鎌倉時代1

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鎌倉時代1
1.源頼朝
 

1185(天暦2)年平氏滅亡後、源頼朝は御家人に対し、許可なく官職に就くことを禁止する指令を出しました。前年の一ノ谷の戦いの後、頼朝は後白河法皇に平氏追討の勲功の賞は頼朝の方から申し入れる旨を伝え、法皇の策謀を封じ、恩賞の権限を朝廷から奪っていました。
しかし、源義経が兄頼朝の真意を理解せず、前年許可なく任官されたとき、頼朝は追討使から義経を外しています。平氏没官領を獲得し、御家人が自由に任官することを禁ずることにより、頼朝は次第に武家の棟梁の地位を確立していきます。
 

その支配地域も広く、御家人も多くなってきます。そして、朝廷との折衝も煩雑になってきます。そのため、頼朝は行政機構を整備する必要に迫られてきました。そこで、武家政治を確立するため、頼朝は京都から下ってきた優秀な王朝国家の行政官僚を登用しました。
1184(天暦元)年、鎌倉に幕府の家政機関の公文所が開設されます。その別当に大江広元がなります。少し後、裁判機関の問注所が設けられ、その執事に三善康信が任ぜられます。公文所・問注所の職員の多くは京都の下級貴族の出身者でした。
少しさかのぼって頼朝の武家政治の始まりは相模国府での論功行賞だと言われています。1180(治承4)年、富士川の戦いの後、相模国府で、頼朝は東国の戦いを助けた武士に対し、本領を安堵しました。
これにより、国司として国衙の実権を握っていた豪族的な武士に対し、頼朝は国衙を超える権限者としての地位を宣言しました。この年、頼朝は鎌倉に戻り、和田義盛を御家人の総元締として侍所の別当に任命しました。先に設立されていた侍所に、公文所・問注所が揃い、幕府政治の中核が整備されだしました。
後、頼朝が右近衛大将になった頃、公文所は政所と改称され、公文所はその一部局になりました。


畿内での支配地が広がるにつれ、御家人の統制がますます必要になってきます。
上総介広常は幕府創業の功臣であり、豪族的武士でした。広常にとって、頼朝も朝廷も絶対的権威ではありませんでした。そこで、頼朝は王朝国家への反逆者として広常を謀殺します。このようなことにより、関東の有力御家人は自分たちと武家の棟梁の頼朝との関係を思い知らされました。
御家人の統制に関して源氏一族の処遇があります。源義仲の滅亡の頃まで、互いに自立的だった源氏一族を頼朝は自分の指揮下に入れ、御家人としました。しかし、その一族が全く一般の御家人と同列であった訳ではありませんでした。
まず3国を頼朝の知行国として、源氏一族が国司となり、その後6国が知行国となり、国主の頼朝の推薦により、一族の武将達だけが国司になりました。しかし、知行国はその後減り、武蔵・相模など数ヶ国が幕府直轄領として、ほかは王朝国家に任せました。

 

一の谷の戦い以降、畿内とその近国を占領下においた頼朝は京都の警固を弟の義経に命じ、近国には近国惣追捕使を派遣して、行政と軍事の権限を与えました。しかし、占領軍に権限を集中しますと、部下の統制が利かなくなり、国司や領家との争いが起きてきます。
頼朝は現地にその解決を任せず、鎌倉殿御使(かまくらどのおんつかい)を派遣しました。そして、彼らには院宣に従い、すべてを奏聞の上に行動するように命じました。
源義経は近国惣追捕使の上に立つ地位だったと思われます。洛中警固に就いた義経に対し、後白河法皇はその策謀に引き込み、義経を頼朝に対抗させようとします。
壇ノ浦で平氏を滅ぼした義経は九州を奪おうとし、配下の賞罰も自分で専決しょうとしました。頼朝は平家没官領(もっかんりょう)等を先に九州に入っていた弟の範頼に任せ、義経には捕虜になった平氏一族を京都に護送するように命じました。義経が更に鎌倉に下ってきますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
頼朝は義経に会わずに、与えていた平家没官領を全て没収します。そして、伊予守であった義経に対し、この国に地頭を派遣します。このような仕打ちに耐えかね、義経は叔父の行家に引きずられようにして、頼朝に反旗を翻します。
義経は京都の邸が襲撃されるに及んで、挙兵します。法皇に迫って頼朝追討の院宣を出させます。しかし、近国の武士は義経に従いませんでした。義経と行家は散り散りになって西海を指して落ちて行きます。

 

義経を九国(九州)地頭に、行家を四国地頭に任ぜるという後白河法皇の院庁下文がありました。この内容は荘園・公領とも年貢・雑物を二人の責任で納め、その住人は二人の下知に従えというものでした。これは国衙の権限を国地頭に与えるものでした。
1185(文治元)年、頼朝は新しく北条時政を派遣し、洛中警固に当たり、近国も統括しました。そして、時政は地頭の設置を申し入れました。頼朝は義経・行家に与えた同じものを要求しました。頼朝は追討の院宣を出した後白河法皇の責任追及の態度を取らず、政治的譲歩を勝ち取りました。しかし、国地頭は大混乱を与えます。国地頭には兵糧米の徴収が認められましたが、西国は飢饉でしたのに、そこに兵糧米の徴収と言って武士が乱入し、混乱が続き、国司・領家の年貢を奪い、百姓を苦しめました。大量の紛争が発生し、その処理に追いつかず、遂には近国37国の国地頭の廃止に踏み込みました。なお、九国(九州)については、大宰府の管轄だとして、九州地頭についてははっきりした廃止はしませんでした。

頼朝は平家没官領を全て手に入れました。そのような没官領や謀反人跡の所領には地頭を置くことを朝廷に申し入れていました。この地頭は国地頭に対し、荘郷地頭と言います。国地頭は廃止されましたが、下司などと言われていた荘郷地頭が、これより地頭と言う名称に統一されていきます。この地頭は従来の下司・公文等の荘官と違い、関東から任命された者でした。
守護についても、非常に複雑な経過がありますが、1186(文治2)年以降、近国37国に於いては国衙の行政に介入することは禁止されました。しかし、幕府の支配機関として軍事部門を掌握し、諸国を守護していました。
こうして見てきますと、東国と頼朝の知行国は重なり合って直轄領を形成していきました。東国では頼朝の申請で、所領は分け与えられましたし、裁判は幕府が直轄していました。

 

西国に落ちのびようとした時点で、義経の政治生命は終わりました。必死の幕府の捜索にもかかわらず、その行方は分かりませんでした。義経の愛人静は吉野で捕らえられ、鎌倉に送られました。一方、義経は船で西海を目指しますが、嵐で難破し、吉野に入り、多武峰(とうのみね)に落ちます。その後、多武峰・大峰・伊勢神宮に出没し、比叡山にいる噂が立ち、京都近辺に潜みました。
叔父の行家は和泉国で捕まり、殺されます。義経の従者が捕まり、少ない義経側近の者が捕まえられたり、自害したりします。京都とその周辺の拠点も潰され、遂に義経は奥州の藤原秀衡を頼って平泉に落ちて行きます。
頼朝は兵糧米制度を廃止し、諸国年貢の未納分を帳消しとして国内秩序の回復を図っていました。しかし、頼朝は威令の及ばぬ奥州に対しては圧力を強めていきました。
義経が頼った藤原秀衡は、義経が奥州に下ったその年亡くなります。頼朝は奥州平泉に対し、義経を逮捕して差し出すように圧力を加えます。1189(文治5)年、秀衡の跡を継いだ泰衡は義経のいる衣川の館を囲み、義経は自害します。
泰衡は義経を殺して、和を請うつもりでしたが、頼朝は奥州藤原氏を討つことに目的がありました。両軍の間で激しい戦闘があり、敗れた泰衡は逃げる途中、平泉を焼き払います。そして、遂に泰衡は郎従の手にかかり、殺されます。ここに奥州三代の栄華も滅亡します。

 

後白河法皇を初めとする要請にもかかわらず、源頼朝は上洛しませんでしたが、1190(建久元)年、初めて上洛します。この機会に朝廷は追討の功に対する恩賞を与えようとします。権大納言、右近衛大将を与えますが、数日後に辞任しています。形だけ任命を受け、すぐに辞任して、頼朝は王朝貴族の一員でないことを示しました。任命の儀式は盛大に行われていますので、いわゆる王朝国家とは無関係ではなく、その権威は利用しました。
1192(建久3)年後白河法皇は亡くなりました。頼朝が征夷大将軍に就くことを法皇は嫌っていましたが、死後実現します。

鎌倉幕府体制は頼朝の征夷大将軍就任によって整っていきました。しかし、九州と奥州は頼朝の支配に強い抵抗を見せていました。
源範頼の九州攻めを豊後の緒方惟栄・臼杵惟隆は助けました。その後、義経・行家が頼朝に反旗を翻した時、豊後の国司や武士団はこれに従いました。このため、頼朝は豊後を知行国としました。
大宰府府官の原田種直や宇佐大宮司公通等を中心にして、九州は平氏一族の強い地盤でした。源範頼は平氏方の有力府官を追放し、大宰府を接収しました。
しかし、範頼の部下の武士による行為に対し、院は頼朝に範頼を召還するように要求しました。頼朝はこれを拒否し、中原久経・藤原国平を鎌倉殿御使として派遣します。
義経は九州の国地頭に任ぜられますが、反旗を翻した後、頼朝は近国に国地頭を設置します。そして、九州に義経に代わって天野遠景が派遣されます。しかし、その後近国の国地頭は廃止されます。九州は鎮西奉行として天野遠景が残されます。
その後、鎮西奉行はかって平氏の家人であった武藤資頼(すけより)と下級貴族出身の御家人中原親能(ちかよし)の二人が登用されます。
奥州にあっては葛西清重と伊沢家景の二人が奥州総奉行として御家人の統括と国務の実権を握っていました。
その後、九州においては鎮西奉行から分かれて、各国の守護が置かれます。1197(建久8)年九州は3地域に分けられ、筑前・豊前・肥前の守護が武藤資頼、筑後・豊後・肥後の守護が中原親能、大隅・薩摩・日向の守護が島津忠久になります。武藤氏は後、少弐氏に、中原氏は大友氏になります。
国毎に守護が置かれるとともに、国毎に大田文(おおたぶみ、土地台帳)が作成されます。

頼朝は御家人組織を整備することにより幕府の基盤強化に努めます。そのため、国毎に御家人名簿が作成されます。諸国の荘官クラスの武士が以前は平家だろうが源氏だろうが鎌倉殿の御家人として編成され直されました。
時代は前後しますが、1185(文治元)年、源頼朝は全国に地頭を置くことを後白河法皇から認められると、九州にも地頭を置きました。関東から惣地頭として下って土着した御家人は、関東下り衆と呼ばれました。その地元の郡司・荘官・名主などの武士で、御家人になったものを国御家人と言いました。惣地頭は国御家人の上に立ち、国御家人は惣地頭に対し小地頭と言われました。

山鹿秀遠の没収地山鹿荘は、源頼朝の大将御祈祷師であった一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)に与えられました。建久年間、宇都宮家政は母方の関係で、昌寛より山鹿荘を受け継いだと言われています。家政は東国から下向した御家人で、山鹿荘を拝領した後、山鹿氏を名乗りました。
家政の子の時家は、嫡子に山鹿氏嫡流を継がせました。そして弟の資時に山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の地頭代職を譲っています。これが麻生氏の始まりです。
北九州の在地武士の状況を見ますと、宇佐八幡宮領の長野荘には中原姓長野氏がいましたが、鎌倉期を通じて在住したものと思われます。
山鹿秀遠の叔父の香月秀則の所領勝木荘(八幡西区香月)はその子の香月則宗の時没収されそうになりますが、梶原景時のはからいで免れます。しかし、景時の謀反の際没収され、後、返還されます。承久の乱では則宗は京方につき、没収されますが、舞の名手の則宗の息子が将軍の目に止まり、後返還されます。
御家人の武士も、御家人でない武士もいましたが、蒙古襲来以降は御家人でない武士も御家人になっていく傾向になりました。
この御家人達を率いて、大番役や謀反・殺害の追捕を行うのが守護でした。この守護は国務にはかかわりませんでした。これが畿内・近国37国における守護・御家人制でしたが、九州の制度も次第に畿内・近国のものに近づいていきました。

 

源頼朝は王朝国家の政治には直接介入しませんでしたが、野放しにしたわけではありませんでした。義経・行家に加担した公卿達を追放し、右大臣九条兼実(かねざね)を中心にした頼朝派の公卿を進出させ、議奏公卿としました。彼らの議奏によって後白河法皇の政治をチェックしょうとしました。
しかし、国地頭制の失敗と西国における混乱に対し、行政上の責任を王朝国家に押付け、その一環として、京都に記録所が設置され、西国に於ける所領の訴訟を一括して行うようになりました。
この頃、関白九条兼実に対抗していたのが、法皇側近の源通親(みちちか)でした。2回目の上洛の折、頼朝は通親に接近しています。これは頼朝と北条政子の間の子で、木曾義仲の息子と結婚していた大姫(おおひめ)を後鳥羽天皇の後宮に入れことを計画していたためではないかと思われます。しかし、大姫は亡くなってしまいます。
そして、通親は兼実たちの孤立を謀り、兼実の関白を罷免し、兼実の娘を宮中から退かせ、弟の「愚管抄」で有名な慈円を天台座主から解任し、親幕派の公卿を一掃します。

源通親は自分の養女の子の親王に後鳥羽天皇が譲位するように働きかけます。頼朝はしぶしぶこれを認め、ここに土御門(つちみかど)天皇が誕生します。
1199(建久10)年、源頼朝は出掛けた折に落馬したのが原因で、鎌倉で亡くなりました。

 

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