平安時代2

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平安時代2
3.藤原道長 
 

朱雀天皇のもと、藤原忠平は関白となり、朱雀天皇が譲位し、村上天皇になった後も関白でした。しかし、忠平が死去すると、村上天皇は関白を置かず、摂政は中断しました。
藤原忠平の子、実頼(さねより)・師輔(もろすけ)・師尹(もろただ)の三兄弟はそれぞれ娘を村上天皇に入れていました。師輔の娘は3人の親王を産みました。やがて摂関の地位は師輔の系に伝えられていくようになります。しかし、師輔も親王を産んだ師輔の娘も親王が即位するのを見ることなく亡くなります。
村上天皇が崩じると、3人の親王のうち上が即位して、冷泉(れいぜい)天皇となります。中の親王は前年源高明(たかあきら)の娘を妃にしていました。そのため、藤原氏は源高明が外戚となり、力を強めることを恐れ、下の親王を東宮にしました。
冷泉天皇は精神に異常があったため、実頼が関白となり、太政大臣になり、源高明は左大臣、師尹は右大臣になりました。実頼が関白となって以来、歴代、摂政か関白が置かれ、藤原氏が摂関に任ぜられ、ここに摂関政治が始まりました。
摂政・関白は職掌上の規定があるものではありませんでした。摂政は天皇の代行を、関白は臣下として太政官政務を掌握するものでした。藤原忠平以降は天皇が幼少の頃は摂政、天皇が成人に達すると関白になるのが慣例となりました。


969(安和2)年、謀反を企てている者がいるという密告があります。密告者の1人が源満仲です。この密告をもとに数人の者が捕らえられます。その調べから源高明が天皇を廃そうと企んでいるということで、大宰権帥として左遷されます。この事件を安和(あんな)の変と言います。これは右大臣の師尹と師輔の息子達によって引き起こされたものと考えられます。事件後、師尹は左大臣になります。
承平・天慶の乱の際、将門の乱にも、純友の乱にも関わった人物に源経基がいますが、その子が源満仲です。反対に謀反に関わったとされ、配流された人物の1人に藤原千晴(ちはる)がいますが、彼は将門追討に功があった藤原秀郷の子でした。事件後、源満仲の清和源氏は摂関家と結びつき力を拡大していきます。
この後、藤原実頼・師尹の兄弟が亡くなり、師輔の子で摂政・太政大臣になっていた伊尹(これただ)も亡くなりました。

藤原伊尹の死後、弟の兼通と兼家の兄弟の争いが激しくなります。師輔の娘、村上天皇の皇后で、冷泉・円融天皇の母の遺言で兄の兼通が円融天皇の関白になります。兼通は伯父実頼の子頼忠を関白にし、兼家を左遷します。その直後、兼通は死去します。
藤原兼家の娘は円融天皇の子を産んでいました。円融天皇は譲位します。即位した花山天皇は兼家の兄伊尹の娘と冷泉天皇の間の子でした。兼家は花山天皇の出家の希望を利用してまもなく退位させ、自分の外孫を一条天皇として即位させます。摂政となった兼家はこの時官位の右大臣を辞しています。兼家の上に太政・左大臣がいましたが、このときより摂政それだけで、最高の機能を持つようになりました。

天皇・東宮両方の外祖父になった藤原兼家は彼の子息の位階・官職を強引に引き上げていきます。兼家は病気になり、間もなく亡くなります。長男の道隆が摂政・関白となります。道隆はその子の伊周(これちか)を引き立てます。疫病が都で流行ります。そんな中、道隆は死去し、弟の道兼が関白になりすが、道兼も間もなく亡くなります。このとき、公卿の上層部は他にも死去が相次ぎ、大きな穴が開いていました。
そんな中、藤原道隆の弟の道長と、道隆の息子の伊周の争いになりました。この時、道長の姉である一条天皇の母が道長を強く押します。これによって道長は内覧となります。内覧とは、宇多天皇の時代、藤原時平と菅原道真に天皇に政治上のことを申し上げたり、その裁可の願いを扱うのを任せたことが始まりと言われます。
この後、伊周は事件を起こし、左遷され、道長は左大臣に任ぜられ、道長の地位は不動のものとなります。

 

一条天皇の中宮は伊周の妹の定子(ていし)でしたが、道長は娘の彰子(しょうし)を女御(にょうご)として入内させます。入内してすぐに彰子は中宮になり、定子は皇后となりました。ここに一帝二后の前例ができましたが、定子は間もなく世を去ります。この時代、皇后・中宮・女御には才色兼備な女房がつけられました。定子につけられた女房に「枕草子」の清少納言がいました。彰子には「源氏物語」の紫式部がいました。

一条天皇が亡くなると三条天皇が即位し、彰子が産んだ皇子が皇太子になります。三条天皇は病気に悩まされたため、皇太子に譲位し、後一条天皇が即位します。そして、天皇の外祖父である道長が摂政になります。しかし、翌年には道長は摂政を辞し、長男の頼通が摂政になります。道長は太政大臣になります。しかし、それも翌年に辞してしまいます。道長は摂政・太政大臣を辞した後も大殿(おおとの)として、頼通の背後で、実権を握っていました。東宮は彰子の産んだ後一条天皇の弟でした。道長は娘の嬉子をこの東宮の妃としました。このため、道長は後一条・後朱雀・後冷泉天皇三代の外祖父となります。
道長はいくつもの寺院や邸の新築や改築を行っています。特に土御門邸の再建と法成寺(ほうじょうじ)の造営が有名です。これらの造営工事は国司達が競って行いました。これは道長が強い力を持っていたとともに、国司達が諸国で多くの財を得ていたことをしめしています。そして、国司の中には摂関家の家司(けいし)になった者も少なからずいました。

不輸租荘園の官省符荘は特定の社寺にのみ与えられたものであり、その耕作は周辺の公民の賃租によるものでした。それによって収入を上げるには国司・郡司や有力者に協力を得なければなりませんでした。一方、輸租荘園は墾田を集積したもので、王臣家や社寺が所有できました。これも公民に賃租し、荘園領主は租を除いた収入を得ました。
ところで、富豪の輩は王臣家の名を借り、その荘を根拠に私出挙を行いました。人から土地に徴税単位が移行する中、官物(租と正税の利稲)は納めながら、名(みょう)の規制を逃れるため、権門社寺に寄進して荘園とする者が続出しました。こうした輸租荘園が時の権力者道長に集中して寄進されました。

 

960年に宋の太祖が帝位に就きました。日本と宋とは11世紀後半まで宋船の来航で結ばれていました。10世紀末には我が国は許可なく海外に渡航することを禁止していました。
1019(寛仁3)年、50余隻の船が対馬・壱岐を襲って、人々を殺傷し、連れ去りました。
この時、大宰権帥は藤原伊周の弟で、道長と対立し、一時はともに左遷されていた藤原隆家でした。この襲った船は刀伊(とい)の船でした。刀伊は朝鮮語で外蕃を意味し、高麗の北部の女真(じょしん)族を指します。女真族は渤海の旧民で、12世紀には金と称して、遼を滅ぼし、宋を圧迫します。
刀伊は筑前国の怡土・志摩・早良郡を襲い、人々を連行します。その目的は働き盛りの人々や子供を連行することにあったようです。更に能古島を襲います。藤原隆家は自ら軍を率い戦います。刀伊は博多に上陸しょうとして激戦が展開されます。その後、筥崎宮に上陸しょうとして撃退され、肥前国松浦郡でも撃退され、刀伊は去って行きます。

 

外国商船との貿易は政府の承認の下、大宰府で行うのが建前でしが、それらが守れなかったこともあったようです。宋船と接する大宰府官人は商品を入手する機会も恵まれていました。藤原隆家は道長や彰子にそれらを献じていました。輸入されたものは高級織物、香料、薬、書籍等でした。また、宋船によって宋に渡った僧侶もいました。

10世紀に入って広まった浄土教は、天台宗で仏像の周りを回って、口で阿弥陀仏を唱え、心で念ずる念仏が発展したものでした。律令制が崩れ、給付が減ることにより、中小の貴族は前途に悲観し、末法思想の流布に伴い、浄土を求める浄土教は広まりました。そして、市の聖によって念仏は民衆の間に広まっていきました。それが10世紀の末に上級貴族の広まったのは道長によってであり、その背景には源信の「往生要集」がありました。
道長は天台教を学び、法華経の講義を熱心に受けています。源信は出家して延暦寺に学んでいます。「往生要集」は貴族の浄土信仰に大きな影響を与えました。道長もその影響を受け、浄土教に帰依していきました。

 

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