平安時代2

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2.承平・天慶の乱 

平安時代2
1.菅原道真
 

藤原基経は妹の子、陽成(ようぜい)天皇の日頃の行状がおかしということで廃して、55歳の光孝(こうこう)天皇を即位させます。光孝天皇は自分の病が重くなった時、皇太子の決定を太政大臣藤原基経に任せます。基経は臣籍に下っていた源定省(さだみ)を推します。こうして、宇多天皇が誕生します。
宇多天皇は即位すると、「太政大臣に関り白(あずかりもう)し、しかるのち奏上せよ」との詔を下します。ここに天皇を補佐する関白という地位がはっきりします。

藤原基経が死去すると、その後継者として時平が官位を昇っていきます。この藤原時平と時を同じくして官位を昇って来た者がいます。それは菅原道真です。
菅原氏はもと土師(はじ)氏を名乗っていましたが、菅原氏に改姓することを請願し、許されました。代々学問に優れた家柄で、祖父は遣唐使の一行に加わって唐に入り、帰国後は文章博士(もんじょうはかせ)になり、公卿になっています。父もやはり文章博士・大学頭(だいがくのかみ)となり、公卿になっています。

道真は祖父・父と同様に文章博士となり、学問の家を継承していました。しかし、道真は讃岐守に任ぜられます。このため文章博士の職などを退きます。そして国司として讃岐国に赴任します。菅原道真が任を終え京に戻った翌年、藤原基経が亡くなります。この直後、基経の子の時平が参議となります。
この頃宇多天皇は道真を抜擢し、蔵人頭に任じます。2年後道真は参議になり、時平は既に中納言になっていました。宇多天皇は道真をはじめとして自ら何人かを登用していました。これは大きな勢力を持っていた藤原氏に対抗したものと思われます。
宇多天皇による政治改革を寛平の治と言います。太政官の関与なしに人事権を掌握しょうという方向を強めます。しかし、諸国の調庸、官物の貢進は国司に請負わせる方向に進められていきました。
道真が参議になったとき、遣唐大使に任命されます。しかし、この派遣について再審議するように奏上します。これは唐が衰退していること、唐に渡るのが危険なことをあげています。そして遣唐使の派遣は中止されます。これは実際には唐や新羅から商船が来航しており、交易上の不都合はありませんでした。

道真が中納言の時、検税使の派遣について公卿の会議が行われました。諸国は財源として一定の稲を所有し、これを貸し付け、利稲を得ていましたが、一定の量の稲が足らず、別箇に稲を保有して、それを国司が運用していることが分り、その調査・摘発の検税使の派遣が決定しました。
会議の中で道真は国司の経験からこれは考えものだとの意見を出します。決定の後も派遣反対の意見を出します。これは律令上からすれば違法ですが、国司は止むを得ずそのような措置を取っていることが分っていたためであります。しかし、律令に縛られない、国司の支配をはっきり容認する段階にはまだ到っていませんでした。

宇多天皇は31歳で醍醐天皇に譲位します。藤原時平は反撃の時期を狙っていました。
901(昌泰4)年、突然菅原道真は大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷されます。道真が醍醐天皇を廃して、代わりの天皇を立てようと企てていたというのが理由です。この知らせを聞いて宇多上皇は内裏に駆けつけますが、天皇に取り次がれませんでした。
道真の子供の中には左遷された者がいます。道真は妻を都に残し、幼い子供二人を連れて大宰府に向かいました。配所で、1年過ぎた頃、道真は病気に悩まされます。その後、男の子が亡くなり、2年後、失意のうちに道真は死去します。

 

菅原道真が左遷された後、藤原時平は醍醐天皇との関係も緊密で、国政は時平の主導の下に行われます。この時代の改革を延喜の治と言います。この時期、延喜格式が編纂されました。格式はこれが最後となりました。また、貨幣の延喜通宝が鋳造されました。和同開珎に始まる皇朝十二銭11番目のもので、50年後の乾元大宝が最後のものとなります。
時平が取組んだ改革は、まず数十年実施されることがなかった班田を原則通りに励行することでした。しかし、一部で行われたに過ぎず、最後の班田収授となりました。また、粗悪化した調庸の品質向上を命じました。更に、院宮王臣家の荘の乱立を禁止しました。これらの内容を含んだ延喜の荘園整理令が発せられました。
富豪の輩は院宮王臣家の名を借り、田地や山川藪沢の中心として稲穀を蓄える荘家を拠点として活動しました。荘園整理令は既に公認された官省符荘の拡大を抑制しょうとしたものでした。このように時平は律令制の建て直しをはかろうとしました。

時平の時代は長く続きませんでした。時平の死後、藤氏長者の地位を引き継いだのは弟の忠平でした。藤原良房以来父から子へ継承されましたが、ここに兄から弟へ受け継がれ、摂関家の主流は忠平の子孫に伝えられことになりました。

 

903(延喜3)年、菅原道真は大宰府で亡くなりました。20年後、時平の妹と醍醐天皇との間の皇太子が死去します。この時、菅原道真の怨霊のせいだとということで、醍醐天皇は道真を右大臣に復します。この後、皇太子と時平の娘の間に生まれた子が皇太子に立てられますが、2年後に死去します。
そして、930(延喜8)年、都の清涼殿に落雷があり、公卿たちが死傷します。このことで醍醐天皇は病気になり、その後病は重くなり、幼帝に譲位しますが、まもなく死去します。時平の子や孫も短命に終わります。道真の怨霊のせいだと言われます。
菅原道真を祀った北野天満宮ができたのは10世紀中頃と言われています。道真の霊の託宣を聞いた者によって京都の北野に小さな祠が建てられます。その後、そこに寺が建てられます。しかし、これは寺と言っても、聖廟としての神社の性格を持っていたものと思われます。祀られた道真は左大臣、更に太政大臣を贈らていきます。そして、天皇の行幸も行われようになります。
藤原基経が北野に雷神の社を建てていました。清涼殿落雷によって道真は雷神とされ、これが北野の雷神とも結びついていきます。時平の子孫は道真の怨霊にたたられますが、弟の忠平の子孫にはそれはありませんでした。霊を祀る者に神は助けを授けるものとされていき、藤原氏の主流によって天満宮は後援されていきます。そして、菅原道真はその才能や出身家門によって、学問の神様となっていきました。
 

大宰府で道真が死去した配所は、現在政庁跡の南側にあり、その跡は榎社になっています。道真の遺骸は牛車に乗せられて運ばれましたが、その牛車が一歩も動かなくなり、その地に葬りました。その地に建てられたのが安楽寺です。
安楽寺の統括する別当には道真の孫が就任し、その後、道真の子孫が政府によって別当に任ぜられます。このように当初私寺であった安楽寺は官寺の性格をも持ってきます。安楽寺の荘園は主として権帥・大弐などの上級の大宰府官人が寄進した府領などを中心とするものでありました。安楽寺と天満宮は神仏習合のこの時には同一の存在でありました。そして、現在の大宰府天満宮になっていきます。

現在の大宰府天満宮


戸籍に登録された人から課役を徴する律令制度はここに来て行き詰まります。また、国司と政府との対立も何とかしなければならない状況になっていました。藤原時平の晩年から、忠平が主導権を握った頃になって次の2点のように体制は変わっていきました。
第1に徴税の基本を田地に置いたことです。田地の基本台帳は国図でした。しかし、班田収授が行われなくなると、国図に記載されている公田や神社・寺院に付与されていた官省符荘田は固定されました。国司は公田の状況に関係なく公田の面積に応じて賦課しました。公田とは永世私有地墾田以外の国家所有内の口分田・乗田・位田・職田等を言います。官省符荘田は永世所有を公認された神田・寺田を言いました。徴税単位は名(みょう)と言いました。これは土地台帳の旧戸主の口分田がそのまま固定されて徴税単位になったと思われます。名には公田の他、墾田や畠や屋敷の土地などが含まれていました。この名の賦課物を請負ったものは負名(ふみょう)と呼ばれました。その人達は富豪の輩や田堵(たと)と呼ばれる有力農民でした。
第2は、固定化した租庸調、正税などの官物の貢納を国司に請負わせました。国司は任国の田地を調査し、検田帳を作りました。これは国図とは違い、現在の田地の状況を知るためのものです。これによって国司が官物や臨時雑役を賦課しました。次に国司は官省符荘の不輸の範囲を認定しました。つまり、新しく開墾された荘田を不輸とするかは国司の権限となりました。このようにして政府は国司に任国の支配を任せるようになりました。

 

10世紀前半、唐・新羅・渤海は滅亡します。907年、唐は滅び、五代十国の時代を経て、960年宋が興きます。新羅では騒乱が続発し、高麗に取って代わられます。渤海は契丹によって滅ぼされ、契丹は遼になります。

この時代、朝廷においては国際意識は低下し、閉鎖的になっていました。中国大陸に対する憧憬は強いものがありましたが、日本の風土や生活から生まれた文化が確立した時期でもありました。この時期にあらわれて来る文化を国風文化と呼びます。
905(延喜5)年、醍醐天皇は最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の編纂を紀貫之(きのつらゆき)等に命じます。この前後、かなで書かれた「竹取物語」や在原業平(ありひらのなりひら)を主人公にした「伊勢物語」も書かれました。紀貫之自身、女性に仮託してひらがなで書かれた「土佐日記」を書きました。
ひらがなが確立することにより、細やかな心情が表現しやすくなり、和歌だけでなく散文にも使われるようになりました。文学だけでなく、わが国に題材をとった大和絵、書道で中国と異なる書風が出て来たり、宗教では浄土教が興こってきます。

 

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