平安時代1

北九州の歴史

ホーム

1.軍事と造作← 

平安時代1
2.弘仁・貞観
 

桓武天皇が長寿を全うすると、皇太子の安殿親王が即位し、平城天皇となります。その直後、六道(りくどう)観察使を置きます。これは分担する各道に赴いて視察し、地方官を監督するもので、巡察使・勘解由使などの職務を総合するもので、参議が任命されました。天皇は官司の統廃合を行い、中級官人や国が抱える技術者を削減したりしました。財政の緊縮を理由に前の桓武天皇とは違う禁欲的な政策を取りました。
伊予親王の謀反事件が起きます。この事件により、藤原南家は勢力を失っています。これに代わって平城天皇に取り入るのが、長岡京で暗殺された式家の藤原種継の子仲成(なかなり)と妹の薬子(くすこ)でした。以前より病気を持っていた平城天皇は心身が不安定で、そんな状態の中、二人は政治に口出ししました。病気に苦しめられた平城天皇は嵯峨天皇に位を譲ります。

退位した平城上皇は故都平城京に落ち着きます。これに公卿の一部や官人の多数が従います。仲成・薬子が謀ったことでありました。二所(ふたところ)の朝庭(みかど)と呼ばれるように、上皇は天皇の政治に介入します。政務がとどこるため、やむなく天皇は藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)を蔵人頭(くろうどのとう)に任命して、簡単に政令の発布ができるようにしました。
810(大同5)年、平城上皇から嵯峨天皇に平城京に遷都するように命令がでますが、天皇は坂上田村麻呂に命じて藤原仲成を捕まえます。上皇は東国に脱出して天皇に対抗しょうとしますが、田村麻呂が率いる軍に阻止され、平城京に戻り、剃髪して出家します。薬子は自殺し、仲成は斬られます。この事件を薬子の変と呼びます。

諸国の正税の一部を政府の経費や官人の給与に当てられるようにしました。また大宰府下九国に大規模な公営田を設定し、地域の有力者に経営を任せ、収入を図ろうとしましたが、これらを富豪に依存することによって成立するものでした。そして、私出挙を認め、富豪や有力者に官位を与えたりしました。彼らの中から郡司になる者も増え、その力を強めていきました。この頃、現実的な政策を行って、その成果をあげた国司は良吏(りょうり)として重用されました。

このような相対的安定のこの時代を表現するのが唐風文化でした。詩文が貴族の重要な教養でした。「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」の三つの勅撰集が編纂されました。また、空海、橘逸勢(はやなり)、嵯峨天皇は唐風の書の名手とうたわれ、後に三筆と呼ばれました。
嵯峨天皇は藤原冬嗣に命じて弘仁格式(きゃくしき)を編纂しました。格は出された法令を集めたもの、式は各官司で固定化した行事や慣例などをおさめたものです。宮廷儀礼やその所作に到るまでを制定した「内裏式」も編纂されました。そして律令の公的解釈を示した。「令義解(りょうのぎげ)」が編纂されました。

 

804(延暦23)年、最澄と空海は遣唐船で唐に渡ります。その役目は短時間に教義を学び、経典を持ち帰ることでした。最澄は天台宗を学んで翌年帰国します。空海は真言密教を学んで1年遅れて帰国します。
一足先に帰国した最澄は桓武天皇に暖かく迎えられます。そして天台宗を南都六宗と並ぶ一宗として朝廷が認めるように運動し、成功します。桓武天皇が亡くなると、最澄は苦境に立ちます。特に、法相宗との間での論争は有名で、先天的に仏になれない者は努力してもなれないという論に対し、大乗仏教の立場より、仏になれる素質は全ての者が持っている、それを説いた法華教に基づく天台宗こそ真の仏教だとして反駁します。この論争の他に、僧侶が受戒する時には東大寺の戒壇に登らなければなりません。その戒壇は最澄が批判する宗派も仏教界を統括する僧綱(そうこう)に属していました。そこで、比叡山に於ける独自の授戒、大乗戒壇を持たなければならないと、「山家学生式(さんけがくしょうしき)」や「顕戒論」を著して、僧綱に反論します。しかし、生前には望みを達することなく、死後達せられました。

遅れて帰国した空海は南都教団を正面から排斥しませんでした。高野山に道場を開くことを許され、金剛峰寺を建立します。更に、都に東寺を与えられました。都に呼ばれて、鎮護国家的修法に活躍します。空海は詩文に秀でていましたので、嵯峨天皇らと親交を深めていきます。この頃、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校も建てます。

空海の宮廷での華やかの活動に対し、最澄亡き後、天台宗はしだいに衰えていきます。これを復活させたのが円仁と円珍でした。円仁は最後の遣唐使とともに唐にわたり、密教の秘法を会得して帰国しました。円珍は唐の商船で渡り、密教を学び、帰国後、園城寺(おんじょうじ、三井寺)を創建します。ここに東寺を中心とする真言密教、即ち東密と叡山の天台密教、即ち台密と呼ばれ、加持祈祷の皇室や貴族のための宗教になっていきます。この後最澄に伝教大師、空海に弘法大師の大師号がおくられました。

芸術的にも世界・宇宙を表現した両界曼荼羅、園城寺の黄不動、観心寺の如意輪観音などの密教芸術全盛となりました。寺院も延暦寺、金剛峰寺、室生寺など山中の静寂な場所を選んで建てられました。ここに原始的自然信仰と仏教とが関わっていきます。
 

嵯峨天皇が崩御すると、すぐに謀反事件が発覚します。承和(じょうわ)の変です。この事件をきっかけに北家藤原良房は天皇の外戚としてその地位を確立していきます。良房の父冬継は嵯峨天皇の時、蔵人頭に任命され、昇進の後、左大臣に昇ります。冬嗣は娘を仁明天皇に入れ、天皇家と関係を深めます。冬嗣の死後、その子良房も昇進し、事件の時中納言でした。
この事件の結果、皇太子は廃され、良房に対抗する者、将来対抗する者が根こそぎ処罰され、良房の妹が産んだ道康親王が皇太子になります。そして良房は大納言になり、自分の娘を道康親王の妃に入れます。仁明天皇が崩御の後、道康親王が文徳天皇になります。文徳天皇と良房の娘の間に生まれた皇子は生後すぐに皇太子となります。良房は、このとき右大臣でした。857(天安元)年藤原良房は左大臣を飛び越して太政大臣となります。その翌年、文徳天皇は崩御し、即位した良房の孫清和天皇はこの時9歳でした。


嵯峨天皇にはたくさんの子供がいました。その子たちを親王や内親王として遇することは大変でしたので、源朝臣の姓を与えて臣籍に下していました。藤原良房が太政大臣の時、源信(みなもとのまこと)が左大臣で、その弟たちと図って反逆を企てているとの密告がありました。日頃から信と仲の悪かった大納言伴善男(ばんのよしお)は真相は糾明すべきだと主張します。しかし、朝廷は事を荒立てずに処理します。
翌年の866(貞観8)年応天門が炎上します。その数日後、伴善男は源信の邸を包囲します。これに驚いた藤原良房は勅使を遣わし、信は恭順の意を表します。数ヵ月後事件は急転し、伴善男の放火によるものと通報があり、善男は伊豆に流されます。ここに大和朝廷以来の大伴氏は歴史から消えていきます。この事件を応天門の変と言います。

応天門の変の最中、藤原良房は摂政に就きます。これまで摂政は皇太子又はそれに準ずる人でしたが、その地位に臣下の者が初めて就きました。良房が亡くなると兄の子で養子になっていた基経が藤原北家を継ぎます。
清和天皇の皇太子には基経の妹の間の皇子が立てられていました。清和天皇は若くしてその皇子に譲位します。そのとき基経は右大臣で、その後良房と同様に太政大臣になります。しかし、その天皇は奇行が多く、遂には基経は退位させ、既に55歳になっていた仁明天皇の子を即位させます。ここに摂関政治の道が開かれてきます。

 

農民達は公民から離れ、浮浪・逃亡が行われ、戸籍の偽りの登録が行われ、口分田の班給はほとんど行われない状態になっていました。人を把握するのが困難になっていました。人に課すのでなく、土地に課す徴税が行われ始めました。正税出挙がそのような形になっていきました。
調・庸は使途がはっきりした目的税でした。しかし、定められた調・庸では不足でしたし、特別な物品が必要となりました。そこで、その調達は諸国に命じられました。国司は正倉に備蓄した正税で物品を買い、都に送りました。これを交易雑物(きょうやくざつもつ)と呼びました。地方の国衙には田租と正税出挙の利稲が蓄えられていました。なお、正税出挙から一定量下級官人に支給される年料舂米(ねんりょうしゅうまい)が都に送られていました。
調・庸は高度の技術がなくても作れる物つまり粗製品、交易雑物は高度の技術によって作られる物つまり高級品とする区別がありましたが、しだいに調・庸の不足を補うため粗製品も正税で交易して送らせました。
調・庸が交易雑物によっても補えなくなってくると、官人の俸禄として諸国に米を支給する財源が設けられます。調・庸の納入はしだいに期待されなくなり、地方の正倉は蓄えられたものを使い始めます。
しかしそれも減ってくると、そこで官人の俸禄のために官田を置くことにします。さらに官司の経費や官司に所属する官人の食料を賄う諸司田の設置を決めます。このように官司や貴族・寺社が領主になるだけでなく、天皇自身が領主になっていきます。嵯峨天皇の時より数々の離宮が造られますが、その造営のための勅旨田がその離宮の所領となり、その所領を管理するため院司(いんじ)と呼ばれる役職者が置かれ、天皇自身が私有地を所有することになっていきました。

 

838(承和5)年の遣唐使が最終のものとなりました。この頃、唐は衰退の一途をたどっていました。そして、唐の商船が来航するようになっていました。日本と新羅の関係は779(宝亀10)年に新羅使の来朝が最後でしたが、私的貿易関係はありました。843(承和10)年、謀反で伊豆に流されていた前筑前守文室(ぶんやの)宮田麻呂は新羅の武人であり、商人であった張弓福との間で貿易を行っていました。
866(貞観8)年には肥前の郡司が新羅人と謀って対馬を占領しょうとする企てが発覚しました。更に、869(貞観11)年、新羅の海賊船2隻が博多津に襲来し、豊前国の貢調船を襲う事件がありました。これらの事件で朝廷は再び反新羅の姿勢をはっきりさせ、国際的な孤立化の傾向を強めていきました。
 

大宰府の鴻臚館は元来公的な国使を応対するものでありましたが、私的な商人が来航し、国使の来朝がなくなると、私的商人を応接する機関という性格が強くなってきます。ここで外国商人と日本政府と民間との貿易が行われました。外国から商船が来航すると、大宰府の報告により、政府がまず貿易を行い、その後民間の貿易が許されました。
計画的な直線的な官道を中心とする交通体系は崩れ、国家体制が成立する以前からの海上・湖上・河川の交通や古道が体系化されていきました。瀬戸内海は幹線海上交通路であり、その重要さはますます増していました。この頃、瀬戸内海を往来する船をおそう海賊が横行していました。

発掘された鴻臚館跡

この海賊は海を舞台にする商人の性格も持っていました。

自然に対する素朴な信仰は一般民衆の間に根強く生きていましたが、豪族によって祀られた神々はこの時期成長してきた富豪や有力者によって支えられました。また新興仏教の天台宗や真言宗の活動は活発で、各地の富豪や有力者に働きかけて造寺・造仏が盛んに行われました。一般民衆の中に入って各地を遍歴遊行する僧侶がこの時期現れ、神が苦悩しており、それを仏が助けるという考えで布教していきました。神仏習合が顕著になり、神社と結びついた神宮寺の建立が各地で見られました。このようにして仏教は民衆の神の信仰と結びつき、深く社会に浸透していきました。

僧侶達の中で経典や漢文を読むための訓点を打つ際、画を省略した万葉仮名が使われ、これが音と結びついて片仮名と定着していきました。これに対し、万葉仮名の草書体も盛んに用いられ、この平仮名が後宮の女性達によって和歌を書くのに普通に使われるようになりました。

 

1.軍事と造作←|↑2.弘仁・貞観

平安時代1

北九州の歴史

ホーム