平安時代1

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2.弘仁・貞観

平安時代1
1.軍事と造作 
 

独身女帝の称徳天皇の皇嗣については、右大臣吉備真備(きびのまきび)は天武天皇の血筋を選ぼうとしますが、藤原百川(ももかわ、式家)は天智天皇の孫を選びます。百川は低迷していた藤原氏の勢力を盛り返そうとします。その即位の際、吉備真備は辞職します。百川の策略で誕生したした光仁(こうにん)天皇は62歳の高齢でした。その皇后と皇太子の母子は百川の策略か、後その地位を奪われ、遂には死んでしまいます。皇太子には皇后を通じて天武天皇の血が流れていました。その皇太子に代わって山部親王が皇太子になります。山部親王が即位して桓武天皇になりますが、その2年前に藤原百川は死去します。
桓武天皇の即位直後、氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀反が発覚します。これも皇位継承にかかわる事件で、桓武天皇と天武天皇の血筋の者の戦いであり、藤原式家と京家の対立、藤原氏と大伴氏との対立などが絡み合っていました。これ以降藤原氏の全盛時代を迎えます。

藤原種継は式家宇合(うまかい)の孫で、桓武天皇の信任は篤いものがありました。種継は山背国長岡京への遷都を建議します。平城京は寺院勢力や天武系の天皇の下に栄えた都でしたので、絶縁したいことが、長岡京遷都の理由だったと思われます。
藤原種継の母は秦氏の出身でした。秦氏は古くは新羅系の渡来氏族で、山背国を本拠に富を蓄積していました。桓武天皇の母も長岡に近い交野(かたの)の百済系渡来氏族出身でした。
長岡京造営を視察中、種継は暗殺されます。この事件の首謀者は大伴家持だとし、家持が事件1月前に死亡していたため、その官位を奪いました。そして、桓武天皇は計画を知っていたとして、弟の早良(さわら)親王の皇太子の地位を奪い取ります。無実を訴える親王は食を絶って死んでしまいます。


長岡京の造営は暗殺事件後も継続されます。しかしその後、皇太后、式家出身の皇后・夫人が亡くなります。早良親王の後、実子の安殿(あて)親王を皇太子に就けます。この安殿親王も病気にかかります。色々祈願しますが、直りません。陰陽師によって、病気が早良親王の怨霊によるという占いが出ます。桓武天皇は親王の霊を慰めるため色々のことを行いますが、終生、この怨霊への恐怖から逃れられなかったと言われています。天皇は怨霊と関わりのある長岡京を棄て、かねてから、和気清麻呂の建議があった遷都を決断します。

794(延暦13)年、平安京に遷都します。この後、新都がある山背国は山城国と称されます。その地は周囲が山河に囲まれ、自然の城を形づくり、そこにつくられる都は平安楽土でなければならないとして、平安京と名付けられました。この都は、遷都後数年のうちに必要な建物は建てられますが、完成とは程遠いものがありました。

晩年、桓武天皇は参議に天下の徳政を論じさせます。藤原緒嗣は、今民が苦しんでいるのは軍事と造作の二つであるとして、これらの中止を進言します。桓武天皇は、これを聞き、都づくりと蝦夷征討を中止します。

 

780(宝亀11)年、陸奥国の伊治(いぢ)城で、按察使紀広純が蝦夷出身の郡司に殺害されます。以降、桓武天皇晩年までの蝦夷との戦いの発端になります。
郡司指揮下の蝦夷は多賀城に侵入します。これに対し、征討軍が派遣されますが、その軍は動かず、遂には進撃は中止されます。
弘仁から桓武天皇にかわって、新たな征討計画を立てられます。軍は多賀城に集結して、北上川に沿って北進します。しかし、蝦夷軍の攻撃を受け、征討軍は敗走します。

桓武天皇はこの敗戦に懲りず、第二次征討計画を立てます。これまで東国から武具・食料を調達しましたが、今回はこれに加えて、全国の富豪の輩(ともがら)から調達しました。今回の副使に坂上田村麻呂が任命されました。この征討で伊治城周辺は確保されました。田村麻呂の出た坂上氏は後漢から渡来の阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢(やまとあや)氏の一族で、武門の氏族でした。
797(延暦16)年、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されます。そして、第三次征討計画が発足します。準備期間の4年後、この計画は実施されます。胆沢を制し、胆沢城を築きます。蝦夷の首領二人が捕まり、都に送られ、斬られます。その後、胆沢城の北方に志波城が築かれます。この後、第四次征討が計画されますが、前に述べたように、軍事は中止されます。

 

この時代、諸国の課役から逃れるため、浮浪や逃亡が激増します。その理由としては第1に課役が重いことがあります。第2に諸国が行う高利貸しである正税出挙・公廨稲等の公出挙が租税になっていることです。第3に一般農民には質の悪い口分田が与えられたことがあります。
都付近では調庸の負担が軽いので、浮浪人が流入しました。逃亡先には王臣家や寺社の荘園だけでなく、この時代には富豪の輩(ともがら)と言われる農村の有力者に身を寄せました。

富豪の輩は自分の稲を貸す高利貸しの私出挙を行い、返されない場合は口分田を取上げました。そして、その人たちに食料や道具を与えて開墾させ、そうした土地を耕作させました。これらを私営田と言い、人手が足りなければ、浮浪人を抱え込みました。
富豪の輩は国司の支配する土地だけでなく、王臣家や寺社の荘園にもいました。浮浪人の中にも富豪がいて、浮浪や逃亡が困窮者だけでなく、富裕な農民が計画的に移住していたという一面もありました。

この頃に荘園、つまり初期荘園は墾田永年私財法によって広大な荒地を荘園保有者が囲い込み、郡司や富豪層に開拓や耕作などの現地の経営を請負わせていました。しかし、国家の力が弱まり、反対に現地の有力者の私権が強くなると、そんな経営法は通用しなくなり、初期荘園は姿を消していきました。

これらの富豪層には郡司や里長などの昔からのその土地の豪族だけでなく、富豪浪人を含めた新興勢力もいました。この時代、郡司の人選に伝統的勢力からか、又は新興勢力から採用するか、政策が揺れ動きました。このような農村で台頭してきた新興勢力を国衙や郡衙に様々の役職を設けて、それに就けさせて、国家に協力させました。健児(こんでん)制も有力者に対する国家に協力させる役職の一つと言えます。
軍役は農民にとって大きな負担でしたし、国は武器や装備を十分に与えることができなくなっていました。そこで、弱くなった軍団の兵士に代えて、郡司の子弟に健児と言う役職を与えて、国衙を警備させるという兵制改革を行いました。1人の健児に従者が何人もいました。これは有力者の財力に頼ったものと言えます。

農村での質的変化に加えて、不正行為が多発していました。それは戸籍に偽りの記載が行われ、農民は課役を逃れ、国司や郡司は田地を手に入れ、調庸を自分の懐に入れました。これらによって班田収綬法の実施が困難になっていました。基礎台帳の戸籍はつくりはするものの、6年毎の口分田の班給はしだいに行われなくなり、801(延暦20)年には、一紀一班、つまり12年毎に班田を行うようになりました。そして、男子優先の班給になっていました。課役を負担する男子には規定通りに、女子には残っていれば、そして奴婢には班給されなくなりました。
このような状態で国家財政は窮乏していきました。諸国に正倉の火事が頻発しました。これを神火(じんか)と言い、悪徳国司・郡司が、罪を免れたいため、放火したものと思われます。797(延暦16)年、国司・郡司を監督するため、令外官の勘解由使(かげゆし)が新設されます。

 

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