鎌倉時代1

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鎌倉時代1
3.承久の乱
 

実朝の死後、母である尼将軍政子は、後鳥羽上皇の皇子の1人を将軍として下向してほしいと要請しますが、上皇は天皇と将軍に兄弟がなれば国家の統一が妨げられると断りました。
駿河では頼朝の弟で、謀反の疑いで殺害された阿野全城(ぜんじょう)の子が挙兵しました。これに対し北条義時は御家人を派遣して討たせます。この直後、義時の子、泰時が駿河守に任ぜられています。
京都も騒がしくなっていましたので、義時は伊賀光季に警固を命じ、大江親広を京都守護として派遣しました。上皇は寵愛していた伊賀局(いがのつぼね)の所領の地頭を解任せよと迫りました。
義時の弟、時房は千人の軍を従えて、上皇の要求を拒否し、皇族将軍の東下を要請します。そこで、左大臣九条道家の子の二歳の三寅(みとら、後の頼経)が選ばれます。三寅は親幕派公卿九条兼実の曾孫であり、頼朝の妹の曾孫にも当たりました。北条氏は皇族将軍をあきらめ、摂家将軍を迎えました。


後鳥羽上皇は北条氏が主導する鎌倉幕府が崩壊することを望んでいました。そこでまず、上皇は近臣を出羽羽黒山の最高位に、皇子を天台座主に送り込み、寺院勢力を味方につけようとしました。この頃、順徳天皇は4歳の仲恭天皇に譲位しています。
1221(承久3)年、鳥羽離宮に流鏑馬(やぶさめ)揃いと称して、近国の兵を集めました。そして、北条義時追討の宣旨が下されました。親幕派の公卿は幽閉され、二人の京都守護のうち、大江親広は京方につき、伊賀光季の屋敷は京方の軍勢に囲まれ、自害します。
宣旨が関東の豪族達に届く前に幕府は使者を取り押さえます。それでも、御家人達に動揺はありました。そこで、主だった御家人を前に政子は幕府の危機を訴えます。時代の流れ、そして頼朝の恩を訴えます。これにより関東は結束します。

幕府の宿老達には迷いがありましたが、政子は京都進撃の判断を下します。鎌倉方は東海道・東山道・北陸道から京都を目指します。
京方の要衝は次々と打ち破られます。京都は大混乱となり、山門の衆徒を味方にしょうとしますが、拒否されます。そして、遂には上皇は院宣を下して、今回の戦は謀臣がやったことだとします。
京方の敗北で承久の乱は終わります。義時を中心とする幕府は厳しい責任追及を行います。後鳥羽上皇は隠岐に流され、順徳上皇は佐渡に流されます。土御門上皇は直接責任はなかったとしますが、上皇は京都に留まるのを潔しとせず、土佐に流されますが、翌年には阿波まで幕府は迎えています。天皇はまだ即位してなく、外祖父九条道家に引き取られ、廃帝となっています。

 

後鳥羽上皇とその周辺には多くの皇室御領が集積されていました。鳥羽院政時代に行われた寄進によって形成されました八条院領、後白河法皇が自分の下に集積された所領を寄せた長講堂領、後鳥羽院政下で、畿内近国を中心に集積された代表的な七条院領、以上のように何代にもわたって寄進が行われ、所領が集積されていました。義時はこれら皇室領を全て没収しました。
後鳥羽上皇とその系統の天皇は排除されました。幕府は高倉天皇の皇子で、後鳥羽上皇の兄で、出家していた親王に目をつけます。この親王は太政天皇となり、後高倉院として院政をとり、天皇はその皇子が後堀河天皇となります。摂政は九条道家から近衛家実に更迭されます。
幕府は再び叛乱が起きないように、義時の弟の時房と子の泰時を六波羅探題として京都に送り込みます。六波羅を本拠に、洛中の警固と西国の幕府関係の裁判を行いました。二つの六波羅の地位は執権・連署に次ぐもので、北条一門の有力者によって占められるようになり、従来の京都守護よりはるかに広範な行政・軍事上の権力を持つようになりました。

承久の乱による没収地は3,000箇所以上に昇り、ここに地頭として関東の武士が入ってきました。

諸国の大田文が守護の下で作成され、荘園・公領の田地が明確にされ、国家的行事の費用や、御家人の京都・鎌倉大番役の負担は大田文の記載を基準に賦課されました。
諸国は知行制が敷かれ、権門の知行国主の支配下に置かれ、将軍家も関東御分国と言われる知行国を持ち、没官領を関東御領として支配下に置いていました。
荘園や郡・郷・保・名などの公領では田地を基準にして、各地の特産物が年貢として徴収されました。畠地についても、地子が賦課され、賦役などの雑公事が賦課されました。

西国では主に百姓に田畠等を均等に請負わせ、百姓名を編成しました。こうした百姓名の名主になった百姓はそれぞれの荘園や公領に住む惣百姓を代表する立場にありました。
これに対して、現地に本拠を持つ侍身分の人達は、公文・下司・田所等の下級の職に、荘園・公領の実権を掌握する領家や知行国主によって任命され、同じく領家・国主によって派遣される上級の職である預所・目代とともに年貢・公事の徴収に当たりました。このように西国の荘園・公領は本家を頂点に領家・国主、預所・目代、下司・公文、百姓名の名主の職が請負や任免の関係の職(しき)の体系によって支配されていました。

一方の東国は荘園・公領の規模が大きく、豪族的御家人が地頭となり、郡・荘全体を請負う場合が多く見られます。地頭は一族代官を荘園・公領内に配置し、年貢・公事を徴収させました。
東国では地頭を中心とする一族や主従関係にある者が荘園・公領支配を支え、年貢徴収の権利者の支配は現地に及びませんでした。実質的には幕府の支配下にありました。

西国の荘園・公領のうち平氏の没官領には既に幕府が任免権を持つ地頭が入っていましたが、承久の乱で王朝側に立った武士の没収地には東国御家人が新補地頭として入部しました。彼らは東国のやり方を強制し、百姓達への地頭に従属を強制することに対し、強い抵抗が示されました。その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟は各地で頻発しました。

 

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