鎌倉時代1

北九州の歴史

ホーム

1.源頼朝←|→3.承久の乱

鎌倉時代1
2.北条氏 
 

頼朝の死後、その地位は頼朝の子、頼家が引き継ぐことになります。朝廷も頼家が御家人を率いて諸国を守護することを承認しました。ここに将軍の地位が世襲されました。
しかし、幕府の有力者達は将軍頼家に信頼を置くことができませんでした。このため、13人の実力者による宿老会議が設けられ、談合の結果で訴訟の判決を下すことにしました。

この政権は関東各地に割拠する豪族的武士団の勢力の均衡の上にありました。そのため利害が対立することがありました。その最初の内紛が梶原景時の失脚です。
一説には、かねてより他の武士達から快く思われていなかった景時は、頼家に武士達が弟の千幡(せんまん、後の実朝)を立てて、頼家を討とうとしていると告げました。ある説では、小山朝光の反逆を密告したということになっています。

これを聞いた宿老達は頼家に景時の排斥を申し入れます。景時は反論することなく、相模の所領に引き揚げます。その後、上洛しょうとしますが、駿河で激しい戦いとなり、一族ともども戦死します。

この後、景時によって奪われていた侍所別当に和田義盛が返り咲き、景時が持っていた播磨・美作の守護職のうち、小山朝政が播磨の守護になっています。
この時、北条時政は遠江守になっています。頼朝の時代、その推挙によって国司になっているのは源氏一族だけでしたので、これにより、北条氏は御家人の上の源氏一族に準じる地位に上ったことになりました。
北条時政は、頼朝と娘の政子の間の子、頼家が将軍に就くことにより、外祖父となり、関東の御家人の間で、その地位を確立していました。比企能員(ひきよしかず)は娘を頼家に嫁がせ、一幡(いちまん)をもうけていました。頼家はしだいに比企氏に近づいていました。

 

時政は頼家が比企氏と結びつくことを警戒しました。このような状態の中、頼家は病気になりました。病気の重いことを知った頼家は出家しました。この時、頼家は一幡が跡を継ぐものと思っていました。一方、千幡に跡を継がせようと思っている時政は、能員を招いて殺害します。一幡も襲われますが、逃げました。
病気が好転してきた頼家に一幡が討たれたと伝わります。怒る頼家は伊豆の修善寺に幽閉されます。逃げていた一幡は発見されて殺され、1204(元久元)年、頼家は修善寺で殺害されました。
比企氏を滅ぼし、千幡を実朝として将軍に就かせた北条氏は強大な権力を確立していきました。北条時政は政所の別当に就きます。別当は別称執権と言います。

武蔵国は元来中小の武士団がひしめき合っていたため、他の国々では有力在庁官人が豪族的武士団を率いて、守護になったのに対し、守護は置かれていませんでした。このため、頼朝の知行国として一族の平賀義信を推挙し、武蔵守に就かせました。この時代、その子の平賀朝雅(ともまさ)が武蔵守でした。
朝雅は時政の娘婿でした。朝雅は比企氏滅亡の後、京都守護として上京します。留守になった武蔵の国務は時政が取り仕切ったと思われます。
朝雅が上洛した頃、伊賀・伊勢は平家の残党に制圧されていました。朝雅は追討使としてこれを平定し、後、伊勢・伊賀の守護に任ぜられます。朝雅はこの後、後鳥羽上皇に近づいていきます。

武蔵の豪族、畠山重忠が朝雅による時政への讒言により討たれます。その1月後、時政は実朝を殺し、朝雅を将軍に就けようとします。
しかし、政子やその兄義時は三浦義村をはじめとする関東の御家人を味方にして、時政を伊豆の北条に幽閉します。
時政は後妻をもらっていましたが、その間の子は朝雅と結婚したり、公卿の妻になっていました。畠山重忠は先妻の子と結婚していました。また、政子や義時は先妻の子でした。時政幽閉後、朝雅は京都で討たれました。この後、鎌倉は政子と義時の時代になります。

 

源頼家が修善寺で殺害される前年の1203(建仁3)年に、弟の実朝は12歳で将軍に就いていました。幕府の基本方針は変更なく、頼朝の路線が継承されました。
北条義時は権力を北条一門に集中するため、策を弄し、北条氏に対抗し得る勢力をそぐことに力を注ぎました。北条氏にとって侍所別当の和田義盛はどうしても除かねばいけない勢力でした。義盛の子息及び甥が謀反に加担して逮捕されました。これを機に北条氏と和田氏は正面衝突します。
1213(建保1)年、双方は鎌倉で戦います。これを和田合戦と言います。南関東の反北条の在地武士は和田氏につきますが、義盛は敗死します。戦いの後、侍所の別当に義時が就き、政所の別当と兼務しました。これらの別当の別称の執権を北条氏がこの後世襲します。和田氏の没収地は北条方に就いた幕府の要人に与えられました。

実朝は関東の豪族、足利氏の娘との縁談を破棄し、前大納言の娘を迎えました。
実朝は歌道に励んでいて、藤原定家との間で書状を交わしていました。自らも「金槐和歌集」を編んでいます。
北条氏は実権を握っていましたが、将軍が上皇の側近の娘と結婚して上皇に取り込まれたり、王朝文化にあこがれて、幕府が王朝国家の一機関になることを恐れていました。実朝の官位が短期間に右大臣に昇進したことはその危惧を大きくしました。
1219(建保7)年、実朝は鶴岡八幡宮において、兄頼家の遺児で八幡宮の別当公暁(くぎょう)によって殺害されました。公暁はその後討たれました。
実朝と公暁の死によって、源氏の正統は絶えてしまいました。

 

1.源頼朝←|↑2.北条氏|→3.承久の乱

鎌倉時代1

北九州の歴史

ホーム