鎌倉時代2

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2.文永の役

鎌倉時代2
1.得宗
 

北条時頼は泰時の子の時氏を父とし、後に松下禅尼と言われる安達景盛の娘を母として生まれました。泰時の次の執権で、兄である経時が重病になったため、1246(寛元4)年、19歳で執権に就きました。
時頼の周りには多くの敵がいました。評定衆の重鎮や前将軍藤原頼経が支持していた義時の孫の名越光時が時頼に取って代わろうとしていました。
北条政村・実時、叔父の安達義景に支えられ、御家人の最有力者の三浦泰村を味方に入れて、時頼は先手を打ちました。光時は伊豆に配流、頼経は京都に送還されました。


後嵯峨院には、六波羅探題重時を通じて、朝政の刷新を要請し、幕府と朝廷との間の重要事項を取次ぐ、関東申次の更迭を申し入れました。これにより、関東申次は頼経の父、前関白九条道家から、太政大臣西園寺実氏にかわり、九条家から西園寺家が朝廷での立場を強くすることになりました。

三浦泰村は時頼に対して反感を持っている子の光村の暴発を抑えようとしましたが、次第に反時頼派の中心に押し上げられました。
この動きに安達氏の危機を感じた義景の父景盛は三浦氏に対抗するように義景と孫の泰盛に促します。ここに三浦氏と安達氏の対立の形を取り、両者の館に武者達が集まって来ます。1247(宝治元)年、安達氏が三浦氏を攻撃します。時頼の軍も動き、三浦氏は全滅します。翌日には千葉秀胤(ひでたね)一族も討たれます。
藤原頼経の子、将軍頼嗣(よりつぐ)は鎌倉に留まっていましたが、この父子に心を寄せる者の謀反の企てがあったとして、1251(建長3)年、職を追われて帰って行きます。

 

時頼は大番役の勤務期間を半分に短縮したり、京都の市中警備のための篝屋(かがりや)を大番役の御家人から在京の武士にして御家人の負担を軽減しています。
西国では在庁官人や荘園荘官であって、御家人になった者が多かったのですが、本所によってそれらの所職の御家人が不利な判決を受けた時は、幕府が本所に抗議するという法令を時頼は出しています。御成敗式目では幕府が介入しないことが原則でした。
この頃西国では、幕府によって任命された地頭は、こうした在庁官人・荘官・百姓の名田畠を、言いがかりをつけて自分の支配下に入れる動きが目立っていました。時頼はこれを摘発しています。これは御家人を保護するとともに、百姓や本所を安心させる狙いがありました。
 

1249(建長元)年、時頼は御家人の訴訟を専門に扱う裁判機関、引付(ひきつけ)衆を設定しました。引付の会議で評議した判決原案を評定衆の評定会議にかけて決定することになりました。この時には一番から三番までの引付が設けられ、裁判所の充実と増設が図られました。

寛喜の大飢饉より18年間六波羅探題であった北条重時を呼び戻して、時頼はしばらく空席であった連署に就かせます。重時は義時の子で、時頼の妻の父でした。重時の後にはその子の長時が六波羅探題になります。
時頼・重時の下での幕府首脳陣は北条氏一門、豪族的御家人、京下りの下級貴族出身者によって構成されていました。しかし、豪族的御家人は名越光時の乱後、幕閣から減少していました。京下りの下級貴族出身者は実務官僚でしたので、この政権は北条氏と安達氏の連合によって成り立っていました。

光時の乱の時、時頼は私邸に北条正村・金沢実時・安達義景を招いてしばしば寄合を開いていました。ここで重要な政治問題を討議しています。これは臨時の会議でしたが、やがて寄合は北条氏の嫡流、一門の家督である得宗(とくそう)の中枢機関に成長していきます。

 

1253(建長4)年、後嵯峨上皇の皇子宗尊(むねたか)親王が京を発って鎌倉に入ります。そして征夷大将軍に任ぜられ、親王将軍が誕生します。
鎌倉は町中が都にふさわしく整備されたり、市中の治安維持に幕府は気を遣いました。この後、阿弥陀聖浄光が集めた銅銭で大仏が鋳造され、鎌倉大仏が完成します。
1253(建長5)年、巨福呂坂の北側に寺院が完成します。時頼は宋から来朝していた禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を迎えて開山し、建長寺と名付けました。この建築で宋風様式、禅宗式が完成します。

1256(康元元)年、時頼は30歳で、病気を理由に重時の子長時に執権の座を譲り、出家して鎌倉の山内の別邸、最明寺に退きました。重時も連署を政村に譲り、出家しています。しかし、長時は時頼の子の時宗が幼少であるので、その間の役割でした。時頼は最明寺入道と言われて、得宗として、事実上の権力の座にありました。
1258(正嘉2)年、宗尊将軍の上洛が発表され、その準備にかかりますが、夏に大暴風に見舞われ、上洛は延期されます。翌年、飢饉になり、疫病が流行ります。

鎌倉で辻説法していた日蓮は、1260(文応元)年、「立正安国論」を書き、幕府に提出しています。この中で、広く地頭達に広まっていた浄土教を捨て、法華経の教えに従わなければ、内乱が起き、他国の侵略を受けるであろうと予言しました。
その激しい主張に地頭達は反発し、念仏者によって日蓮の草庵は襲われました。そして、翌年、日蓮は罪に問われ、伊豆の伊東に流されます。

金沢実時は仏法が廃れ、国土が荒れているのを、その教えを正したいとして、戒律を守ることによって救いへの道が開けると説いて、貧しい人や病人の救済に勤める叡尊に下向を求めました。1262(弘長2)年、叡尊は西大寺を発って鎌倉に向かいました。
叡尊のもとに北条一門が受戒のため集まりました。叡尊は最明寺を訪れ、時頼に戒を授けました。ここに北条一門と律宗が堅く結び付きました。この後、叡尊は時頼が引き留めるのも、そして荘園の寄進も断り、西大寺の戻りました。

叡尊が東下した年の前後に、幕府と朝廷は正嘉の飢饉の混乱をおさめ、政治を正すべく動き始め、新たな規律を示しました。神社・仏寺の尊重、訴訟の公正・迅速を強調しています。評定衆・引付衆・奉行人を戒め、地頭御家人が課役を百姓に転嫁しないように規定しています。僧徒が武器を帯びたり、山僧が富の力で訴訟を請負ったり、狩や漁で特定時期の殺生や、僧侶の女人を招いての酒宴や魚・鳥を食すことを禁じています。
博打・奴婢の売買、祭で華美で異様の服装、いわゆる風流を禁止しています。そして、種々な悪を行う集団いわゆる悪党を弾圧しています。
時頼が指導する幕府と朝廷は自らを批判する者を抑圧する姿勢をはっきりさせました。そして、飢餓によって延びていた将軍の上洛が準備されました。
しかし、またしても大風が吹き、永遠に延期になりました。時頼はこの後重病に陥り、最明寺で37歳の生涯を終えました。

 

この頃の北九州のことを少し述べます。大宰府の直轄地であり、平氏没官領の門司関に下総親房(しもふさちかふさ)が北條時頼の時代に下向して来ました。平氏の残党が蜂起したことにより、豊前国に地頭職を与えられ、関東で受け取る地頭得分が届かないという訴えに対し、軍船70艘を率いて親房は着任したと伝えられています。

下総氏は鎌倉末期頃より門司氏と称します。その門司氏は水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。門司氏の本拠は門司城で、早鞆の瀬戸を望む古城山にあり、平知盛が命じて築城させたのがはじまりと言われています。
門司氏の所領は門司六郷で、片野(現在の小倉北区三萩野付近)・柳(現在の門司区大里付近)・楠原(現在の門司港付近)・吉志・伊川・大積郷でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきます。そして、片野系門司氏・吉志系門司氏などと称されました。

関門橋の横の山上が門司城跡

豊前守護の武藤氏(後の少弐氏)一族は現在の小倉南区の門司区に隣接する当たりの規矩郡吉田保に地頭職を持っていました。保は元来国衙領であり、蒙古襲来以降、豊前守護の庶流が吉田に土着して、開発し、吉田氏を名乗りました。

 

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