平安時代2

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平安時代2
4.藤原頼通 
 

道長から頼通の時代に摂関家は確立されていきました。道長が亡くなった頃、上総・下総を中心に国司に対抗していた平忠常が1028(万寿5・長元元)年、安房守を殺害しました。彼は東国に根を下ろした土着貴族でした。この事件を平忠常の乱と言います。
政府は追討使を派遣しますが、忠常は抵抗し、房総三国を3年間も支配します。しかし、追討使として派遣された源頼信に降伏します。頼信は安和の変の際の密告者源満仲の子です。これは頼信と忠常が以前主従関係を結んでいたためではないかと言われています。

 

国司は任国内の支配を政府より任され、徴税を請負っていました。10世紀、政府への上納は国図に登録された本田数を維持することを目標にしていました。しかし、耕作されない田地もありました。それが10%を超えると、政府に申請しなければいけませんでした。この田地を不堪佃田(ふかんでんでん)と言いました。
不堪佃田を申請した国は開墾に努めるように督励されましたが、11世紀に入ると、申請する国が多数に上っています。このように政府に対して国司は請負数を減らそうとする傾向にありました。
請負数の減額に反して、国司はその収入を増やすことができました。それは反当りの賦課率を変える権限をもっていましたし、徴収する物を他の物に換えて納入させることができ、その交換率を一方的に決めることができました。国司は公的なものの他、私的にも蓄財をしました。諸国の支配を任された国司の中には過酷な徴収を行ったため、郡司・百姓が政府に上訴しました。具体例として尾張守藤原元命(もとなが)の非法を訴えた尾張国解文(げぶみ)があります。
 

律令下における郡・郷という系列から、中世には郡・郷は対等な関係になっており、別名(べつみょう)と言われる新しい郷や保・名・別符・村・浦が郡・郷と一緒に有りました。このような別名は1040年代に発生してきたと言われています。
農民が新たに田を開墾しても、国司は検田によって何処かの名(みょう)に組み込みました。農民達は名による支配に抵抗して、耕作を放棄しました。特に名を中心にした公田の荒廃はひどくなっていました。
開墾を主導した地方の土豪は後、在地領主と言われる階層でした。彼らは私的に従属している所従・下人を中心に農民を支配していました。開拓された田地は有力貴族や社寺に荘園として寄進されました。在地領主によって寄進された荘園は官物は国衙に納めましたが、名の公田の高い負担からは逃れようとしました。国司を上訴した百姓達の背後にいたのは在地領主達でした。
このような事態に対し、後朱雀天皇と道長の後を継いだ関白頼通は名による支配方式を変更します。既存の名の他に公田を持たない別名(べつみょう)を徴税単位として認めることにしました。そして在地領主は別名の行政官として補任され、国司の支配の一翼を担うようになりました。


1045(寛徳2)年、寛徳荘園整理令と呼ばれる太政官符が発せられます。その内容は、前任国司の在任中以降の荘園は停止するというものでした。従来は、10世紀初頭の延喜荘園整理令以降の格後の荘園は整理の対象としていましたが、代々の国司によって官物不輸が認められてきた国免荘は官省符荘と同じに公認するというものでした。
国免荘は公認されましたが、単に荘園と呼んでいた輸租荘園は公領に戻され、別名とされました。元々国免荘は国司が貴族や社寺に支払う封戸物等が滞っていたため、その代わりに国免荘が与えられたことが多かったため、今後は国司に与えるのはやめさせるというねらいもありました。
別名制の公認と同時に国内官物率法の制定が行われました。これによって国司によって決められていた官物の賦課率は政府によって決めるようになりました。これ以降新しい徴税の体系は官物と雑公事(ぞうくじ)とになります。これにより租・庸・調などの律令制以降の名称はなくなり、本来は人に賦課されていて、実は土地に賦課されていた一部の臨時雑役も官物に含まれるようになり、残された臨時雑役が雑公事となりました。
官物・雑公事の他に、政府は臨時支出の必要が生じると、諸国に割り当ててきました。従来は諸国の財源の正税から納めるものとされてきましたが、暗に農民に臨時に賦課することが認められるようになりました。しかし、国司に対する反発が強くなると、公領だけでなく、不輸荘園も区別することなく負担させるようにしました。このように賦課されたものを一国平均役と言います。しかし、政府は寺社領にはそれを免除するように指示しますが、諸国では賦課しました。
国司に対する規制は強くなり、国司が賦課を強化しょうとすると検田を厳しく行わなければいけませんでした。しかし、農民との摩擦が多くなったため、後になると、申告で済ませるようになりました。別名は本来在地領主が開拓した私領でした。ところで、公田も在地領主の私領として子孫に相伝されるようになります。これは国衙台帳に載っている官物・雑公事を納めれば、残りは在地領主の取分としたためです。

 

寛徳荘園整理令が出された年、後朱雀天皇は後冷泉天皇に譲位します。東宮には後冷泉天皇の弟がなります。1052(永承7)年から末法に時代に入ると言われていました。釈迦入滅後、正法・像法を経て末法の時代になると、修行をしても功徳が得られず、世は乱れると言う考えに世の中は支配されていました。この年、藤原頼通は亡くなった父の道長の宇治の別荘に平等院を建立し、翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成します。これは極楽浄土を現出した建物と言えます。

 

10世紀頃から律令国家に帰順した蝦夷である俘囚の長である安倍氏の勢力が拡大しました。そして、安倍頼良は陸奥の奥六郡の郡司となっていました。しかし、国司に賦課を納めませんでした。そこで、国司が頼良を攻撃しますが、国司の軍は大敗します。このため、政府は1051(永和6)年、源頼義を陸奥守に任じます。頼義は平忠常の乱で追討使になった源頼信の子で、その追討にも参加していました。頼義が着任すると、大赦が出て頼良は許されます。この時、恭順の意を表し、頼良は頼義と読み方が同じであるため、名を頼時と改めます。
しかし、源頼義が挑発したのでないかと言われていますが、頼義と頼時の間で戦いが1056(天喜4)年始まります。この戦いを前九年の役と言います。
安倍頼時は間もなく戦死しますが、その子貞任(さだとう)は屈せず、抗戦します。源頼義の軍も大きな犠牲を出します。その中で、頼義の子の義家は奮戦します。しかし、戦いは長期になり、諸国からの軍兵や兵糧は届けられなくなりました。そこで、頼義は出羽国の俘囚清原光頼・武則兄弟に助力を要請します。清原氏の軍の参戦により、貞任は戦死し、その弟の宗任は投降し、1062(康平5)年戦いは終わります。翌年、源頼義は伊予守に、義家は出羽守に任ぜられます。清原武則は安倍氏に代わって陸奥の奥六郷を支配するようになります。

 

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