は藤原広嗣を祀っています。

 

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