鎌倉時代2

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鎌倉時代2
3.弘安の役
 

神官や僧侶は神仏に祈ることにより、蒙古を撃退しょうとしました。そこに文永の役の予想外の蒙古軍の退却があります。これは神仏の加護と考えてもなんら不思議はありませんでした。この当時から既に神風が言われていました。幕府は主な神社に所領を寄進し、異国降伏の祈願を行っています。
朝廷においては、亀山上皇が主な神社に奉幣して、異国降伏を祈願しました。

筥崎宮楼門の敵国降伏の宸翰

 

九州の人々は博多湾岸に、海岸線に沿って防塁を築いています。それらは国毎に分担して、1276(建治2)年より始められました。
防塁は石材を積んだ石築地を築いて、その後方は土砂を盛って緩やかな傾斜にし、前方には上陸を阻む杭が立てられました。
翌年には防塁は完成し、九州各国が分担した箇所が異国警固番役の警固場所となりました。博多湾のほかにも筑前黒崎を出雲の御家人が警護したことも伝えられています。

福岡市百道の防塁跡

この時期、守護の交代が行われています。筑後には大友頼泰から北条宗政、豊前は少弐覚恵から金沢顕時、肥後は少弐覚恵から安達泰盛、長門・周防も北条宗頼に交代しています。北条宗政・宗頼は時宗の弟です。金沢顕時は安達泰盛の婿でした。
得宗と安達氏が力を持っていたことが分かります。安達泰盛は恩賞を与える権限を持つ恩沢奉行として婿の時宗を支えていました。また、得宗の御内人が内部から支えていました。御内人の筆頭で、得宗公文所の家令であった平頼綱に対する時宗の信任は厚いものがありました。

この頃には影の機関であった寄合は正式な機関となっていました。ここで幕府の政策の重要事項が審議決定されました。泰盛も頼綱もそのメンバーでした。しかし、泰盛に対して二月騒動の収拾に当たって、御内人の反発は強く、その代表が頼綱でした。
この実力者の対立をはらみつつ、幕府内の泰盛の主導権は強化されていきました。蒙古の再襲来の圧力の前に、幕府は異国警固は武家・公家の区別がない課役であり、本所支配下の荘園・公領・社寺も守護の催促にそむかないことを指令しました。

 

1276年、元軍の攻撃で、南宋の首都臨安(杭州)は陥落しました。この3年後、南宋は滅亡し、元が中国を統一します。元の世祖は旧南宋に日本遠征の軍船の建造を命じます。南宋の旧臣による日本を説得する使いが博多に到着しますが、幕府はその使いを博多で斬首します。
蒙古・高麗・漢(北部中国人)人4万の東路軍は高麗の合浦を出発し、南宋人10万の江南軍は江南を出発して、壱岐で合流して日本を攻めるという基本方針が決められました。

1281(弘安2)年5月21日東路軍は対馬沖に現れます。一部は上陸し、戦闘がありました。その後、江南軍との待ち合わせより半月早く壱岐に到着しています。そして、江南軍を待たずに東路軍は博多港へ、一部は長門に向かいます。長門を元軍は襲いますが、大きな戦闘はなく、元軍は退きました。東路軍の主力は6月6日博多湾に姿を現しました。
博多湾岸の防塁には楯が並び、船が近づくと矢を浴びせかけて、上陸を阻みました。東路軍の軍船は手薄な志賀島・能古島に停泊しました。これに対し、小舟に乗った武士達が夜討ちをかけました。
東路軍は志賀島に上陸し、陸上での戦闘も行われました。8日守護大友頼泰に率いられた豊後の武士達は海の中道で戦い、守護代安達盛宗に率いられた肥後の武士達も陸上で戦っています。

江南軍との待合せ予定日の6月15日が近づき、疫病も発生し、戦死者も数多く出たため、東路軍は壱岐に引き返します。しかし、江南軍が到着しないため、指揮官の間では軍を引き揚げようという意見が出てきます。
江南軍の先発隊によって、江南軍の出発が遅れたこと、待合わせを平戸に変更したことを東路軍は知らされます。壱岐に停泊した東路軍に対し、薩摩の武士や肥前の松浦党が海を渡って攻撃を行いました。待合場所の変更を聞いて東路軍は平戸に移動します。

7月上旬、集結した14万人、4千艘の大艦隊は東進を始めます。7月30日主力は肥前の鷹島に到着しました。その夜は大暴雨風になりました。翌日も一日中吹き荒れました。太陽暦で8月23日大型台風が襲ったのです。
多くの船が破壊され、兵士達が多数溺死しました。嵐がおさまって、指揮官達は今後の方針を協議しますが、戦意を失い、帰還を望む声が大きくなります。そんな様子の元軍に対し、日本の武士達は攻撃を加え、特に鷹島付近の元軍の船は激しい攻撃を受けます。そのため、残った船は逃げ帰りました。
残された兵士達は殺され、捕らえられた捕虜は2・3万人もいたと言われています。これらの捕虜のうち蒙古・高麗・漢人は殺され、唐人(南宋人)は奴隷とされました。14万の大軍はその3/4を失いました。

 

幕府は戦闘に備えて西国の国衙領や本所一円地の年貢及び富裕な人々の米を差し押さえ、兵糧米とする法令を実行しょうと朝廷に申し込みました。
更に、諸社を警固していた武士に代わり、奉仕する職掌人が警固を行い、武士を戦闘に振り向けました。本所一円地の武士は幕府の命に従うようにという申し入れを朝廷にしています。
朝廷はこの時期、異国降伏の祈願を主な諸社で行っています。幕府は大軍の瀬戸内海侵入を想定して、守護の命に従って戦うべしと防備を固めていきます。
大暴風によって元軍が壊滅したことは、祈祷の効果を強調する声が上がり、以前よりあった、神が加護する国日本という見方が一層強調されていき、大暴風を神風とする見方が次第に人々に浸透していきます。

では元軍敗退の原因は何であったのでしょうか。偶然の大暴風のみでなく、根深いものがありました。まず大軍であったが、異民族の寄せ集めの軍勢であったことでした。かっての草原を疾駆した勇猛な蒙古軍でなく、かっての勇敢な海上勢力の高麗軍ではありませんでした。
東路軍首脳陣は宿敵の関係にあり、統率された軍ではありませんでした。特に江南軍の船は手を抜いて造られたというほど構造の弱いものでした。全軍の集結は遅れに遅れ、台風の季節前に上陸する予定は台風に遭遇してしまいました。

元寇での戦闘に参加したのは、九州に所領を持つ武士達だけでした。西国に所領を持つ東国の人々が多く移住しましたが、東国だけに所領を持つ人々には直接的な影響はありませんでした。九州以外の庶民にとっても、遠い世界のことでした。
しかし、その余韻は長く残りました。世祖は三度目の遠征を計画しましたので、その圧力を日本はその後も長く受け続けました。

江南と高麗で、3千艘の軍船の建造が命じられました。しかし、困窮していた高麗では逃亡者が続出し、江南では叛乱に発展しました。そして、広東・福建で叛乱が起き、南ベトナムでも元の支配に反抗しました。それでも世祖は執念を燃やし続けました。
弘安の役の戦後処理に幕府は忙殺されました。2ヶ月の戦闘に多数の武士が参加しました。自己の戦功を証明するため、証人を立てる必要がありました。その審議は守護によって行われ、確認されたものから関東に報告されました。
一日も早い恩賞の実現を武士達は望みました。異国との戦いのため、没収地はなく、恩賞地の決定は困難を極めました。平頼綱が代表する得宗御内人は武士の不満を背景として安達泰盛と対決していました。

 

評定衆と引付衆のかなりの部分を泰盛の同族か一派の者で占めていました。困難さと抵抗を解決するには思い切った改革が必要だと泰盛は思っていました。
1283(弘安6)年、幕府が発した文書に将軍を公方(くぼう)という称号を使っています。これは御家人の他、本所一円の住人を動員でき、守護を通じて国衙管理下の寺社に異国降伏の祈祷の命を下す将軍は実質的権力がなくとも、武士の棟梁の征夷大将軍の称号でなく、元来は朝廷を指した公方という称号がふさわしいと泰盛は考えたと思われます。この言葉により、将軍即ち公方と、得宗即ち御内の区別を明解にしょうとしたと思われます。
泰盛の主導する改革は時宗の名の下に一挙に実行される予定でしたが、1284(弘安7)年、病にたおれた時宗は数日後、34歳で急死します。泰盛はじめ評定衆・引付衆の大半が出家します。時宗の子、貞時が14歳で執権に就きます。貞時は泰盛にとって孫ですし、頼綱は貞時の乳父でした。

泰盛は改革を実行に移します。その綱領である新式目は法令の体裁をとらず、諮問に対する答申の形を取っています。そしてその規定によって次々と法令が発せられました。
その中で弘安の役の恩賞を含んだ鎮西に関するものが2つあります。1つは売却・質入された神領を取り戻すことを認めたものです。もう1つは御家人の売却・質入された所領を取り戻すことを認めました。
これを実行するため、3人の使いが派遣されます。この使いに相対する守護、豊後の大友頼泰が筑前・肥前・薩摩を、肥後の安達宗盛が豊前・豊後・日向を、筑前の少弐経資が筑後・肥後・大隅を担当し、訴訟事務を取り扱いました。この審議機関が後の鎮西探題に発展します。
鎮西に派遣された使いは徳政の御使と現地では受け取られました。この徳政を実現しょうとすれば、所領が安定していなければならなく、そのためには強権を発動しなければいけないようになります。しかし、保護しょうとした御家人達も時代とともに変わっていました。元来非御家人であった得宗御内人は、泰盛が意図した方向とは別の方向へ活動していました。

 

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