鎌倉時代2

北九州の歴史

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鎌倉時代2
4.得宗専制 
 

1285(弘安8)年、安達泰盛と御内人達との間で衝突が起こり、合戦に発展していきます。その結果、泰盛はじめ安達氏一族は自害・討死します。また泰盛派と言われる多数の御家人も自害・討死します。
この騒動は地方にも波及します。特に九州では合戦に発展します。肥後の守護代をしていた泰盛の子の宗盛は博多で殺されます。
少弐経資の弟で、蒙古襲来の際の大将であった景資は泰盛方について筑前岩門(いわと)で挙兵します。これを岩門合戦と言い、鎌倉での合戦とあわせて霜月騒動と言います。騒動の後、泰盛の縁者達の処罰が行われ、ここに平頼綱が率いる御内人の権力が確立されます。
 
泰盛によって計画された改革は内管領平頼綱によって変質されていきます。鎮西の者が訴訟に鎌倉・六波羅に参ることを抑え、警固に専念することを命じ、4人の奉行による鎮西談議所を設置します。これは泰盛によって設置された合議機関が行った措置を否認し、それ以前に戻してしまいました。4人のうち2人は得宗の意に従う者を就かせ、残り2人は少弐経資と大友頼泰の従来からの統治にかかわった御家人を立てて、御内人の専権を覆いました。
長い時間をかけていた弘安の役の勲功賞を少弐経資と大友頼泰に伝え、その配分を2人に任せました。これと同じ頃、4人の奉行など主だった御家人には幕府から恩賞が与えられ、岩門合戦の勲功賞もこの時与えられました。これは岩門合戦で敗北した少弐景資の所領でした。
少弐経資と大友頼泰に任せられた恩賞地は北部九州に集中していましたが、10・5・3町の用地を基本に1,000人を超える人々に配分されました。この所領は将軍家領の関東御領でした。しかし、あまりに零細であるため管理しにくく、遂には北条家が建てた律宗の寺院に寄進せざるを得ませんでした。
 
異国警固の強化を得宗政権は訴え、守護の催促にも従わない本所一円地には地頭を任命する方針を明らかにします。これは将軍と御家人との関係を重視した泰盛の方針に対し、得宗御内人には御家人統率の名分がないため、地頭御家人の所領と本所一円地を国衙機構を通じて支配する方向を強めました。
幕府の国衙機構の掌握は守護によって行われます。守護は軍事面と行政面の機能を持っていましたが、泰盛は前者を、得宗御内人は国衙管理下、流通路や津泊などと深い関係がありましたので、後者を重視しました。国衙機構の支配は霜月騒動以降、北条氏一門の諸国の守護への進出で支えられました。
霜月騒動後、北条氏一門や御内人が幕府の要職を固めました。九州の守護は筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津家を除いた6国は北条一門が独占していました。この頃、門司氏の中には北条氏の被官となる者が現れ、得宗被官であった山鹿・麻生氏を合わせて北九州は北条氏によって支配されていました。この様な得宗専制に対し、かなりの守護職を奪われた少弐・菊池・島津氏は不満を持っていました。

 

従来、執権政治では京都の公家と鎌倉の武家を厳しく区別していましたが、得宗政権は朝廷に接近し、平頼綱の子飯沼助宗は検非違使に任ぜられました。そして、後には安房守にもなっています。
ところで、亀山院政は改革に意欲でした。しかし、幕府に対して異を唱えているとの風説が流れます。そのため、統治権掌握を目指す得宗政権は後深草治世を申し入れます。ここに伏見天皇が即位し、後深草院政が始まります。
亀山・後宇多側を後宇多の後の居所に因んで大覚寺統、後深草・伏見側を後深草の居所に因んで持明院統と呼びます。関東申次西園寺実兼は娘を伏見天皇の中宮として入内させ、持明院統と緊密となり、幕府もそちらに傾きます。
その頃裁判は長引き、滞りました。勿論それに対し、この政権は何もしなかった訳ではありません。しかし、その対策は場当たり的でした。一つは案件を減らすことで、ある年限以上の判決は改めたいという不易法がありましたが、従来15・6年あったものを6年に短縮しました。もう一つは示談が増えてきたことです。これは裁判所側が意識的に奨励しました。

 

この政権は裁判の促進を指令しました。そして、鎮西談議所と引付を御内人が監督することになり、ここに御内人専制体制ができました。そして解決を急ぐ当事者は御内人に金銭や進物を贈りました。
政権は蒙古襲来を恐れていました。襲来に対処するため北条兼時・名越時家の2人を大将として1293(正応6)年鎮西に派遣しました。関東から下った引付奉行人を加えて鎮西の軍事・政務機関の鎮西探題がここに成立しました。
1293(正応6)年4月鎌倉に大地震が起こります。その数日後、得宗貞時の命を受けた北条一門が平頼綱・飯沼助宗父子を討ちます。ここに得宗貞時1人に政権は掌握されます。

北条貞時は方針を明らかにします。引付衆・奉行人に忠誠を誓わせ、賄賂を取らないことを誓約させます。知行地を持たなくても曾祖父の時、安堵の下文を与えられた者は御家人と認めました。惣領が処罰された時、庶子の所領が別個に相伝されるなら没収した所領を返すと決めました。越訴を重視し、御家人保護を打ち出しました。

訴訟については即決主義で貫かれています。領家と地頭が争った場合、新補率法地頭の場合、領家が申請すれば、幕府の権限で下地を中分できましたが、これを本補地頭まで拡大しました。また、訴訟手続上の誤りを救済する庭中(ていちゅう)についても、迅速に処理するように指令しています。

貞時は思い切った人事を行い、引付を廃止して、執奏を設けています。首脳部には泰盛派が復活しています。新設された執奏は資料の提出、意見具申に留め、最終決定権は得宗貞時にあり、得宗専制の状況になりました。
これまで待たされた訴人は、裁判が促進されることを期待して奉行のもとに押し寄せたと言われています。霜月騒動で没収された所領を返却せよ、頼綱が発した不易法は有効かという声も上がってきました。貞時は返却しない不易法は有効であり、更に自分の採決については越訴を認めないとしました。
こうしたことは頼綱派に力を与えました。今度は御家人達の反発を誘いました。そこで、貞時は御家人側を配慮するようになりました。貞時は引付を復活させました。もとより最終決定権は掌中に握っていました。しかし、その権力は御家人と御内人との対立の中に揺れ動いていました。

1295(永仁3)年、貞時は鎮西探題の北条兼時・時家を召還しました。翌年、長門・周防国守護金沢実政が鎮西探題に就任しました。御家人の所領に関する訴訟に判決を与える権限を鎮西探題に与えました。
1297(永仁5)年、貞時は永仁の徳政令を発します。その内容は御家人間の所領の売買質入の禁止、利息付貸借である利銭出挙(りせんすいこ)の取立ての訴えは取り上げないというものでした。これは御家人の所領の移動の激増が深刻になっていたのに対し、その権利を保護したものでした。
同時に、越訴廃止を宣言しました。かって泰盛が越訴を重視したのに、頼綱は抑制しょうとしました。このように法令の中には御家人保護とその反対のものが含まれました。
この法令は京都からも、御家人からも強い反感を買いました。そこで、翌年、越訴は復活され、徳政令も廃止されましたが、売買質入地の無償取戻しは残されました。

この頃、京都では伏見天皇が訴訟制度の充実と改革に取り組んでいました。これを支えたのが側近の京極為兼でした。幕府に批判的な二人の動きは宮廷内で反発を呼び、関東申次西園寺実兼も伏見天皇から離れ、遂には京極為兼は佐渡に流されました。伏見天皇は後伏見天皇に譲位しましたが、後宇多上皇の皇子が東宮に立ち、大覚寺統に政権が移ることが約束されました。

1299(永仁7)年、鎮西探題の充実が図られ、補佐する評定衆が任ぜられ、更に鎮西引付が編成されます。引付は三番あり、一番は北条一門、二番は少弐氏、三番は大友氏が頭人になりました。
探題北条実政には異国警固の指揮官と同時に、本所一円地にも及ぶ裁判権が与えられ、鎮西統治機関としての探題が完成しました。

1301(正安3)年、北条貞時は執権を師時に譲り、出家します。連署も辞任し、幕府の政局は転換します。
同時に京都でも大覚寺統が後伏見天皇に退位を迫り、大覚寺統の後二条天皇が即位します。しかし、皇太子には持明院統が後の花園天皇、大覚寺統が後の後醍醐天皇を推して争ったため、幕府は交互に位に就ける道を選び、持明院統が皇太子を立てます。
後二条天皇の即位によって後深草・亀山の二法皇、伏見・後宇多・後伏見の三上皇になりました。持明院統には後深草が管理する長講堂領(元来、後白河の所領)、大覚寺統には亀山法皇が管理する八条院領(元来、鳥羽の所領)があり、莫大な荘園群を有していました。しかし、莫大な遺領を残して室町院が死去したため、この室町院領を巡って両統が争いましたが、結局、幕府はこの遺領を両統に中分することになりました。

出家した翌年から貞時は幕府を指導します。1303(嘉元元)年、実政からその子の政顕(まさあき)になっていた鎮西探題に対し、幕府は指令を出しています。異国警固について、担当場所が分担されていたのに対し、当番の国が年中通じて全てを担当するようになりました。九州の五番に分けて担当しましたが、これは警固役の軽減になったと思われます。
1305(嘉元3)年、鎌倉が大地震に見舞われた数日後、侍所所司・内管領を兼任していた北条宗方は貞時の命として、連署時村を襲い、殺害します。しかし、貞時は時村追討は誤りという意志を表し、宗方は討たれます。これを嘉元の騒動と言います。
後深草・亀山上皇は相次いで亡くなります。1307(徳治2)年、後二条天皇が亡くなり花園天皇が即位し、後の後醍醐天皇が皇太子に立ちます。

嘉元の騒動の後、幕府は弛緩状態でした。評定や寄合も制度化していて、貞時は執権・連署・引付頭人に評定や裁判を任せきりにしていました。そして酒宴に明け暮れ、退廃の状況でした。
諸国で悪党や海賊が蜂起し、多くの訴訟が押し寄せました。幕府は面倒な訴訟を避けるような抑圧的な態度に出ました。そんな権力主義的な姿勢の中に出世主義が横行しました。
貞時の独裁とその行き詰まりの中で、幕府内は退廃が支配していました。1311(応長元)年、得宗貞時は41歳で亡くなりました。その子高時は9歳で、後事を平頼綱の甥、長崎円喜と安達泰盛の弟の孫、安達時顕に託しました。

 

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