平安時代2

北九州の歴史

ホーム

1.菅原道真←|→3.藤原道長

平安時代2
2.承平・天慶の乱 
 

醍醐天皇の死後、幼帝の朱雀天皇を補佐するため、藤原忠平は摂政になります。そして左大臣・太政大臣となり、後には関白となります。この承平・天慶年間、東国では平将門の乱、西国では藤原純友の乱があります。
平将門の祖父は高望王であり、平姓を賜って、東国に国司として下向して土着していました。この時代、律令国家による支配に対し、富豪・農民達は群党をなして抵抗していました。帰属した蝦夷である俘囚の反乱も起こっていました。群盗による東国の乱、陸上交通を掌握した群盗による物資や馬の強奪、院宮王臣家の使いらの群盗による物資の強奪が行われていました。彼らは武器を蓄え、従者を従えた武装集団となっていました。馬に乗り、甲冑を身に着け、弓を射る彼らは兵(つわもの)と呼ばれ、このような戦いを通じて兵の道という独特の気風が生まれていました。

乱の起こりは将門一族内部の対立抗争が激化したものでした。源護(まもる)一家と伯父の平国香(くにか)を相手にし、これを破り、護の子と国香は死にます。都にいた国香の息子の平貞盛は東国に戻ります。将門は一族全てを敵に回し、抗争は続きます。
国司に反抗した者が将門の本拠の下総に逃げてきたのを、将門は助け、逆に常陸国司の軍を破り、国府を焼き、国司を捕らえます。こうして常陸を支配下においた将門は自ら新皇を称し、東国に新たな国家を誕生させました。
この知らせに京都は大騒ぎとなっていました。この時、西でも藤原純友の乱が起こっていました。しかし、平貞盛と下野国押領使藤原秀郷は虚を突いて将門の手勢が少なくなっていた時に決戦に出ます。そして、将門はこの戦いで戦死します。征夷大将軍に任ぜられた参議藤原忠文の軍が東国に着かないうちに将門の乱は終結しました。

 

藤原純友は藤原冬嗣の子孫で、父は大宰少弐筑前守良範で、自身は伊予掾(じょう)でした。瀬戸内海での海上輸送が盛んになり、反対に律令支配が崩れてきた9世紀後半より瀬戸内海の海賊の活動は盛んになりました。海賊追捕はその都度行われます。930年代になると、再び海賊の活動が活発になります。
瀬戸内海は古くから、漁労・製塩に携わり、海上交通を担う海人の舞台でした。操船に巧みな彼らの中には水軍を組織し、海の豪族になる者がいました。藤原純友はこの頃豊後水道の孤島、伊予国の日振島を拠点にして千余艘の船を従えた水軍の首領でした。その活動は東は摂津から西は大宰府に到るまでの広範囲に及んでいました。

939(天慶2)年、伊予国で藤原純友が乱を起こしたという報告が京都に届きます。そして、まもなく平将門が東国で乱を起こしたとの報告が入ります。

翌年、備中国が海賊船に襲われ、次いで淡路国も襲われます。純友の軍は讃岐・伊予国を襲い、備前・備後の兵船を焼き払います。追捕使に小野好古(よしふる)が任ぜられていて、純友の部下を捕らえますが、安芸・周防国では純友軍に敗れます。
乱も3年目になると、純友の部下が殺されたり、寝返ったりします。純友は大宰府を襲い、政庁を焼き払います。現在見られる政庁跡の礎石は、この後再建された大宰府政庁のものです。
小野好古は海と陸から軍を進め、博多津で決戦となり純友は敗れます。伊予国に逃げ帰った純友は捕らえられ、斬られます。

大宰府政庁跡礎石


乱が終わって間もない頃、民衆が歌い踊って種々の神を担いで、京に入って来ます。神輿の中には宇佐八幡大菩薩の名もあります。国家的に崇拝された八幡神が民衆の信仰の中にあらわれてきます。民衆が歌った童謡(わざうた)には富豪の自信や富の賛美が含まれています。地方の富豪層は既に都とつながりがあったものと思われます。
この頃京都では北野天満宮が創建されますし、疫病を送る祇園会も恒例となりました。年中行事になっている石清水八幡宮の祭りが行われ、賀茂社への天皇の行幸が始められました。
また、民衆の中に入り、南無阿弥陀仏を唱えて、得たものを病人や貧者に施した空也は市の聖(ひじり)と呼ばれました。彼の信者は貴族から一般庶民まで幅広いものでした。空也は浄土教の布教の中、民衆の中に入って念仏を唱える先駆者と言えます。

 

1.菅原道真←|↑2.承平・天慶の乱|→3.藤原道長

平安時代2

北九州の歴史

ホーム