鎌倉時代1

北九州の歴史

ホーム

4.仏教・和歌← 

鎌倉時代1
5.執権政治
 

1224(貞応3)年、北条義時が亡くなり、泰時が跡を継ぎました。しかし、それを阻止しょうとする動きがありました。義時の後妻は伊賀朝光の娘でしたが、自分の兄や三浦義村を抱き込んで自分の子の北条政村を後継者にしょうとします。しかし、北条政子の説得により、三浦義村は計画に加わらず、計画は失敗しました。翌年、政子は亡くなります。
その年、幕府の建物は鎌倉の中心の若宮大路に面した所に移転しました。そして評定衆が置かれました。その最初の評定会議において、鎌倉の御所の宿直・警固につく鎌倉大番役の制度が決まりました。東下して来た三寅は政子の後見の下にありましたが、元服して、藤原頼経と名乗り、正式に征夷大将軍に任命されました。ここに執権泰時の下に新しい体制が発足しました。
独裁から合議制へ幕府政治は大きく転換しました。また執権も泰時と叔父の時房の複数制が取られました。これらは長期の政権の安定を目指したものでした。

 

数年前まで気候不順が続いていましたが、1230(寛喜2)年は、夏に雪が降り、霜がおり、暴雨風に見舞われ、大雨・洪水になっています。このため、全国的に凶作になり、年末には反対に天候は陽気になっています。翌年、疫病が流行り、餓死者があふれ、全ての庶民が飢えていました。群盗が横行し、飢餓でどれ程死んだか分からないくらいで、耕作面積は半分で、耕作する人もなく、種子もない状態でした。
この様な大飢饉で、故郷を捨ててさまよう人々が大量に発生し、飢餓により荘園の人口も激減しました。泰時は伊豆・駿河の倉の米を出挙に出し渋るのを保証して、農民に放出させています。
飢えた人々は妻子を売り、自らも身売りして生き永らえようとします。人身売買は勿論禁止でありましたが、餓死者の増大により、遂に幕府はこれを公認します。この後、社会が平常に戻った時、安値で売った者はその値で買い戻そうとしますが、その値では応じようとしませんでした。そこで幕府は1239(延応元)年、買戻しの法を定め、以後は人身売買を禁止しました。

 

評定衆による合議制による政治を行うためには、首脳陣は勿論のこと、御家人達に共通認識が必要でした。頼朝以来の蓄積の下に理念や原則を明確にすることが求められました。承久の乱後、六波羅探題を置き、西国の紛争を直接処理する体制を整え始め、京方の公家・武士の跡に多くの新補地頭を送り込みました。
しかし、地頭達は荘園領主・荘官・百姓との間に新しい紛争を巻き起こしていました。前の義時の時代より、紛争に対し基準を設け、地頭の横暴を抑えようとしました。寛喜の飢饉により、更に地頭の節度ある行動が要求されました。泰時はこの間、次々と法令を発布しています。

1232(貞永元)年、評定衆にはかって「御成敗式目」51個条が制定されました。これは年号を取って貞永(じょうえい)式目と呼ばれます。
泰時は古代律令以来の公家法を、それを理解しているものは少なく、その解釈も法律家によってまちまちであると批判しています。そして、式目は文盲の者でも理解できると言っています。
式目は武家法であり、幕府の内部での法でありました。そのあり方は問題解決型で、現実的な運用にとって、最も無理のない解決法である道理を重んじていました。
式目には、守護・地頭の規定されないことは公家法が生きていたと思われます。
御家人の所領支配に関して、従来は頼朝以降将軍及び政子の代に拝領した所領は返すことがないという不易の法を、泰時の代までこれを反故にしないと約束しました。また知行して20年過ぎれば、理由を問わず、その知行は保証されるという年紀法を決めました。
奴婢や雑人に対する支配では、10年間放っておくと無効になり、奴婢の生んだ子は男は父に、女は母につけよと規定されました。公家法では男女ともに母につけられていました。
百姓については年貢の未納は取立ててもいいが、逃散はおしとめてはいけないと規定し、百姓の移住を保証しました。

 

承久の乱後、幕府は僧侶の武装を禁じようとしました。そして、武装した僧を見た場合は鎌倉に通報することを命じました。幕府はその報告を元に本人の身柄を貰い受け、厳重に処罰することにし、寺社権門に対し、強い圧力をかけました。
延暦寺と守護との紛争に関しては、従来と異なり、延暦寺に対し、泰時は激しい態度で臨みました。また岩清水八幡宮と興福寺との争いに関して、興福寺に対して、泰時は強力な圧力をかけ、興福寺の衆徒達は幕府に完全に屈服しました。
北条氏によって擁立された後堀河天皇が亡くなり、四条天皇が即位しましたが、その四条天皇も亡くなりました。これによって後堀河天皇の皇統が絶え、皇位継承者に土御門上皇と順徳上皇の2人の皇子が浮かび上がってきました。京都の有力貴族達は順徳上皇の皇子を希望していましたが、泰時は承久の乱の討幕計画へにかかわり方から土御門上皇の皇子を推薦しました。ここに幕府が帝位の擁立を左右することになりました。

 

この時代、貿易船に乗って多くの僧が宋に渡りましたし、高級な織物や香料が輸入されました。この日宋貿易により宋銭が多数流入しました。
この時代の宋王朝は都開封が金によって占領され、江南の地に逃れて、臨安(杭州)に南宋を開いていました。宋代の経済的発展は目覚しいものがありました。江南における稲作の発達、江西・四川の茶の栽培、四川・浙江の絹織物、華北の白磁、江南の青磁などの産業が発達しました。
西域交通路が西夏によって占領されたことにより、南海貿易路が活況を呈しました。臨安・明州(寧波)・泉州などの港湾都市が発展しました。こうして外国貿易の利益が国家財政の基礎なっていました。
しかし、貿易管理政策がうまくいかず、倉庫に商品が山積みになる状態になっていました。南海産香料の日本・高麗への中継貿易の活況は過剰輸入品のはけ口として採用されたことが元にあります。
この様な海外貿易の振興により周辺諸国の経済は刺激され、宋銭が大量に流出しました。やがて、その流出に歯止めが利かなくなり、宋は国家財政の危機に陥ります。

鎌倉時代初め、大宰府が島津荘に着岸した貿易船の品物を差し押さえようとします。これに対し、荘官達は領家の近衛家を動かし、幕府に抗議しています。頼朝は鎮西奉行の天野遠景に対し、その行為を止めるように命じています。
平安時代末期より、九州の海岸線には外国船が到着し、大宰府を通さない私的な交易が盛んに行われていました。
博多・香椎・筥崎・今津などの海岸線に外国船が着岸し、宗像社領・肥前国神崎荘・平戸などに宋の商人が住み、貿易の拠点になっていました。そこで輸入された品々は、唐物と呼ばれて王朝貴族の元に送られました。日本からは金・真珠・水銀・硫黄、螺鈿・蒔絵・屏風・扇子などの工芸品が輸出されました。

日本への宋銭の流入は増大し、この銭貨の流通によって、「銭の病」という流行病が引き起こされたとさえささやかれました。
鎌倉中期になると、荘園村落に宋銭が急速に行き渡っていきます。そして、借上(かしあげ)と言われる高利貸や商人が活躍してきます。
泰時は延暦寺の僧である山僧や商人・借上などを地頭の代官に登用することを禁止しています。また、御家人が山僧・借上などから借金がかさみ、所領を売却する者が出てきますが、この売却を禁止し、売却した場合は没収としました。

 

鎌倉は頼朝以来、鶴岡八幡宮を中心に整備されていましたが、泰時の時に、大々的に再整備されました。将軍頼経の下に御所が若宮大路に移っています。
泰時は巨福呂(こぶくろ)坂と朝比奈の切通しを切り開いています。巨福呂坂の切通しにより、山内(やまのうち)荘と鎌倉が直結しました。この山内荘は北条氏の所領で、これ以降時頼による建長寺、時宗による円覚寺などが建立されました。
朝比奈の切通しによって六浦津とが直結しました。ここは後、北条(金沢)実時(さねとき)が所領し、ここの称名寺に金沢文庫が建てられました。
鎌倉とその周辺は本格的に整備され、執権北条氏が主導する幕府の体制が最盛期を迎えようとしていました。しかし、1242(仁治3)年、泰時は60歳で病死しました。

 

4.仏教・和歌←|↑5.執権政治

鎌倉時代1

北九州の歴史

ホーム