平安時代3

北九州の歴史

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平安時代3
3.保元・平治の乱
 

10世紀兵(つわもの)として活躍した地方豪族は本拠地に私営田を持っていました。11・12世紀にはその私営田に在地領主が成長してきます。
地方豪族の中には在地領主の武力を組織化して、豪族的領主として大武士団を形成していきました。
在地領主は血縁関係を元に戦闘のための集団を形成しました。これは自然発生的な自衛組織の武士団でした。武士団同士の争いや統合によって在地の武士団は成長していきました。
郎等・郎従は主人に仕える従者ですが、武士の郎党は主人の地位にかかわらず、恒久的な主従関係でした。兵(つわもの)や武者は郎等を従え、武士団内部が重層的な主従関係になっていきました。
農民のうちの有力名主は在地領主に成長していき、荘園の荘官や公領の郷司・保司に就き、自衛のための武士団を持ちます。荘園領主たちはその支配を維持し、保護するために武士化した在地領主を自分の方に引き止めようとしました。

中央のおいて勢力を失った源氏でしたが、源頼義・義家以来東国においてはかなりの勢力を保っていました。これはひとつには東国の豪族的武士の多くが清和源氏の流れをくんでいたこと、もうひとつは源氏の嫡流の為義・義家が東国の在地武士を家人・郎等としました。
源頼義・義家と私的主従関係を持った在地武士がいました。その中心は相模国の在地武士でした。彼らは源氏譜代の家人でした。1世紀後、源氏嫡流の義朝は鎌倉を本拠に活動しました。義朝はここの在地武士を支配下に入れ、中小武士団を統合して勢力を拡大しました。これは源氏嫡流と言う武士社会におけるひとつの権威である貴種性にあったと言えます。

かって白河・鳥羽の対立があったように、鳥羽法皇と崇徳天皇の対立が深刻になっていきます。こんな中、鳥羽法皇によって崇徳上皇は近衛天皇に譲位させられます。関白藤原忠通は父忠実に近づきます。近衛天皇は病弱でした。美福門院には皇子がなかったため、待賢門院の子の崇徳上皇の弟雅仁親王の子を養子にしていました。そこで美福門院と忠通はその養子を皇位に就けようとします。
藤原忠実・頼長らはこれに対して対抗することができず、そのうち近衛天皇は若くして死去します。しかし、その養子の父である親王が健在である以上、親王を差し置いて皇位に就けることができず、雅仁親王が皇位に就き、後白河天皇となり、美福門院の養子で、後白河天皇の実子が皇太子になります。
かって藤原頼長は父とともに鳥羽法皇の信任が篤かったのですが、ひとつの事件によって法皇の心が離れていき、後白河天皇の即位によって決定的打撃を受けました。その上、近衛天皇の死は彼らの呪詛によるものとの噂が広まり、鳥羽法皇はこれを信じ込みます。
失意の頼長と不遇な崇徳上皇は結びつき、そして彼らはこの事態を回復するために武力を持って解決しょうとします。

 

源氏では源為義と子の義朝は不仲でした。為義は藤原頼長と主従関係を持っていました。頼長は為義をはじめとする武士達を動員することを考えていました。
これに対して鳥羽法皇は平清盛・源義朝らに誓詞を入れさせ、後白河天皇を守ることを約束させていました。
1156(保元元)年、鳥羽法皇は亡くなります。崇徳上皇側に集まった軍は為義とその子息に率いられる源氏の武士達でしたが、源氏の郎等達は天皇側の義朝側についたため、勢力はそれ程ではありませんでした。同年、後白河天皇方は機先を制して、崇徳上皇方に攻撃をかけます。天皇方には源義朝・義康・頼政、平清盛・信兼等が、上皇方には源為義・頼覧・為朝、平家弘・忠正等が加わっていました。この戦いを保元の乱と言います。鴨川近くの白川殿を中心に戦いは始まります。戦いは短時間に終わり、結果、崇徳上皇は捕らえられ、後、讃岐に流されます。藤原頼長は戦いの最中流れ矢に当たって死去します。この乱の後、政治的な対立に武士の力が利用されるようになります。
この乱の際の天皇方は鳥羽法皇の遺言を美福門院が実行しますが、その影に少納言藤原道憲(みちのり)がいました。彼の家は代々学者で、家柄は低かったのですが、妻が後白河天皇の乳母であったため、その信任を得ていました。後に彼は出家して信西(しんぜい)を称します。
道憲は崇徳上皇を打倒し、藤原忠実・頼長の所領を没収し、摂関家と主従関係を持っていた源氏を抑え、平氏を引き立てました。

 

保元の乱により、上皇がいなくなり、天皇親政になっていましたが、後白河天皇はわずか2年で、二条天皇に譲位します。形では天皇親政でしたが、政治は信西に任せきりで、仏教の修行に熱心で、一方では今様(いまよう)を好みました。今様は当時の流行歌謡で、その歌句を集めた「梁塵秘抄」を自ら撰集したほどでした。後白河院政が始まると、院政派と天皇派の対立があり、院政派の中にも対立があって、再び貴族の間で勢力争いが始まりました。
当時、院政の中心人物は信西でした。これに対立したのが藤原信頼でした。そして、信頼に二条天皇の側近の藤原経方(つねかた)・惟方(これかた)が接近していきました。
武士の棟梁の平清盛と源義朝の間にも対立がはっきりしました。保元の乱で、義朝は戦功の割には恩賞は清盛より低く抑えられました。院や信西に不満を持つ藤原信頼・経方・惟方と源義朝は結びつき、1157(平治元)年、平清盛が熊野詣に出かけた留守に、挙兵します。
後白河上皇と二条天皇は幽閉され、信西は首を討ち取られます。この報に清盛は急ぎ帰京します。清盛の勢いを見て、藤原経方・惟方は清盛方に就き、天皇を清盛方に脱出させます。後白河上皇も密かに脱出していました。
清盛は藤原信頼・源義朝追討の宣旨を得ます。源氏と平氏の軍は六条川原で戦いますが、義朝についていた源頼政はこの時軍を動かさなかったため、義朝は負けてしまいます。この戦いを平治の乱と言います。藤原信頼は斬刑に処せられます。源義朝一族は東国に逃げようとしますが、次々と殺され、第三子の頼朝だけが清盛の義母の池禅師の助命によって伊豆に流されます。
平治の乱後、戦功のあった平清盛の一族には論功行賞が行われます。清盛自身はこの後参議に任ぜられます。

 

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