奈良時代

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6.和気清麻呂
 

藤原仲麻呂は中男(ちゅうなん)正丁の年齢を繰り上げるという農民の負担軽減という儒教的済民政策を取ります。また、祖父藤原不比等が制定した養老律令を40年ぶりに施行します。仲麻呂に反対していた橘奈良麻呂は王族や氏族と謀って仲麻呂打倒を計画しますが、孝謙天皇と仲麻呂の先制攻撃で、奈良麻呂は殺されます。これを橘奈良麻呂の変と言います。

反対者を一掃した仲麻呂は雑徭を半減したり、東国からの防人を廃止して農民の負担を軽減する政策を取ります。しかし、仲麻呂の唐風の趣味はこの後、顕著になります。孝謙天皇が大炊(おおい)王に譲位すると仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)の名を与えられます。そして、仲麻呂は百官の名を唐風に改めます。

藤原仲麻呂は陸奥に桃生(ももお)城を、出羽に雄勝城を築き、蝦夷地に対する政策を積極的に行います。対外政策としては755年に起こった唐の安禄山の乱の情報が渤海への使いからもたらされます。乱による混乱に乗じて新羅への遠征が計画され、その準備に入ります。
仲麻呂のよって太宰大弐に左遷されていた吉備真備は、新羅からの来襲に備えて筑前国怡土(いと)郡に怡土城を築城しました。しかし、遠征は実行に移されることはありませんでした。凶作飢饉による人心の不安と恵美押勝の専制体制の揺らぎに理由があったと思われます。恵美押勝は光明皇太后の後ろ楯で権勢を保っていたところがありましたが、皇太后は死去します。

孝謙太上天皇が病気の際、禅師として近侍していた道鏡は秘法を行い、病気は治癒します。この後、孝謙太上天皇は道鏡を寵愛します。そして、国の大事は自ら行うと太上天皇は宣言します。ここに、孝謙太上天皇-道鏡と淳仁(じゅんにん)天皇(大炊王)-恵美押勝に権力は二分され、お互いに対抗します。恵美押勝の専制に対し、反発する動きが表面化し、しだいに押勝は窮地に陥ります。764(天平宝字8)年軍事権を掌握しょうとした押勝に対し、太上天皇側は先手を打ち、押勝は逃げますが、打ち破られ、斬殺されます。これを恵美押勝の乱と言います。

 

天皇は廃され、孝謙女帝は重祚(ちょうそ、再び天皇になること)し、称徳天皇となります。称徳天皇は仏門に入った独身の女帝でした。乱後、道鏡は大臣禅師に任ぜられます。道鏡は河内の弓削氏の出身で、呪験力を身につけていました。766(天平神護2)年、称徳天皇は道鏡に法王の位を授けます。その待遇は天皇と同格のものでした。

法王道鏡を皇位に就けたなら、天下は太平になるだろうという宇佐八幡大神の神託が都に届けられます。
これを伝えたのは道鏡の弟の太宰帥のその配下でした。称徳天皇はこれを確かめるため、側に仕える尼の弟の和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に遣わします。帰京した清麻呂は道鏡が皇位に就くことを神は許してないと奏上します。これを聞いた道鏡は大いに怒り、清麻呂を大隅国に流します。
 

和気清麻呂を祀った小倉北区の足立山妙見宮の由来によりますと、清麻呂は足の筋を切られて流されることになります。途中、宇佐の海岸に漂着し、猪達に守られ、その背に乗って宇佐八幡宮に詣で、その神告をうけます。それによって、清麻呂は神馬を借りて、規矩(きく)郡竹和山の麓の石川村に着き、湯川の霊泉を浴びます。たちどころに足の傷は治ります。このことにより竹和山は足立山と呼ぶようになりました。

足立山妙見宮境内の和気清麻呂像


神託事件の後、称徳天皇が崩じると、770(宝亀元)年、道鏡は失脚し、下野の薬師寺に追放されます。和気清麻呂は都に呼び戻されます。771(宝亀2)年、清麻呂は豊前国司に任ぜられ、宇佐八幡宮の神職団の粛正工作が行われます。

 

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