鎌倉時代1

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鎌倉時代1
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源平の争乱の頃、平重衡による南都焼打ちにより、興福寺・東大寺の伽藍は焼け落ちていました。興福寺は藤原氏の氏寺でしたので、比較的早く復興しましたが、問題は東大寺でした。東大寺の再建には重源(ちょうげん)が大きな役割を果たします。
重源は洛中や諸国を勧進して回りました。重源は宋人の陳和卿(ちんなけい)に再建を頼み、宋の工人や河内の鋳物師達が腕をふるい、1185(文治5)年大仏が鋳造されました。その後、大仏殿の造営が行われました。重源は東大寺の他の建物や各地の寺院の造営をこの後行いました。
重源は宋に渡って、宋の事情に詳しく、宋人の技術を駆使して様々な造営が行われました。それらの建築様式は大仏様(だいぶつよう)と呼ばれ、東大寺南大門にみるように、力強く、豪放で、構造的美しさを持っています。
東大寺南大門の巨大で力強い仁王像は、運慶・快慶らによる鎌倉彫刻の代表作品です。

 

この当時、貧乏で、無学な一般の人々に対し、法然は念仏を唱えるだけで往生することを教えます。この法然の専修念仏に対し、比叡山や興福寺はその禁止を朝廷に対し要請します。ここに南都北嶺の旧仏教と法然の新仏教は対立します。
法然の弟子の中で、節をつけて美しい声で念仏を唱えるものがいました。その声に多くの人が集まりました。そんな中、院の女房と弟子が密通事件を起こし、そのため、法然は土佐に流されます。その後罪は許されますが、攝津に留まり、京都に戻った後亡くなります。

法然の始めた浄土宗は弟子の弁阿弁長(鎮西上人)によって九州に広まりました。弁長は筑前遠賀郡香月荘で生まれ、観世音寺で戒を受け、比叡山で天台宗を学びます。しかし、弟の死を契機に法然門下に入ります。その後帰国し、各地を布教して回ります。筑後に入って、草野氏の帰依を受け、光明寺(後の善導寺)を創建しました。

 

日本に本格的な禅を伝えたのは栄西です。栄西が入宋した時、重源と会っています。宋で、禅に触れた栄西は帰国後、再度入宋します。帰国後、九州に留まり布教します。禅宗が広まると、比叡山の要求で、宣旨により禅宗は禁止されます。
1195(建久6)年、弾圧を逃れて、栄西は博多で聖福寺を建立します。栄西は仏法の生命は禅であり、戒律であり、国家は仏法を護るものであり、仏法こそ国家の宝であると説きました。
このような考えは時の権力と結びつき、栄西は幕府の要人に接近します。鎌倉では北条政子によって寿福寺が建立され、京都では将軍頼家によって建仁寺が建立されます。
この後栄西は本格的な布教活動を行います。そして重源の後、栄西は東大寺勧進上人となって東大寺再建の仕上げを行っています。
栄西は日本に茶をもたらしました。そのお茶は肥前国背振山に植えられ、各地に伝えられました。栄西には「喫茶養生記」という本があります。

 

法然の高弟のうち、思想面を徹底して行ったのが親鸞でした。親鸞は出家して比叡山で修行します。その後、法然の門に入ります。1207(承元元)年、法然が土佐に流された時、親鸞は越後に流されます。そして、この頃結婚します。流罪が許された後も越後に住み、1214(建保2)年妻子とともに常陸国笠間郡に移り住みます。
この地で、「教行信証」を書き始めます。弟子の唯円が著した親鸞の語録である「歎異抄(たんにしょう)」には「善人なほもつて往生を逐ぐ。いはんや、悪人をや」という一節があります。東国で人々に念仏の教えを説いていました。
親鸞の弟子達は道場をつくり、肉食妻帯の生活を営み、多数の信者を集めていました。中には不心得者もいました。そのため、朝廷や幕府からは弾圧を受けました。この後、親鸞は京都に戻り、「教行信証」を完成しました。

 

法然・栄西・親鸞より少し遅れて登場するのが道元です。貴族の子として生まれた道元は比叡山に入りますが、そこに長くおらず、栄西に巡り会います。臨済禅に感動し、求道生活に惹かれます。栄西が亡くなった後、京都の建仁寺の明全(みょうぜん)に師事します。
1223(貞応2)年、明全とともに宋に渡ります。宋の仏教界の堕落に落胆しますが、禅僧達の厳しい求道生活を知ります。厳しい修行に励んだ道元は、かの地で没した明全の遺骨を持って帰国します。道元は純粋な禅宗としての曹洞宗を伝えました。
道元は六波羅の武士の帰依を受け、その所領の越前に下って行きました。その所領で援助を受けて、山を開き、寺を建てました。この寺が後に永平寺と言われます。この地で長い期間をかけて、道元は法話の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を著します。

 

後白河法皇の院宣によって、和歌集「千載集(せんざいしゅう)」が藤原俊成(しゅんぜい)によって撰集されています。俊成は和歌の理念として幽玄を唱えます。時代は源平の争乱の時代であり、貴族の没落の意識の下での感傷的な抒情歌が好まれました。
俊成の後にはその子の定家が和歌の一人者となります。定家は構成的な美の世界を目指していました。定家の他、西行・後鳥羽上皇・慈円・藤原家隆・式子内親王など多くの歌人が出て来ます。
後鳥羽上皇は和歌所を開設し、定家・家隆ら5人に命じて「新古今和歌集」を撰集しています。1205(元久2)年に完成しています。

 

「平家物語」は、世をはかなんで、遁世していた信濃前司行長が天台座主慈円の下で、盲目の琵琶法師生仏(しょうぶつ)とともに作り、生仏が語ったと「徒然草」で兼好法師が書いています。「平家物語」は平家一門の没落を物語り、盛者必衰の無常感が述べられています。

天台座主の慈円が書いた歴史書「愚管抄」があります。慈円は関白九条兼実の弟であり、歌人としても名をなしていました。慈円は政治の理想を摂関政治に置き、神代より説いて、君臣が心を一つにして政治を行うのが理想としました。そして、眼前で進行している歴史を解釈していきました。

 

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