鎌倉時代2

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鎌倉時代2
2.文永の役
 

11世紀から12世紀初めにかけて、女真族は契丹の建てた遼を破り、金を建てました。そして遼の圧力で江南に遷っていた南宋を圧迫し、一方では北方の遊牧民に圧力をかけていました。このような金やタタールの攻撃の中、モンゴル部族はその内部で争いを繰り返していました。
12世紀末、テムジンは幾多の苦難や戦いを経て、13世紀初め、モンゴルの王者に推され、チンジス=ハンと名乗ります。王者になったチンジス=ハンは遊牧民の氏族的・血縁的組織を軍事的行政的組織に編成替えします。
チンジス=ハンは次々と征服していきます。チンジス=ハンの死後はオゴタイ=ハンが跡を引き継ぎます。高麗を征服し、金が滅ぼされます。そして、東欧にも遠征します。
オゴタイ=ハンは亡くなりますが、モンゴル帝国はユーラシア大陸の中央部を支配します。そして、しばらく内紛と動揺の時期に入りますが、その中から、フビライ=ハンが登場してきます。

 

高麗では12世紀末、官僚として政治の実権を握っていた文臣多数を殺害し、武人政権が成立しました。しかし、高麗王朝は動揺期に入り、農民や奴婢の蜂起が度々起こりました。
1231年からモンゴルすなわち蒙古は高麗に侵入しました。王朝の実権を握っていた崔氏の指揮の下で地方土豪・農民・賎民・奴婢はよく戦いました。繰り返し行われた侵入に対し、崔氏は江華島に都を移し、諸道の民を山城・海島に退避させて抵抗しました。
繰り返される蒙古の侵入によって高麗の国土は荒れ、次第にモンゴルの条件に高麗は応じざるを得なくなっていました。そして、次第に崔氏の政権に対して不満が高まり、遂に国王高宗と崔氏との間の溝となって表面化します。1258年、江華島でクーデターが起こり、崔氏政権は倒され、蒙古と高麗の間で和議が整います。

フビライいわゆる世祖は日本に対し、征服者の立場から、何度も使いを出しますが、拒否されます。そのため世祖は高麗に1万の軍の動員と1千隻の軍船の建造を命じます。これは日本のみならず、抵抗している南宋への動員の意図もあったと思われます。
高麗の武人の中に、親蒙古の国王元宗に反対して江華島に遷都して、再度実権を握ろうとする動きが起こり、遂には元宗を廃します。このため蒙古の干渉を呼びます。
世祖は大部隊を高麗に送り込みます。高麗は二つの勢力に分かれ、蒙古と結びついた国王と政府に対し、武人政府の軍事組織であった三別抄(さんべつしょう)は蒙古に対して抗戦に立ち上がります。
多くの船を使って、三別抄は南部を抑えますが、次第に蒙古は攻撃を強めていき、一部抵抗はありましたがほぼ高麗を制圧します。

世祖は5回目の使いとして超良弼(ちょうりょうひつ)を日本に送ります。この時は日本の拒否にあいますが、翌年1272(文永2)年、日本に来て1年間滞在します。帰国後、彼は世祖に日本を攻撃することに利益がないことを報告します。
これに対し、世祖は日本征服の計画をやめようとしませんでした。1271年、蒙古は国号を元とかえました。高麗の元宗の子は世祖の娘と結婚しました。三別抄は1272年まで抵抗しましたが、本拠地を攻略され、高麗は元に完全に制圧されました。

 

北条時頼の死の直後、執権長時をはじめ一族の有力者の死が続き、時頼の子の時宗は14歳の若さで表舞台に出てきます。そのため、政村が執権に、時宗は連署に就きます。そして、金沢実時・安達泰盛が原判決の誤りを正す越訴(おっそ)奉行に任ぜられます。
時宗には異母兄の時輔(ときすけ)がいます。嫡流の時宗に対し、庶子である時輔は六波羅探題南方として上京します。得宗に対抗する名越氏は評定衆・引付衆などの中枢を占めます。
名越時章が一番引付の頭人でしたが、突然幕府は引付を廃止し、訴訟は問注所に移し、重要なものは評定衆で取扱い、執権・連署の裁断とします。
将軍宗尊の存在も得宗時宗にとって気になっていましたが、将軍の護持僧が将軍の御息所と密通したことが暴露されました。時宗・政村・実時・泰盛は寄合を開きました。護持僧は逐電し、御息所とその子の惟康王は時宗邸に移され、鎌倉は大騒ぎになります。将軍宗尊は鎌倉を出て、京都に帰されます。その後、惟康王は将軍に就きます。

この頃、山門と寺門の紛争が起こり、ともに焼き払うという事態になっています。これは、銭の流通があり、金融が活発化し、所領が激しく移動することから起こる争いごとで、同じ様なことは大小を問わず、至る所で起きました。
1267(文永4)年、越訴奉行を廃止し、最初の徳政令と言われる御家人所領回復令を定めました。御家人の所領の質入売買を禁じ、すでに質入売買したものは買主に返却すれば、取り戻すことができるとしました。これは御家人の間のものであり、非御家人に売れば、これは没収としました。無償の譲渡は返却を命じられました。離別された妻が譲られた所領を後の夫に渡すことや、非御家人の女子が夫の所領を知行することは禁止されました。

1268(文永5)年、蒙古皇帝と高麗国王の国書を携えた高麗の使いが大宰府に着きます。国書は筑前守護少弐覚恵(武藤資能)によって院に送られます。
幕府は戦闘準備を西国の守護に指令します。そして、時宗が執権に、政村が連署になります。
律僧叡尊は異国退散の祈祷を行っています。叡尊の弟子の忍性が鎌倉の極楽寺にあり、建長寺の禅僧の蘭渓道隆とともに北条氏一門の信頼を集めていました。
日蓮は「立正安国論」を時宗に献じています。予言が的中したとして、念仏宗を批判していた矛先は律宗・禅宗そして真言宗に向けられました。
2度目の蒙古の使いは対馬で島人2人を捕らえて帰り、その送還の形を取った使いが再び対馬に来ます。これに対し、朝廷は返事を与えようとしますが、幕府はそれを抑えます。

幕府は廃止していた引付を復活し、御家人所領回復令を廃棄します。そして、その頃山門内部の争いに力を注ぎ、激しく追及します。荘園内での争いごとに対しても抑圧しました。しかし、時宗政権は内外の重要課題に対し、しばし、足踏みをせざるを得ない状況でした。

1271(文永8)年、高麗の使いが大宰府に着きました。この使いは高麗独自のもので、日本が拒否すれば、蒙古の襲来は避け難いというものでした。その後、超良弼が今津に着き、国書を自ら国王や将軍に手渡すと大宰府に迫りました。
幕府はこれを黙殺し、防御体制の強化に本格的に取り組みました。西国に所領を持つ武士達が続々と西国に移住しました。
その頃、日蓮の矛先は忍性に向かい、北条氏を批判していました。これに対し、時宗政権は弾圧しました。日蓮は逮捕され、佐渡に流されました。
時宗政権は東国御家人の鎮西下向を促し、すでに下向していた豊後守護大友頼泰に筑前・肥前両国の要衝を警固するように命じました。この当時、筑前・肥前の守護は少弐覚恵(武藤資能)であり、両者は同じ異国警固番役の命を受けたと思われます。そして、この二人が鎮西奉行として九州諸国の御家人を指揮していきます。

1272(文永9)年、鎌倉で得宗御内人達が名越時章とその弟を攻撃して殺します。京都では六波羅探題北方が南方の異母兄時輔を襲い殺します。これらの事件を二月騒動といいます。
時宗を中心とする勢力は、謀反の疑いがあるとして名越氏を中心とする勢力に対し攻撃をかけたのですが、時章にはその気持ちはなかったとして、得宗御内人達は処刑されます。
二月騒動は得宗御内人によって引き起こされますが、事態を逆転させたのは安達泰盛でした。泰盛に対する御内人の反発は深く潜在していきます。
名越時章が九州に持っていた筑後・肥後・大隈の守護職は没収され、筑後は大友頼泰、肥後は少弐覚恵、大隈は千葉氏に与えられます。

この年、幕府は土地台帳の大田文の調査を各国守護に命じています。ところが、御家人の所領の移動がかなりあることが分かりました。そこで、翌年思い切った御家人所領回復令を発します。大量な訴訟が起こることが予想され、公正で迅速な裁判を引付衆や奉行人に命じています。日蓮は赦免され、鎌倉で意見を述べますが、その主張は拒否され、甲斐の身延に旅立って行きます。

 

高麗では900隻の軍船も完成し、軍勢も合浦に集結していましたが、高麗国王元宗が死去したため、日本への出発は一時延期されます。その子の忠烈王が即位して、1274(文永11)年10月3日総司令官都元帥忻都(きんと)が率いる2万の元軍と金方慶が率いる1万数千の高麗軍が日本に向けて出発します。
10月5日軍船は対馬に到着します。当時対馬は少弐氏が守護で、宗資国が代官として在島していました。軍船から上陸した軍勢と資国以下の武士は戦いますが、戦死します。男達は殺されたり、生け捕りにされ、女達は手に綱を通して船に結び付けられたといいます。
壱岐も守護は少弐氏で、守護代の平左衛門尉景隆が御家人を率いて上陸した元軍と戦います。しかし、抵抗もかなわず、遂には自決します。その後は対馬と同じことが起こります。元軍は平戸・鷹島や島々を襲い、松浦党の武士を殺します。

10月17日に早馬が六波羅に着き、九州の武士は続々と博多に駆けつけます。20日未明も百道(ももち)をはじめ各地の海岸に元軍は上陸を始めます。博多で大将として指揮を執ったのは少弐覚恵の子の景資(かげすけ)でした。
元軍は太鼓や銅鑼を鳴らしてときの声を挙げ、それに従って歩兵の集団が進み、毒を塗った矢や火薬を使った「てっぽう」を発射しました。
一方武士達は馬に乗って応戦しますが、太鼓や銅鑼の音に馬は驚き、「てっぽう」の爆発にたじろぎ、そこを毒矢を射掛けられ、苦戦しました。
少弐景資は戦況が不利になった中、水城を次の戦場に決め、大宰府に退きました。一方元軍は戦闘で疲れた兵士を休ますため、軍勢を軍船に引き揚げます。
その軍船は翌21日には博多沖から消えています。暴風雨説もありますが、日本の武士達の抵抗も強く、これを破るには兵力が少なすぎるとの考えから撤退したとの説もあります。

 

翌1275(文永12)年、異国警固番役が決められ、九州の武士は春は筑前・肥後、夏は肥前・豊前、秋は豊後・筑後、冬は日向・大隈・薩摩と3ヶ月警固に当たることになりました。
この年、元の世祖は再度の遠征を計画し、その使者は大都(北京)を発って、長門の室津に着きました。この長門は長門・周防・安芸・備後の四国で警固されていました。元の使者は鎌倉に送られましたが、全員が斬首されました。
これにより、蒙古の再度の襲来は確実になり、戦時体制は強化されます。西国には力量のある守護が配置され、二月騒動以降欠員になっていた六波羅探題南方が任命され、その陣容も強化され、六波羅は充実したものになっていきます。
蒙古との戦いで戦功のあった者は、御家人でなくても恩賞を与えると、幕府は鎮西奉行に指令しています。これは軍事力の強化を目指して、幕府は九州・西国の本所・領家の所領まで権限を及ぼし、御家人・非御家人の別なく、全ての武士を守護の指揮下に置きました。

蒙古襲来の史料として有名な絵巻「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、合戦の様子や主人公の竹崎季長(すえなが)の戦功が描かれていますが、翌年のことも描かれています。
季長は、肥後国竹崎を恩賞の訴訟のため出発して、鎌倉に向かいます。御家人であったが、恐らく庶子であり、所領を持たない、身なりのみすぼらしい季長の言い分は取り上げられませんでした。そんな中、季長は安達泰盛に申し上げる好機に恵まれます。
わずか5騎で先駆けして敵陣に突入しました。そのことは大将少弐景資が一番戦功につけてくれていました。しかし、景資の兄で、父覚恵の跡、鎮西奉行になった経資は鎌倉に注進してくれてなかったのです。言い分に偽りがあれば首を斬られてもよいと季長は泰盛に申し述べます。帰る所がない季長が一月ほど待っていますと、120余人の勲功を大宰府に伝え、季長には直接下文(くだしぶみ)を与えます。喜び勇んで、季長は恩賞地の肥後国海東(かいとう)郷に帰って行きます。

 

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