平安時代3

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4.11・12世紀の北九州

平安時代3
5.平氏政権 
 

平治の乱は平清盛の力の強さを印象づけました。乱の際にも多くの貴族が清盛の六波羅邸に集まって来ました。本来武士勢力は古い支配体制を否定するものでした。しかし、清盛は権力の座を目指してその支配体制を肯定するものでした。
その中央政界は極めて複雑で混沌としていました。平治の乱の経過を見ると、元々藤原信頼・源義朝に挙兵させ、入道信西を倒させたのは天皇側近の藤原経宗・惟方でありました。しかし途中より経宗・惟方は清盛方について信頼・義朝は敗北します。そして、後白河上皇の側近は失脚し、公卿達は離れていきました。
こうして政界の主導権は天皇の側近にありましたが、上皇は突然藤原経宗・惟方の逮捕を清盛に命じます。そして院の側近達によって天皇方に攻勢がかけられます。
清盛は上皇方からも天皇方からも利用されます。しかし、清盛の義姉が上皇の寵愛を受けるに及んで、上皇方に傾いていきます。また娘が藤原摂関家と姻戚関係を持つようになります。
1165(永万元)年、清盛は権大納言となり、二条天皇は2歳の六条天皇に譲位し、清盛の義姉と上皇の間の皇子が東宮となります。1167(仁安2)年、清盛は太政大臣となりました。
清盛の昇進に伴って平氏一門の栄達も目覚しいものがありました。しかし、太政大臣になって3月で重病になった清盛は出家します。この時上皇によって東宮が即位して高倉天皇となります。その後清盛の状態は回復していきます。このころ後白河上皇も出家し、法皇となります。
平氏一門は六波羅一帯に邸を連ねていました。一族の長の惣領を中心とする集団の住居がここにありました。そしてその財力の源は荘園の所有と宋との貿易にありました。

 

平清盛が太政大臣のなった年、弟の頼盛は大宰大弐となって赴任して来ていました。頼盛は赴任中に多くの所領を獲得し、九州の在地武士と主従関係を結んでいます。また宇佐八幡宮大宮司宇佐公通(きんみち)を大宰権少弐に任命しています。安楽寺とも親密な関係にあったと思われます。
筑前・筑後・豊前・肥後・薩摩・壱岐は平氏の知行国で、清盛は家人をそれらの国に配置しています。薩摩国目代、筑前宗像荘・香椎荘の荘官に家人の平氏の名が残っています。
そして、在地武士の原田種直は平氏と主従関係にありました。種直は筑前国怡土の原田荘が本貫地で、父は筥崎荘乱入の府官種平で、大蔵氏の一族でした。
筑前国山鹿(芦屋町)に居城がある山鹿秀遠(ひでとう)も平氏と主従関係にありました。秀遠は粥田経遠の子で、肥後の菊池氏とも同族でした。
関門海峡の押さえの門司関は大宰府の下にあり、現在の北九州の沿岸、玄界灘沿岸一帯の北部九州の沿岸は平氏の支配下にあり、肥前松浦党も平氏に従っていました。

 

平清盛に権力が集まるにつれ、平氏一門の専横な行いが目につくようになります。そうなると、反平氏の機運も高まってきて、後白河法皇との間も気まずくなっていきます。こうした中、清盛は娘の徳子を高倉天皇の女御(後、中宮)とします。これで一層貴族の反感を買います。
貴族化していく平氏一門に対し、新興勢力の在地武士は平氏から離れる気持ちはありますが、他に権威としての大きな勢力がないため、表面的には従属していました。しかし、これに僧兵を擁する寺院がかかわって三つ巴で対立していました。法皇の側近達は常に延暦寺・興福寺等の寺院と紛争を起こしていました。この紛争に平氏の武力を使ったり、牽制したりしながら平氏の力を抑え、院の権力を確立しょうとしました。これに対し寺院は強訴で政府に圧力をかけようとしました。
このような三つの権力の複雑な暗闘の中、1177(治承元)年、京都東山鹿ケ谷(ししがたに)の山荘に於ける院の側近による平氏追討の謀議が暴露されます。これを鹿ケ谷事件と言います。関係者は捕まり、藤原成親西光は殺され、成親の子の成経・僧俊寛・平康頼は鬼界ヶ島に流されます。
翌年、中宮徳子は皇子を出産します。後の安徳天皇です。しかし、清盛と法皇の対立はますます深刻となっていきます。法皇は平氏に対して公然と挑戦する政策を行います。
1179(治承3)年、福原の別荘にいた清盛は軍を率いて上京します。清盛は反平氏の公卿の官職を奪い、法皇を幽閉します。翌年、高倉天皇は譲位し、3歳になったばかりの安徳天皇が即位します。この頃平氏一門及び家人の知行国・受領は全国66国中28国に及びました。

 

奥州では前九年・後三年の役によって、安倍・清原氏は滅び、藤原清衡に支配され、ここに奥州藤原氏の基礎は築かれます。清衡の父は藤原(亘理・わたり)経清で、亘理郡の豪族で、土着した藤原一門といわれています。前九年の役の折、安倍貞任と共に殺されています。清衡の母は清原武貞と再婚しています。後三年の役後、清衡は清原一族を束ね、藤原氏を称するようになります。
安倍・清原氏の旧領を引継ぎ、清衡は広大な所領の中、栄華を極め、子の基衡、孫の秀衡三代にわたって繁栄しますが、秀衡の子の泰衡の代に源頼朝によって滅ぼされます。
後三年の役後、源義家が陸奥守を解任され、新任の国司が赴任して来ますが、藤原清衡はその命令を聞きませんでした。この頃、中央政府には支配を徹底する力はありませんでした。
清衡は思うがままに財力を蓄えていきました。中央政府に反抗しても、京都に対する憧憬は強く持っていて、京都の文化を模倣したり、摂関家と接近したりしました。
二代目の基衡も清衡と同様に国司に反抗し、問題が起きてもその財力で解決しました。
三代目秀衡のとき、中尊寺金色堂がある平泉の栄華は京都と対比されるほどでした。保元の乱後の京都混乱と比べ、奥州は平穏でした。

この後、諸国で源氏が挙兵した時、秀衡は陸奥守に任ぜられますが、動くことはありませんでした。

 

院政が行われた時代は公家の時代が衰退し、武家の時代が始まる時代でした。しかし、文化面で言えば、公家文化が圧倒的でした。
末法の世の中の上に、僧兵の強訴や、武士達の戦闘で、京都の貴族や庶民は将来に不安を持っていました。そこから逃れるため、神仏への信仰を深めました。阿弥陀仏による極楽浄土に往生することを説く浄土教の教えは貴族だけでなく、広い階層の人々に及びました。「往生要集」の源信の教えを更に発展させ、浄土宗をおこしたのが法然でした。伝統的仏教が難解な教義にとらわれ、人々の信仰に成りえないのに対し、念仏だけで往生できる、根本の行いで、ご利益のあるとの他力本願の要諦を説きました。この教えは貴族や武士の間に広まりました。
法然が不必要とした造寺・造仏も盛んに行われました。また、霊験あらたかな社寺への参詣も盛んに行われました。その中で、熊野詣がもっとも有名です。
京都の人々にとって熊野詣は容易なことではありませんでした。紀伊国南端部の、住む人が少ない山奥の辺地である熊野本宮・熊野新宮・那智大社の熊野三山を浄土の入口の幽玄の霊地と考えました。修験の信仰と熊野三山の神々が結びつきました。宇多上皇の熊野御幸が最初で、院政期には上皇の熊野御幸が盛んに行われました。その行程は往復1月を要する大規模なものでした。

文学の分野では新しい歴史物語が出現しました。いわゆる物語文学の技法を入れて歴史を叙述する作品で、「栄華物語」や「大鏡」などが書かれました。
説話集としては「今昔物語」が書かれました。これは古今東西の広く社会の各層にわたって題材を求めた説話集でした。
この時代、大和絵から発展した、詞(ことば)書の一節と絵とが交互に描かれた絵巻物が流行しました。「源氏物語絵巻」、「志貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵詞」、「鳥獣戯画」などが有名です。
文化が地方にも普及したことがこの時代の特色のひとつです。最もそれが顕著なのは奥州平泉です。藤原清衡は中尊寺を造営します。寺院の形が整えられるのに20年かかったと言われています。その中で有名は金色堂は清衡の母や妻達によって造営されます。基衡は毛越(もえつ)寺を建立します。秀衡も建立し、奥州藤原三代に建立された寺塔は多数に上ります。
北に対し、南では、豊後国東半島の富貴寺の阿弥陀堂がこの時代の遺構を残しています。本尊の阿弥陀坐像もこの時代のものです。
平氏一門の文化面を見てみると、清盛は神仏の崇敬が篤く、熊野詣を行っていますし、安芸国厳島(いつくしま)神社の修造は有名です。厳島神社の雄大華麗な姿は今日までその面影が残されています。また、清盛の願文に平氏一門が書写した華麗な装飾経の「平家納経」が厳島神社に奉納されています。

 

平氏政権の下では、荘園や公領も従来となんら変わりはありませんでした。平氏による在地武士との関係は表面的でした。荘園領主の支配に対し、在地武士は反抗しますが、そんな荘園領主である貴族集団の中枢に平氏がいる関係になっていました。
反平氏勢力の結集は有力寺院の衆徒たちによって進められました。高倉天皇の上皇になって初めて行う社参は石清水八幡宮・加茂社・春日社・日枝社のいづれかであるのが慣例であったのが、厳島神社と発表しました。このため、園城寺・延暦寺・興福寺の衆徒が連合して反対したのに対し、厳重な警備の中、強行しました。
この頃、園城寺衆徒によって謀議が進められ、1180(治承4)年、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)の名による檄文が諸国源氏に発せられました。これには平治の乱で軍を動かさず、寝返った源頼政が加わっていました。
清盛がこの計画を知った頃、以仁王は園城寺に逃げます。清盛は一門を挙げて攻撃します。頼政や園城寺側は発覚が早すぎたため、準備ができず、以仁王・頼政は宇治平等院付近で敗死します。

この事件を契機に全国で反平氏の挙兵が行われますが、九州でも肥後の菊池隆直や豊後の緒方惟義(これよし)を中心にした挙兵がありました。これに対し、宇佐八幡宮の宇佐公通は真っ先に平氏にこれを報告しています。
清盛は1158(保元3)年、大宰大弐になると、自身は赴任せず、一族の者を派遣して大宰府に地盤を作ることにつとめました。外国船は公式には博多に入ることのみが許されていました。瀬戸内海に入ることは厳重に禁止され、門司関でこれを監視していました。しかし、清盛が太政大臣になると、宋船の瀬戸内海の航行を許可し、大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港)の築港をおこない、直接宋船を入港させました。この近くの福原に清盛は別荘を構えます。
平清盛は以仁王の死の直後、寺院勢力に報復を行い、福原へ遷都を発表します。清盛は以前より貴族層や寺院勢力の抗争が渦巻く京都を捨て、福原に都を移すことを考えていました。しかし、その準備が進んでなく、予期しなかった以仁王の挙兵があったため、急遽福原に遷都しました。このため平氏一門の邸や別荘が仮の御所となりました。この中で、摂政藤原基通は安楽寺別当安能(あんのう)の房に入りました。大宰府安楽寺別当の館が福原にあったことは、平氏政権との緊密さが伺えます。

 

伊豆に流されていました源頼朝のもとにも以仁王の令旨が届きます。平氏は頼朝の動静を警戒し、対処するように平氏方武士は準備を進めます。1180(治承4)年、頼朝は挙兵し、伊豆の目代を攻めます。相模・武蔵を押さえようとしますが、平氏方の大庭景観らによって阻止され、石橋山の合戦で伊東祐親によって惨敗します。頼朝は北条時政・土肥実平・三浦義澄らとともに海上を安房に逃げます。
源頼朝は上総広常・千葉常胤(つねたね)らの協力で相模の鎌倉に入ります。ここで武蔵の武士たちも参加し、下野の小山朝政、上野の新田義重なども協力し、5万の大軍となります。
頼朝の挙兵によって、はじめから東国の有力武士団が頼朝の統制下に入った訳ではありません。地域により反平氏の旗が独自に挙げられました。また木曾の頼朝の従兄弟の源義仲は挙兵し、信濃を押さえました。彼はその後北陸に進出します。しかし、頼朝は清和源氏の嫡流であり、代々の家人の在地領主が多い関東を地盤にすることができ、短時間に勢力を巨大化することができました。

頼朝追討の宣旨により、追討軍が派遣される予定でしたが、遅れに遅れ、士気も上がらず、途中の在地武士の協力も得られず、やっと平氏軍は富士川西岸に着きます。ここに源平は対陣しますが、源氏の軍は圧倒的に多く、水鳥が一斉に飛び立ったのに平氏軍は驚き、戦うことなく大混乱のうちに敗走したとの話が伝わっている位に、途中陣形を整えることができず、京都に逃げ帰っています。
これによって各地の叛乱は誘発されます。この頃、福原遷都に対する貴族・寺院勢力の反対のため、清盛は遷都を断念し、京都に戻ってきます。
延暦寺の衆徒は叛乱勢力に加わり、園城寺は近江源氏の拠点となっていました。やっと体制を整えた平氏軍は反撃に出ますが、近江・美濃で苦戦を強いられます。こんな中、南都でも不穏な動きがあり、平氏はこの方面にも軍を派遣します。ここでも苦戦したため、火をかけます。このため、春日大社を除いて、興福寺・東大寺をはじめとする南都の多くの堂塔が焼き払われます。
南都焼討ちによって平氏は寺院勢力から完全に敵対視されます。藤原氏一門からも氏寺の興福寺の焼失により、平氏一門は非難されます。この事件直前、後白河法皇の幽閉を解いて、院の側近との接近を図っていましたが、事件のため、その効果は全く無くなってしまいました。

翌年の1181(治承5)年、地方での内乱はますます増えます。しかし、院に於いても、内乱鎮定は平氏に頼らざる得ない状態でした。こうした中、平氏が勢力回復を計画し始めた頃、平清盛は熱病を患い死去します。
東から寄せてくる源氏に対し、平氏は墨俣川(長良川)を挟んで対峙します。この戦いは激戦で、平氏軍の勝利となります。美濃・尾張からの源氏の攻勢は頓挫し、膠着状態となります。
北陸道に於いては、越中・加賀・能登の在地武士が源義仲に応じて立ち上がります。そして、越前にも及んでいきます。これに対し、平氏は追討軍を派遣しますが、若狭・越前あたりで膠着状態になります。
戦乱のため、東国・北国からの食料が京都に入りにくくなり、旱魃の始まった大凶作のため、全国的に大飢饉になります。京都の惨状はひどく、疫病も流行ります。
このような状況のため、戦闘は中止さていましたが、平氏は北陸道に追討の大軍を派遣します。平氏の越中進出に対し、源義仲は叔父の行家とともに迎え撃ちます。越中・加賀国境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、義仲らは平氏追討軍を奇襲し、壊滅します。
源義仲は近江に入り、延暦寺衆徒と提携します。行家は伊賀を迂回して吉野・熊野の勢力と連絡しながら大和を北上します。他に近江源氏は近江から、多田源氏は摂津・河内から京都をうかがいます。四方からの源氏の進撃に対し、平氏は京都を放棄せざるを得なくなります。

平清盛の跡を継いだ宗盛は政権を維持して西国に赴くことに決めますが、後白河法は密かに比叡山に避難します。1183(寿永2)年、平氏一門は安徳天皇、生母建礼門院(徳子)を擁して、都落ちして西国に向かいます。
院の権力維持のため、法皇は義仲と連絡を取ります。そして、京都に残った公卿を召し、平氏追討を図ります。京都に戻った法皇は義仲・行家に平氏追討を命じ、頼朝に急ぎ入京するように促します。
九州に入った平氏を原田種直・宇佐公通・山鹿秀遠らが迎えます。拠点を大宰府にする予定でしたが、九州の反平氏勢力が意外と強いことが分かります。そこで、瀬戸内海を中心とする勢力を形成するようにします。

豊後・長門・周防の有力な在地武士は平氏に加担します。長門は平知盛の知行国でしたし、長門の彦島は関門海峡を押さえる要衝でした。四国の阿波・讃岐は平氏の支配下で、讃岐の屋島を拠点としました。この屋島と備前の児島を防衛線として、京都に迫る作戦を取りました。
その前線基地が一ノ谷でした。現在の神戸市須磨区で、北が山、南が海という防衛上堅固な場所でした。九州に入っていた安徳天皇一行は大宰府を発ち、山鹿秀遠の山鹿城を経て、門司区大里に柳御所を構え、その後一ノ谷に向かいます。

遠賀川河口近くの小山が山鹿城跡


源義仲の軍政下に置かれた京都での義仲の評判は悪く、法皇や貴族の反感を買っていました。東からは頼朝の弟の範頼(のりより)・義経の軍が迫っていました。
義仲は法皇を捕らえ幽閉します。しかし、法皇と頼朝の連絡は十分取れていましたし、源氏の諸将は義仲から離反していました。孤立した義仲は範頼・義経の軍に敗れ、近江の阿波津で戦死します。
1184(寿永3)年、平氏追討の宣旨が頼朝に下されました。一ノ谷に向かった源氏は範頼と義経の軍に分かれて攻撃しました。総大将平宗盛は安徳天皇、建礼門院らと共に沖合いの船上にいました。
攻撃は一進一退でしたが、一ノ谷の背後の断崖の上に出た義経の奇襲攻撃、いわゆるひよどり越えの逆落としによって平氏は大混乱となり、総崩れとなり、生き残った者は海に逃げ、平氏の船は屋島に逃げ去ります。この戦いで平氏一族の武将の多くを失います。

 

一ノ谷の戦いの後、半年間源氏は次の戦いの準備に費やします。源範頼は安芸・周防・長門に入り、九州の豊後に渡ろうとしますが、彦島の平知盛、児島の行盛によって前後を抑えられ、苦境に陥っていましたが、豊後・周防の在地武士の協力によってやっと豊後に入ることができました。緒方惟義は範頼を迎えます。この頃、頼朝は義経に屋島攻撃を命じます。1185(天暦2)年、義経は奇襲攻撃をかけ、平氏はほとんど戦わず、彦島に逃れます。屋島で1月準備をした義経は河野・熊野水軍を味方にして、満珠島に陣を張ります。1185(元暦2)年、3月24日彦島を出て、田野浦(現在北九州市門司区)に集結した平氏の軍船と源氏の軍船の間で戦いが始まります。この関門海峡の潮流の中での戦いを壇ノ浦(現在下関市)の戦いと言います。山鹿秀遠、松浦党等の平氏方の海の勇者の奮戦もむなしく、早朝から始まった戦いは正午頃には勝敗を決し、午後になると平氏一門は海中に身を投じます。安徳天皇・二位尼(清盛の妻)は入水し、建礼門院も入水しますが、救い上げられます。

 

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