平安時代2

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5.到津荘
 

朝廷の崇敬が篤い宇佐八幡宮は、当初豊前国宇佐郷を中心に豊前・豊後・日向に封戸を与えられていました。これらの封戸は人であらわされていたものが、後には田地によってあらわされました。これを御封田と言います。
藤原道長によって大宰帥として平惟仲(これなか)が赴任してきます。惟仲は大宰府の権限強化に乗り出します。宇佐八幡宮に対する支配も強化されます。八幡宮内の大宮司と権大宮司の対立を利用して発言力を強めたり、非礼な行いをします。これに対し、八幡宮側は政府に訴えます。この訴えに惟仲は敗れ、この結果、豊前国規矩郡にあった御封田の一部と交換して、到津荘が成立します。
鎌倉中期に書かれ、現在到津宮司家に残されている「八幡宇佐宮神領大鏡(宇佐大鏡)」に宇佐八幡宮の荘園の成立と発展の過程が記載されています。北九州の宇佐神宮の荘園のうち、到津荘・貫荘は神田・位田などを中心にして成立した荘園として記載されています。長野荘・横代別符・蒲生安則・貫入田は開拓や寄進によった荘園とされています。宇佐八幡宮の荘園は封戸が荘園化したものが豊前・豊後・日向に、神田・位田などを中心にしたものや、開拓や寄進によるものはその三国の他に、筑前・筑後・肥前・肥後に及んでいます。
 

到津荘の範囲は「宇佐大鏡」によりますと、北は海岸、南は高槻、現在の八幡東区槻田付近の山で、豊前と筑前の国境付近、東は現在の小倉城のある勝山公園、西は豊前と筑前の国境の、現在の小倉北区と戸畑区の境の、境川となります。このような広い範囲に若干の田地があっただけと考えられます。これからの開拓地といえるものでした。宇佐神宮は農民を組織し、灌漑施設を設けて、開発していきました。このように宇佐八幡宮は荘園領主と在地領主の性格を持つようになっていました。後、到津八幡神社は到津荘の鎮守として宇佐八幡宮から勧請されました。

小倉北区の到津八幡神社

 

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