平安時代3

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平安時代3
2.鳥羽院政
 

白河法皇は藤原氏の娘を養女として育て、その養女を鳥羽天皇の中宮にします。彼女が待賢門院です。その子が崇徳天皇になります。また法皇は崇徳天皇の女御として関白忠実の娘が入内することを遺言で禁じていましたが、鳥羽上皇は入内させます。これによって上皇と待賢門院との不和が目立ってきます。これに次いで、上皇は美福門院得子を入内させます。ここに上皇と待賢門院の不和が決定的になります。
美福門院との間の皇子に譲位することを鳥羽上皇は崇徳天皇に勧めます。ここに近衛天皇が誕生し、鳥羽院政が確立します。
藤原忠実は当初白河法皇に信任がありました。鳥羽天皇が皇太子の時代より忠実は近い関係にあり、即位後摂政・関白となり、内覧に任ぜられていました。白河院政の末期には忠実は法皇に逆らい、遂には内覧を解任され、忠実の嫡子忠通(ただみち)が関白となります。ここに忠実・忠通父子の反目が生じてきます。忠実は忠通の弟の頼長を可愛がります。

鳥羽院政が始まると、忠実に内覧を宣旨が下され、忠通の関白は名前だけになってしまいます。頼長は兄忠通に対抗し、兄弟は対立します。頼長を寵愛していた忠実は氏の長者の地位を忠通から奪って頼長に与えます。そして、頼長は内覧の宣旨を賜ります。

鳥羽院政では新立荘園が公認され、荘園領主達は荘園を新立し、出作田や加納田の荘領化を図りました。また、公民が年貢を国衙に納めながら,所属を荘園に移し、その雑役をつとめる寄人(よりうど)化も進みました。
摂関政治の頃は貴族達には俸禄があり、封戸も収入もあり、荘園からの収入がありました。しかし、院政になる頃には貴族達には荘園からの収入しかありませんでした。このため、荘園が分割相続されていたものを忠実は摂関家領として設定し、その上に荘園の拡大も努めました。
鳥羽上皇は近衛天皇が即位すると出家し、法皇となります。鳥羽院政は白河院政が受領層に基礎を置いたのに対し、その比重は低くなっています。
荘園整理政策は転換され、受領の経済力も低下しました。そして、知行国制度も大きな影響を与えました。上級貴族には知行国が与えられ、そこから利益を上げることができました。受領は国衙領からの収益を独占することができなくなりました。院自体には院領荘園が集積され、受領層による助けは必要なくなっていました。

平正盛の子忠盛の代に、鳥羽院政は僧兵の強訴や瀬戸内海のに出没していた海賊に対して平氏の兵力を利用していました。この時代の海賊はその地方の土豪的な武装集団でした。国司の命に逆らい、官物を奪い、政府からは賊とみなされました。
平忠盛はこれらをを鎮圧するによって、西国の在地武士と主従関係をつくりあげます。ここに平氏は西国武士を家人として、武士団を統合します。

 

この時代の国際関係は、公式には孤立政策でしたが、宋・高麗との私的関係は密接でした。白河院政のころ、中国には宋、朝鮮半島には高麗があり、その北方に遼がありました。鳥羽院政の頃には遼を滅ぼした女真族が建てた金に宋は圧迫され、南に行って漢民族は南宋を建てます。また、高麗は各地に叛乱が起こっていました。
こういった情勢の中、宋の商人は活発に貿易活動を行っていました。日本からはまだ進出する状況にはありませんでした。当時、日本は遣唐使の廃止から久しく、東シナ海を横断する造船技術や航海技術がありませんでした。
貴族達は国際関係には閉鎖的でしたが、輸入される物品に対する欲望は強いものがありました。そのための貿易関係だけは持ち、その窓口を大宰府として、政府の先買権を設けて、そのための役人を都から下向させました。しかし、政府の財政が悪化すると、その下向もなくなりました。大宰府は正税官物を使って府官が直接交易を行いました。こうなると、公私の区別がはっきりせず、貴族達は手を回して、輸入品を手に入れようとし、府官は私的貿易で富を得ようとしました。

宋商人の中には日本名を持つ者や母親が日本人であったり、日本に居住する者もかなりいました。宋の窓口は杭州と明州(寧波・ニンポー)でした。
貿易による利益が大きいこと知った貴族・荘園領主は自分達で船を仕立て、貿易を行うことを考えますが、東シナ海を横断することは不可能でした。そこで、日本からの貿易船は高麗を中継ぎとして宋と貿易を行いました。しかし、高麗の国内事情が不安になるにつれて、中継貿易は衰退します。この頃になると、それまでの経験によって、航海技術も高まり、日本の船も宋に渡り始めます。
10世紀末頃まで、日本では皇朝十二銭が流通していました。それ以降は絹・米・金銀が通貨の役割をしていました。12世紀になり、流通経済が活発になると、再び貨幣が必要になってきました。そこで、日宋貿易で入ってきた宋銭が利用されるようになりました。このように宋銭が利用されるようになったのは、それまで流通していた金銀が減少し、通貨として使えなくなったことがあります。

 

後三条天皇による荘園整理令により、国衙と荘園領主による二元支配を受けていた地域は整理されていきました。こうした中、皇室自体の経済基盤も勅旨田などの荘園が確定され、伊勢神宮や皇室用の荘園の御厨(みくりや)・御園(みその)などが形成されていきました。
鳥羽院政期には、荘園の停止・廃止と国衙領の確定が進み、それによって荘園の領域が確定されていきました。
国司支配下の国衙領は新しい行政単位としての郡や郷が確立し、国衙直轄領の他に、別符名・保などが多く成立していきました。土地を開発した在地領主の権利を認め、彼らは郡司・郷司・保司・公文(くもん)などに任命されました。彼らの他に国衙の下級官人である在庁官人も土地を開発した在地領主でした。
知行国主の収入は荘園を除く国衙領の正税官物でした。徴税の責任を負っているのは受領即ち国守でした。しかし、国守も任期がありましたので、実際の徴税と管理は在庁官人層が行いました。

国衙領に於ける郡・郷等の行政単位の他に、名(みょう)と言う単位がありました。これは徴税単位で荘園領内にもありました。かっての口分田が名となり、その後に開発した墾田などを加えていき、その土地を農民が占有していきました。国衙は検田した際、彼らの名を付けたところから何々名とされていきました。
農民の間にも没落してしまう者もあれば、成長して富豪層と呼ばれる有力者や、田堵と呼ばれる地主的な者も現れ、この田堵が11世紀には田地を請作(うけさく)する主体となりました。一般農民の名(みょう)を百姓名と言います。荘園領主や国衙から請作した田堵も、自身の耕作地に名をつけて名(みょう)とします。こうして耕作地を私有的性格の名田に変えて、その名田の所有者は名主(みょうしゅ)となっていきます。規模の大きな田堵はその下に作人を抱えて、彼らに請作させました。このような田堵は大名田堵と言います。
ところで、名と呼ばれるものの中には異質のものが含まれていました。ひとつは国衙直轄領の在庁名です。これは在庁官人の費用のための田地が郡・郷・名に一定の佃として割り当てられ、国衙が徴収していたものが、11世紀後期にはしだいに名田に編成されていきました。
他には、12世紀国衙領で別符名が成立したことです。これは国司が郡・郷のほかに別名を設けて徴収を行いました。別符名は荒廃した公田(荒田)を有力者に国衙がその開発を任せて年貢の納入を請負わせたことから成立しました。その有力者の中心は在庁官人でした。
国衙領の別府名と類似したものに保(ほ)があります。保は権門・官司の開発を国衙が認めた土地でした。封戸に変わって保を設定することによって権門・官司の所領が生まれ、官物を国衙に納める限り国衙領ですが、収益は開発者のものとなり、その一部は開発に協力した在地領主の収入となりました。

荘園整理政策が続けられることにより、荘園と国衙領の区分がはっきりされました。8世紀後半から始まった荘園は11・12世紀に確立されました。それは荘園の不輸租権の獲得と公事雑役の免除によって実現されました。不輸租権は官符や国司の免判によって、田租の免除を受けることであり、その権利はやがて官吏の立ち入りを拒否する権限すなわち不入権に進んでいきます。
公事雑役即ち国からの雑役賦課をやめて、荘園領主が取り立てることを許可されて、領主の権限が強化されました。
荘園領主は田堵の土地の占有権を認めて名田とし、田堵は名主として荘園内の土地および人を一元的に支配するようになりました。
荘園の形態としては墾田を源とする自墾地系の初期荘園がありますが、11・12世紀の荘園全体からはその比率は少ないものでした。荘園の発展の中で、大きな役割を果たし、この後、中世荘園の主流となったのが寄進地系荘園でした。
寄進地系荘園は豪族や国司等が貴族社寺に所領を寄進することから始まった荘園でした。そして、地方に根を下ろした受領の子孫、在庁官人などによる開発が活発に行われます。彼らを在地領主と言います。
在地領主は不輸租権を得て、開発した土地を荘園化することを望みますが、国司の取締りの対象になったり、外部からの侵入に脅かされます。そこで、在地領主たちは権門や強力な社寺に形式的に寄進し、実質的には土地の支配権を握ろうとしました。こうして荘園領主になった権門・社寺が領家(りょうけ)であり、一定の年貢を得て、その代償として荘園の不輸租権を確保し、荘園の保護の義務を負いました。
在地領主は領主職(しき)・預所職・下司職等の荘官となり、年貢・公事雑役を徴収しました。領家は自分の力で荘園を守ることができなければ、さらに上級の有力者に名目的に寄進しました。これを本家と言いました。ここに本家・領家・預所といった荘園支配が成立しました。なお本家あるいは領家の中で主体的荘園支配の権限を持ったものを本所と言います。

 

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