鎌倉時代2

北九州の歴史

ホーム

4.得宗専制←|→6.北条氏の滅亡

鎌倉時代2
5.悪党・海賊
 

この時代、百姓は農業のみに依存していた訳ではありませんでした。山野や川・海を生業の場とした百姓は少なからずいました。漁労・製塩・水上輸送・狩猟・採集・手工業生産・鉱物採取などにかかわる人達はたくさんいました。その食べ物も米のほか麦・豆・粟・稗・蕎麦など多彩でした。
米・絹・布は神に捧げるとともに交換手段となり、百姓は市庭(いちば)において鍋・釜・鋤・鍬等の鉄製品、陶磁器、衣類。刀・弓の武器等と交易を行いました。市庭は海辺と内陸との交易の場として、また浜・川原・中州・坂などの自然の接点の場に立ちました。
市庭に定住する人々や酒屋や借上などが増え、都市が形成され始めました。宋から流入した銭貨も市庭で流通するようになり、市が開かれる日に市庭を様々な商人が巡り、仮屋に店を開いて周辺の百姓と交易を行いました。

西国において、鋳物師は天皇家に直属し、魚貝売りの中には天皇家の供御人や、神社の神人が見え、油売りの多くは岩清水八幡宮山崎神人でしたし、神人の塩売りもいました。職能人の多くは人の力を超えたものとして、天皇や神社に直属し、神人・供御人・寄人として市・渡・津・泊の通行税を免除される特権を持っていました。彼らは広く遍歴して交易に従事しました。
これら職能人の遍歴を支えたのが廻船人で、西国の廻船人は神人・寄人となり、年貢の輸送とともに広域の交易に従事しました。
神人・寄人の中には借上といわれる金融に携わる者もいました。山僧と言われる延暦寺の下級僧侶や、熊野三山の山伏にも借上に従事する者がたくさんいました。銭貨を資本として貸付が行われましたが、神仏への初穂・上納された銭が資本となり、利息が神仏への御礼として支払われました。こうした借上や商人の中には女性が少なからずいました。

廻船人や商工民が遍歴する浦・浜・渡・津・泊・宿には寺社が建てられ、関所が設けられました。そこを入港・通過する船は神仏への初穂・上納を関料として支払うことが義務付けられました。
こうした港や交通路を警固するため岬や丘陵に城が設けられ、そこの領主や職能民は関料の納入を怠った者に対し、武力を行使しました。こうした武力を行使する者に対し、悪党・海賊と呼びました。
これらの津・泊には年貢などを保管する倉庫があり、問丸(といまる)と言う人々に管理されました。廻船人や商人の根拠地であり、問丸・酒屋・借上などの金融業者が集まった津・泊は都市を形成していきました。
主要道沿線や道と海上交通の接点には多くの宿が成立しました。宿の機能を持つ遊女・傀儡(くぐつ、曲芸・歌舞をする人々)・白拍子(歌舞を歌い舞う遊女)達の屋(や)、接待所と呼ばれた寺院などが集中して都市を形成していきました。

南宋との交流は活発で、北部九州には多くの宋人が渡来、移住しました。それらの宋人の中には神人・寄人となって、荘園・公領に荘官や職能民に与えられたと同様の年貢を免除された、給田畠を与えられる者もいました。
博多は中国大陸・朝鮮半島との交流の窓口で、宋人が住む大唐街(唐人町)が形成された大都市でした。肥前の今津・薩摩の坊津・肥前の神崎荘・越前敦賀などにも宋人が渡来・移住しました。
宋から流入した多量の銭貨は広く流通するに従い、社会に大きな影響を与えました。銭を神仏と敬愛するほど富への欲望は掻き立てられ、商人・借上・博打やそれに結びついた悪党・海賊の動きを活発化させました。これに対し、幕府も王朝国家も弾圧し、統制下に置こうとしました。
殺生を悪事とし、博打・人身売買を禁じ、過度の風流や派手な衣装を禁止し、得体の知れない力に動かされて度を外したことをするのを悪とし、それらを行う集団を悪党として弾圧しました。

 

13世紀後半になると、漢字を交えた平仮名を百姓も書き、宋銭の流通は計数能力を百姓も持つようになります。こうした能力や知識を使って百姓達は惣百姓という名の下に年貢・公事を請負い、市場で収穫物を売って、銭に替えて納め、不作のときの年貢の減免や不法な代官の罷免を文書にして支配者に要求しました。
こうした動きに対し、荘園・公領の支配者である寺社本所・領家・地頭は紛争の解決に、相互に得分を安定的に確保するため、下地(したじ)の分割を行い、得分に応じた田畠を一円支配する方式が広がってきました。こうした一円領の年貢・公事の負担を請負う富と能力を持ち、取引や銭貨の扱いに慣れた借上や商人を代官として年貢・公事の徴収を委ねました。
山僧・山伏などの僧侶・神人がこれらの業務に従事することが多く、これらの人々は神仏の初穂・上分を資本として貸付け、利息をとって、さらに豊かになりました。このように富裕になることを有徳といい、富裕な人を有徳人(うとくにん)と呼びました。
彼らは神仏の名目にない銭貨を貸付け、田畠・物品を質に取り、それらを保管する倉庫、いわゆる土倉(どそう)を持つようになります。
都市の金融業者や商人の間ではネットワークが形成され、為替や手形が流通し、信用経済が発展します。年貢・公事を請負った代官は多様な収得した物品を市庭で相場の高い時に売却して換銭し、送料・手数料の決まった手形を入手して、それを京都や鎌倉に送っています。

馬借・車借などによる陸上交通で、京都と宇治川・淀川から瀬戸内海・北部九州に到る海上交通は上賀茂・下賀茂社の供祭人・石清水八幡宮の神人・熊野神人などが廻船人に進出しています。北条氏の保護を受けた西大寺律僧も関を立てて勧進を行い、港湾・河川交通の土木事業や造寺を行いました。兵庫・福泊・牛窓・尾道・竈戸・赤間・門司・博多・今津・神崎などの津・泊は港町が形成されました。
勧進は神仏のために聖・上人が遍歴して布施を受ける行為でしたが、この時代、律僧・禅僧が勧進上人になって天皇・将軍の認可を得て海上・陸上交通の要衝に関所を立て、そこに入ってくる船や人から初穂の名目で、関料を徴収する方法が広く行われました。禅律僧はこれら集められた資金で、非人(百姓達から疎外された、職能で生きる人々)などの職能民集団を組織して土木工事を行いました。更に勧進上人は職能民集団の力で、外洋渡航の構造船を造り、北条氏の援助を受けて中国に渡り、貿易を行いました。
時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて念仏踊りを踊り、時宗を布教して、諸国を遊行しました。

この時代、金融や商業分野の女性の活動は活発でした。女性は田畠についても、財産権を持っていましたし、荘官や名主になる女性もいました。遊女・白拍子・傀儡などの女性の芸能民の社会的地位は今考えるほど低いものではありませんでした。
しかし、一部には女性を穢れた存在と考える空気も強まってきました。時宗の一遍上人が男女の時衆を従えて遊行しているのに対する非難はその現われでもありました。そして14世紀になると遊女などの女性芸能民は卑賤視されます。また田畠の権利において女性の地位は低下していきます。
これらに平行して穢れを忌避する傾向が強まっていきます。葬送や刑吏に携わった人々、牛馬の皮を扱う人々は神人・寄人として天皇・神仏に結びつく職能民でしたが、彼らを蔑視する空気が貴族・寺社の中に現れてきます。そしてその傾向は牛馬を扱う馬借・車借、遍歴する芸能民・宗教民にまで及びます。

神仏に対する畏敬が薄れ、それらによって規制された富への欲望があらわれ、高い利息を取り、博打や酒・女におぼれ、殺生に走るなどの動きが目につきだします。このように制御できない力を、穢れを含めて悪とし、それらを行う人々を悪党として抑制しょうとする動きが顕著になってきました。
14世紀初め、得宗の専制が極まった頃、西国・瀬戸内海・熊野で海賊の大蜂起があります。これは北条氏による海上交通の支配に対する海の領主、廻船人達を中心にする不満が爆発したものと思われます。軍勢の大動員により、この蜂起も一応は鎮静化しますが、悪党・海賊と言われた山・海の領主、神人、熊野の山伏、山僧などの商人、借上などの金融業者、博打、非人などが跳梁する不安定な状況が続きます。更に京都・奈良などの衆徒・神人の強訴が頻発しました。

 

4.得宗専制←|↑5.悪党・海賊|→6.北条氏の滅亡

鎌倉時代2

北九州の歴史

ホーム