奈良時代

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奈良時代
5.大仏造営
 

藤原広嗣の乱に驚いて聖武天皇は伊勢に逃れ、その途中で山背(やましろ)国恭仁(くに)京遷都が計画されますが、恭仁京は放棄され、紫香楽(しがらき)宮が造営されます。更に難波への遷都が宣言されます。このように聖武天皇は数年間彷徨します。

この彷徨の期間に、国分寺創建の詔が出されます。これは国々に国分寺と国分尼寺を建て、仏教の力で鎮護国家を目指したものでした。豊前国の国分寺跡は京都郡豊津町にあり、1895(明治28)年に三重塔が再建されています。筑前国の国分寺跡は大宰府にあります。
7〜8世紀にかけて、地方でも国分寺のほか、多くの寺院が建立されました。それらは造寺にかかる費用や運営を考えると、豪族として力のあった郡司達の氏寺であったと考えられます。それらは北九州周辺では豊津町の上坂廃寺、行橋市の椿市廃寺、芦屋町の浜口廃寺の寺院遺跡があります。

743(天平15)年墾田永年私財法が出され、土地国有制の原則が変わります。これは、官人の位階に応じて限度額の範囲内で墾田を私財として認めたものでした。公地公民制の両方とも、あるがままに把握しょうとする方向に向かいます。

この頃、橘諸兄の子の奈良麻呂と、藤原武智麻呂の子仲麻呂の対立が表面化してきます。そんな中、僧玄ムは筑紫観世音寺に左遷されます。片腕を失った諸兄は財政改善のため、国衙財政の支柱である正税出挙の維持のため、諸国に公廨稲(くがいとう)を設け、一定の稲を出挙してそれを国司の収入に当てました。この制度はやがて租税の徴収を請負わせる方向に道を開きました。

平城京に都が戻ると、国分寺としての東大寺に、以前から計画されていた大仏の鋳造が決まります。この大仏には豊前・長門・備前・備中・美作国の銅が使われました。8回の鋳造が行われたと言われています。
この鋳造に貢献したことが2つあります。一つは大仏の表面を鍍金しますが、その金が陸奥国で産出したことです。もう一つは神にも大仏造営を祈願しますが、宇佐八幡神が協力に応じ、成功させると託宣がありました。

大仏の造営を成功させますと言う八幡大神の神体と託宣をもって宇佐八幡宮の禰宜尼の大神杜女(おおがみのもりめ)が上京します。この時ご神体を載せたのが、お神輿の始まりと言われています。
宇佐八幡宮の神はこの地方の豪族宇佐氏の氏族神でありました。神宮の背後の御許山(おもとやま、大元山)の巨石に対する信仰とシャーマニズムが結びついていました。大神氏や辛嶋氏らが神職に入り、応神天皇、神功皇后を祀るようになり、八幡神を成立させました。藤原広嗣の乱に際しては平定のための戦勝祈願が行われました。その頃、境内に神宮寺としての弥勒寺が建立され、神仏習合が図られました。託宣する神社を朝廷は篤く信仰するようになっていました。

現在の宇佐八幡宮


大仏の完成を待たず、聖武天皇は退位し、内親王が女帝として即位します。孝謙天皇です。状況が変わる中、藤原仲麻呂は光明皇后の皇后宮職を改称して紫微中台とし、その長官になり、実権を握っていきます。一方、橘諸兄はもう一人の顧問である吉備真備を九州に左遷されました。
このような中、752(天平勝宝4)年、大仏の開眼供養が聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇が参列して盛大に行われました。
 

2年後、盲目になりながらようやく唐から来朝した鑑真(がんじん)によって本格的な戒律がもたらされました。東大寺に戒壇院が設けられ、唐招提寺が建立されました。そして、筑前の観世音寺、下野の薬師寺に戒壇が設けられました。
聖武上皇は756(天平勝宝8)年崩じます。その間、橘諸兄は引退し、藤原仲麻呂が実権を握っていました。光明皇太后は先帝の遺品を全て東大寺に寄進しました。それらは正倉院に保存されてきました。天平文化の粋を伝える工芸・美術品であり、遠く西域やペルシャからもたらされたものもあります。

創建時からある観世音寺梵鐘

 

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