平安時代3

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2.鳥羽院政

平安時代3
1.白河院政
 

後冷泉天皇が死去すると、後三条天皇が即位します。藤原頼通らは先帝に皇子が生まれることを望んでいましたが、産まれず、藤原氏と外戚関係がない天皇が誕生しました。後三条天皇は摂関家に独占されていた政治運営に国司つまり受領層や学者を登用しました。また、公卿に皇族出身の村上源氏や醍醐源氏の人々を数多く入れました。
前関白頼通や弟の教通(のりみち)も天皇に対して表面上は対抗することはできませんでした。1069(延久元)年、延久の荘園整理令が出されました。これは先帝の整理令を徹底するもので、国司に任せず、記録荘園券契所(けんけいじょ)を設けて、中央で荘園の正式な証拠文書を記録し、審査しました。また、田地が固定でないものや国衙と荘園の両方に属している加納田、荘民が公領に出て耕作する出作(でさく)田などを整理の対象としました。そして、成立根拠の弱い、国司によって許可されて不輸になった国免荘が整理の対象になりました。逆に、根拠の強いものは認められました。
荘園領主の上級貴族は荘園整理に抵抗しました。しかし、これまでのように例外を認めることがなくなり、荘園整理はかなり実行されました。
後三条天皇は物価の安定を図るため、都の市に於ける物価や、諸国からの納物の交換比率を定めた沽価法を制定します。そして、宣旨を下して、公定枡を決める宣旨枡を制定します。この枡を使って荘園・公領を問わず、一国平均の課役を徴集する体制がこの時代に確立しました。35歳の壮年で即位した後三条天皇は4年余りで退位し、間もなく死去します。

後三条天皇はその子白河天皇に譲位します。ところで、白河天皇が東宮の時、藤原頼通の子の師実(もろざね)の養女を妃とします。後三条天皇は藤原摂関家が天皇の外戚に復活することを危惧し、更に後三条天皇に子ができたため、白河天皇のその異母弟を皇太子にするために譲位したと言われています。しかし、白河天皇にも皇子が誕生し、異母弟の皇太子も死去します。ところで、白河天皇にはもう1人異母弟がいました。そこで、1086(応徳3)年白河天皇は我が子を東宮に立て、自ら退位し、東宮を堀河天皇として即位させます。ここから院政が始まったと言われています。

これまでであれば、8歳の幼帝である場合、外祖父藤原師実が摂政となり、政治を行うのが通例でしたが、藤原氏の勢力は低下し、村上源氏の進出もあり、摂政になっていた関白師実の実権はそれ程ない状態でした。それと同時に、家族制度が母系家族型から父兄家族型に変化していく過程であり、妻の親の元で外孫が養育され、外祖父の孫に対する発言が強かったものが、新宅が妻の本宅から離れて造られ、父方の尊属の発言が強くなる傾向にありました。このことが天皇の父や祖父である上皇の発言を強めていきました。
白河天皇は退位して10年後出家し、法皇となります。摂政藤原師実は堀河天皇の養父でした。実父は村上源氏の右大臣でした。そして、師実の妻も右大臣の子でした。このため、師実は上皇や村上源氏とは妥協的でした。
藤原師実は子の師通に関白の地位を譲ります。この時代、往年の藤原摂関家の権威は失われていますが、師通は白河上皇による院政には極力抵抗します。摂関家による朝廷政治と上皇による院政が対立しながらも、それなりに運営されました。
藤原師通が死去すると、その子の忠実(ただざね)が内覧の宣旨を賜ります。忠実は父と違い、白河法皇の意見に従います。この頃、公卿の半数は村上源氏などの源氏で占められていました。こうして、白河法皇による院政は一層専制化していきます。

白河法皇は天皇即位以来、後三条天皇の荘園整理の政策を継承しました。そして、白河法皇による専制政治にはそれを支える軍事力がありました。まず、院庁に北面(ほくめん)の武士を置きました。院の御所の北面の詰所に武官による集団がつくられました。これは特別な官職でなく、彼らは受領層や衛府の武官、検非違使等の官職を持っていました。この他に、源義家や義綱等の都に於ける武士団を強力な軍事力として利用しました。
院の力が強くなると、天皇の宣旨や太政官の官符より、院よりの文書や命令の院庁下文(くだしぶみ)や院宣(いんぜい)が優先されるようになります。そうした院の経済基盤は任国に赴任して執政する国司である受領層の経済力にありました。
宮殿・寺社造営や宮廷行事の費用を負担させたり、請け負わさせたりして、その代わりに官位を与えるのを成功(じょうこう)と言いますが、白川院政はこれに応じました。成功のための財力を得るには受領が最もいい地位でした。そして、受領達は成功によって任を重ねる重任(ちょうにん)を期待しました。このため、受領層である中流以下の貴族は院政の支持者になりました。
上皇の側にいる院辺の人(いんのあたりのひと)は非常に権勢を誇っていました。彼らは中級貴族か、下級の貴族で受領を歴任して出世した者で、多くは公卿でしたが、上級貴族にはなれない階層でした。しかし、朝廷に於ける公卿達による会議には出席できましたので、上皇の意思通りに政策は決定されました。

 

白河天皇・法皇の頃、南都・北嶺と呼ばれる寺院は非常に大きい武力を持っていました。南都は興福寺・東大寺等の奈良の寺で、北嶺とは比叡山延暦寺のことで、僧侶の兵である僧兵を持っていました。彼らは武力で訴える強訴(ごうそ)や諸寺間の争いを頻繁に起こしていました。
元来、僧になることは厳しい制約がありましたが、大寺院が数多く造営され、僧侶の数も増え、それに従って質が低下しました。また、農民は課役を逃れるため、剃髪する者も多かったと言われます。寺院の方は貴族から寄進された所領や布施も多く、経済的に豊かだったと思われます。皇族や上級貴族の子弟が出家する場合は、特権があり、簡単に上位の僧侶になることができました。このため、修行の場であった寺は利益追求の場となり、利害の対立する場となりました。
その対立が一番激しかったのが、延暦寺と園城寺(おんじょうじ、三井寺)でした。延暦寺では最澄の没後、円仁派と円珍派が座主(ざす)の座を巡って争い、実力行使が行われ、遂には分裂して円珍派は園城寺に移ります。円仁派は山門、円珍派は寺門と呼びます。両派の抗争は11世紀激しくなります。
他には南都と北嶺間の争いもあります。代表的なものとしては永久の強訴事件と言われる興福寺と延暦寺の争いによる強訴事件がありました。
院政によるこの時代に寺院からの要求が強硬になったのは、受領層によって寺領に対する圧力が増したため、寺院の経済基盤を守ろうと、受領層の支持に立った院政に対し、その解決を求めて強訴に及んだ一面もありました。
強訴に際して、僧兵達は寺院の鎮守神の神木や神輿を押し立てて、入洛しました。例としては、興福寺は春日大社、延暦寺は日吉神社の神木・神輿を押し立てました。
 

永久の強訴事件では白河法皇は武力によって防御し、神木・神輿の威力もなく、武士の力によって僧兵の強訴は鎮圧されました。彼らは都で活躍する都の武者と言える存在でした。
彼らは在地貴族として貴族と関係を持ち、貴族を警備する兵として都に進出しました。検非違使等の官職に就くとともに、貴族と関係を持っていました。彼らは武者の家に属していました。その家は清和源氏や桓武平氏が代表的なものですが、最初は源氏が武者の家の代表でした。
源満仲以来、藤原摂関家と強く結びついていた源氏一門は武官の官職を経て、諸国の受領に任ぜられました。満仲の子の頼信の時には武者の家として広く認められました。頼信の孫の義家はその武勇と清和源氏の嫡流ということで都でその名を高め、地方にも広がっていきます。このため、諸国の百姓達は義家に土地を寄進することが競って行われました。

前九年の役後の約20年後、陸奥奥六郷を支配する清原氏も武則の孫の真衡(さねひら)の代になっていました。このころ清原一族間で対立があり、真衡と叔父の清衡・家衡の間で争っていました。清衡は安倍頼時の娘と藤原(亘理・わたり)経清の間に生まれた子で、経清が安倍氏とともに討たれたの後、清原武則がこの娘を妻として、その間に生まれたのが家衡でした。
こうした中、源義家は陸奥守として赴任して来ました。しかし、真衡は病死してしまいます。そこで、義家は奥六郷を清衡と家衡に二分して与えます。
清衡と家衡はこの後対立し、争います。そして遂には、家衡は清衡の妻子を殺害します。義家は家衡を攻めます。しかし、家衡は抵抗します。義家は苦戦しますが勝利を収めます。この戦いを後三年の役と言います。政府はこの戦いを私の合戦としました。清原氏追討の宣旨を受けられずに、義家は自らの武士団で戦い、鎮圧しました。

 

義家の奥州平定に対して、朝廷は冷淡でした。そして、名声が一層高まり、都の武者を束ね、所領の寄進を受ける義家に対し、関白師実・師通らの公卿達は義家の弟の義綱を支援するようになります。
これに対し、義家は白河法皇に接近します。義家は院の昇殿を許されます。一方摂関家では師通が亡くなります。ところが、義家の嫡子である義親(よしちか)の叛逆事件が起きます。
義親は対馬守として九州にいましたが、大宰府の命に従わず、人々を殺害し、官物を略奪するとして大宰権帥大江匡房(まさふさ)から訴えられます。政府はこれを叛乱としますが、義親を捕らえることができず、そのうち義家は死去します。その追討に平正盛が選ばれます。
平将門を討った平貞盛の子維衡(これひら)は現地に赴かない遙任(ようにん)の国司として東国の受領を歴任しています。彼の一族は伊勢を本拠としていました。維衡は正盛の曾祖父でした。正盛の時代には伊勢・伊賀に勢力を広げ、京都にも進出していました。正盛も多くの国の受領を歴任にし、遙任の国司として、白川法皇の側に仕えていました。平正盛は源義親を追討します。これにより平氏が台頭し、源氏と並ぶようになりました。
源氏の嫡流は義家の第四子義忠が継ぎ、義親の嫡子為義が義忠の養子となります。しかし、義忠は何者かによって殺され、義家の弟義綱が疑いを持たれます。義綱一族は為義によって討たれます。
この事件によって源氏の勢力は衰えます。しかし、東国に古くから地盤を持つ源氏一門は東国に根を下ろしていきます。中央で力を失っていく源氏に対し、平氏は中央で地位を築きました。そして、正盛が西国で国司を歴任したことで、平氏は西国と深い関係を持つようになりました。


鳥羽天皇の皇子が5歳になると、白河法皇は強引に鳥羽天皇を退位させ、皇子を崇徳天皇として即位させます。自身の天皇から堀河・鳥羽・崇徳天皇と半世紀を超える治世でした。白河法皇が崩じると、鳥羽上皇は院政を開始します。その院政は白河院政に反対するものでした。

 

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