平安時代3

北九州の歴史

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平安時代3
4.11・12世紀の北九州 
 

大宰帥は親王が任ぜられる官で、中納言以上が権帥に、参議以下は大弐に任ぜられます。権帥と大弐は実質的には同じ官で、両者が併任されることはありませんでした。11世紀になると大宰府の権帥や大弐は赴任しない遙任が増えてきて、府官人の力が強くなってきます。宇佐八幡宮や安楽寺の荘園の形成も盛んになっていました。
大宰府の後盾もあって寺領を増やした安楽寺は次第に武力と財力を蓄え、寺領の拡大に努めます。そして遂には大宰府と事を構えるようになります。
1036(長元9)年には大宰権帥藤原実成(さねしげ)と衝突し、寺は訴え、実成は職を解かれています。
この安楽寺とともに宇佐八幡宮も力を持っていました。11世紀末安楽寺、宇佐八幡宮の神宮寺の弥勒寺、彦山の衆徒・神人達が大宰府で乱闘を起こしています。また宇佐八幡宮は大宰府官人の所領地を得ていましたが、大宰府に進出してきた宇佐八幡宮の神宮寺の弥勒寺と大宰府にある安楽寺は衝突しています。このころ次第に衰退していた観世音寺に対し、安楽寺は攻勢をかけ、観世音寺領、嘉麻郡碓井荘に安楽寺神人が乱入しています。
安楽寺の財力を支えた一つにその所領の博多荘における対宋貿易があります。

 

宇佐八幡宮の北九州の荘園のうち11世紀頃、到津荘と同じように各地に散在する神領を集めた荘園に貫荘があります。これとは異なる形態に長野荘の成立があります。ここは元来大安(おおやす)と言う大宰府領でした。それを1080年代に大宰権帥藤原資仲(すけなか)によって寄進されたもので、国司交代の度に不輸の免判を得た国免荘になりました。大安の経営主体は在地領主であり、在地領主が府官や在庁官人をしていたため、縁起のいい仮の名、大安で登録されていました。平安末期の長野荘の地頭には中原氏の名前があり、隣の貫荘にも勢力を持った一族でした。

 

北九州の荘園においても、荘園領主である宇佐八幡宮が主導するものと、在地領主が主導するものでありましたが、その生産主体の百姓をいかに組織化するかにその成果にかかっていました。しかし、北部九州に於いては畿内のような百姓層の大きな成長はなく、百姓達は在地領主の支配下にありました。そのため成立形態に違いがありましても、荘園管理には有力な在地領主が登用されたことに違いはありませんでした。
横代別符や蒲生安則(安則は別名)は在地領主の寄進でした。貫入田は貫荘の百姓による開発田地であったと思われます。
在庁官人や府官が在地領主化したり、在地領主を官人に登用することより、公領も在地領主層に分割領有されました。吉田保(ほ)がこれに当たります。
このほか北九州には宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺の荘園の篠崎荘・小倉荘、観世音寺の荘園の山鹿荘、藤原家の荘園の山鹿荘、西園寺家の荘園の楠橋荘ありました。勝木(香月)荘や曽根荘、大野荘の名も見えます。

 

12世紀、北部九州に於いても在地武士団が活動を始めます。12世紀中頃、築城郡城井を本拠とする大蔵種人達が宇佐八幡宮領を押領する事件がありました。その一族は府官になる者も多くいました。同じ頃大宰府目代の指揮下、筥崎(はこざき)宮領や博多に乱入する事件がありました。その中に府官の大蔵種平がいます。また嘉麻、穂波の宇佐八幡宮領で粥田経遠(かいたつねとう)が略奪を行います。種平は種人の兄弟であり、経遠は縁者に当たります。彼ら在地武士達は百姓達が荘園領主と結びつくことを封じて、在地領主としての支配強化に努めました。
西国に勢力を伸ばしてきた平氏の動きのうち、北部九州に関して見てみます。平正盛は肥前国藤津荘の荘官平直澄の追討に活躍します。その子忠盛は大宰府が貿易を管理していたのに対し、院宣の許可があるとして、鳥羽院領の肥前国神崎荘で宋と貿易を行っています。孫の清盛は大宰大弐に任ぜられると、宋との貿易を強化します。

 

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