鎌倉時代2

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鎌倉時代2
6.北条氏の滅亡
 

霜月騒動以後、北条一門の守護職や所領は全国的に急激に増加していました。そして、一門は得宗の完全な統制化に置かれていました。そのような中、幕府と御内の機構の区別がつかない状況になっていきました。
御内人の横暴は次第に目に余るようになってきました。御内人の専制支配は広大な得宗領、北条一門領を通じて全国に広がっていきました。
得宗高時はまだ10歳で、内管領長崎円喜と安達時顕などが寄合の中心となって、執権になっていない高時を権力者として補佐しました。

1312(正和元)年、宇佐・筥崎・高良・香椎・安楽寺(天満宮)の鎮西五社の社領回復令を出し、御家人に売買質入された社領の全てを無償で回復することを認めました。
流罪を許されて、帰京した京極為兼は以前にも増して伏見上皇に信任されました。伏見上皇が出家した後、為兼も出家し、二人は実質政務を握っていました。しかし、謀反の意ありと六波羅は為兼を逮捕し、土佐に流しました。
1315(正和4)年、得宗高時は14歳になり、執権に就きます。連署は金沢貞顕で、長崎円喜・安達時顕に補佐されました。
京極為兼の失脚で大覚寺統は力を得ていました。1317(文保元)年、伏見法皇が没し、後伏見の院政が始まります。しかし、翌年、花園天皇が退位し、後醍醐天皇が即位し、後伏見の院政は終わり、再び、後宇多の院政になります。

この頃、蝦夷では蜂起があり、西国では悪党や海賊の活動が激しくなり、この鎮圧に幕府は追われていました。京都では慢性化した寺社の強訴に悩まされていました。鎮西においても諸社の神人が強訴し、山伏が狼藉を働くと言う事態が起こっていました。1318(文保2)年、鎮西探題北条英時に対し、幕府は鎮西諸社の神人・神官の職掌と名前を調査して提出させています。
幕府は1324(元亨4)年、本所一円地の悪党を守護が本所に逮捕を要求しても、実行されない場合は守護の入部を認めるという、悪党鎮圧令を出しました。しかし、この法令を徹底する意欲は幕府にはありませんでした。得宗は対象になった悪党・海賊は勿論、寺社本所そしてその追捕に駆り立てられる地頭・御家人の不満を集めました。

後宇多法皇は1321(元亨元)年、政務を後醍醐天皇に譲ります。後醍醐天皇は評定衆・記録所を置いて天皇親政を始めます。

後醍醐天皇は日野資朝・俊基らと謀って討幕計画を立てますが、これが漏れ、1324(元亨4)年、六波羅は大軍を動員し、資朝・俊基は逮捕されます。翌年、資朝は佐渡に流され、俊基は赦免されます。
1326(正中3)年、得宗高時は病気になり、出家してしまいます。その弟の泰家が執権になると思われましたが、内管領長崎高資やその父円喜は金沢貞顕を推し、貞顕が執権となり、泰家は出家してしまいます。そのため、貞顕はまもなく執権を辞任してしまいました。そこで執権は赤橋守時がなります。
高時は24歳で出家していますが、権力は得宗である高時にありました。しかし、高時は田楽や闘犬・相撲に熱中していました。そして幕府内部では内紛が起こっていました。
後醍醐天皇は幕府に不満を持っていた寺社に対し、寺院の武力に期待していました。そのため、南都北嶺を歴訪しました。そして洛中の米価を決めたり、市を開いたり、関の通行税を停止し、人心の掌握の方策を採りました。後醍醐天皇は再度討幕計画を立てますが、側近達は反対します。


畿内近国の山民・海民をはじめとする非農業の人々は御厨(みくりや)や供御所の荘官や供御人としてこれらの集団を統轄する武士団は悪党や海賊として幕府から弾圧されていました。
後醍醐天皇は強烈な個性を持ち、専制的な傾向、いわゆる、ばさらな性格は悪党・海賊・野伏(のぶし)らの気持ちを捉えました。

 

1331(元徳3)年、討幕計画が漏れ、後醍醐天皇側近が逮捕されます。しかし、幕府内では内紛が続き、得宗高時は内管領長崎高資らを流罪とします。こうしているうちに、後醍醐天皇は神器を持って奈良に向かい、笠置に立て籠もります。
六波羅は笠置を攻撃しますが、険峻な地形で、なかなか落とせませんでした。そのうち、河内で楠木正成(まさしげ)が挙兵します。
鎌倉を発った幕府の大軍は入京し、笠置に向かいます。京都では光厳天皇の即位が決まり、後伏見上皇の院政が始まります。後醍醐天皇は千種忠顕(ちぐさただあき)らとともに捕まり、楠木正成はよく戦いますが、城に火をかけられ、本人は行方不明となります。

1332(元弘2)年、後醍醐天皇は千種忠顕らとともに隠岐に流されます。日野資朝・俊基は死刑となります。行方不明だった楠木正成が赤坂城を奪回します。
翌年、河内・和泉を正成は抑え、ゲリラ戦法で六波羅を悩ませます。この頃、播磨や伊予でも、後醍醐天皇の子の護良(もりなが)親王の令旨に応えて、挙兵があります。
これに対し、幕府は再び大軍を動員します。河内道を進んだ幕府軍は赤坂城を攻撃します。激しい戦闘の末、赤坂城は陥落しますが、正成は千早城を死守します。
大和道を進んだ幕府軍は吉野の護良親王の軍勢を破ります。しかし、護良親王を見つけることはできず、幕府軍は千早城に向かいます。千早城は険峻な地にあり、幕府軍の攻勢も悪党や野伏の力を誤算し、彼らによって組織された正成の軍勢の激しい抵抗に遇いました。
伊予では海賊達が動き出し、播磨の悪党も活発に動いて、西国は叛乱状態になってきました。千早攻めに加わっていた新田義貞の下に護良親王の令旨が届き、義貞は仮病をつかって東国に引き揚げました。

後醍醐天皇は隠岐を脱出して、伯耆の名和湊に着きます。この地の北陸・山陰の水運に関わっていた有徳人(うとくにん)の名和長年が後醍醐天皇を迎えました。船上山で山陰・山陽道の武士達が後醍醐天皇の下に集まりました。
播磨で挙兵した赤松円心の軍勢は摂津で六波羅勢と交戦し、これを打ち破ります。京都に侵入した赤松勢に対し、六波羅勢も防戦します。伊予では長門探題によって率いられた周防・長門両国の幕府軍は海賊達によって打ち破られます。
九州では菊池武時が鎮西探題北条英時を攻めました。しかし、武時に付くはずの少弐貞経・大友貞宗が探題方に寝返ったため、武時は敗死します。鎮西探題はまだ健在でした。
北条英時は菊池・阿蘇氏討伐に肥後国守護規矩高政を派遣します。高政は北条一族で、豊前規矩郡内に所領を持っていたと思われます。

千種忠顕は山陰道を中心とする大軍を率いて丹波に着き、赤松と呼応して京を攻めました。六波羅勢も必死に防戦します。幕府はこの攻防を聞き、名越高家と足利高氏を大将として大軍を派遣します。京都に入った幕府軍は高氏が山陰道を高家は山陽道を経て伯耆に向かいます。
赤松勢と戦った高家は戦死します。しかし、高氏は後醍醐天皇や京都の貴族とも連絡を取り合っていました。そして後醍醐天皇方に付きます。京都は足利勢と赤松勢の攻撃に総崩れとなります。
後伏見・花園上皇・光厳天皇を奉じて六波羅探題南北方は鎌倉に向かいますが、野伏達の襲来で、六波羅勢は討たれたり、自害し、上皇と天皇は捕らえられ、京に送還されました。

新田義貞は上野で挙兵します。武蔵に入った義貞は北条泰家の大軍を破り、鎌倉に迫ります。鎌倉では北条一門と御内人達が鎌倉への出入口を固めます。なかなかそれらの出入口は破れず、義貞勢は干潟になった稲村ヶ崎より鎌倉になだれ込みます。
得宗高時・長崎円喜・安達時顕・金沢貞顕などの一門・御内人は東勝寺に集まり、火を放って自害します。1333(元弘3)年北条一門は滅亡します。
九州では少弐・大友・島津氏の攻撃により、鎮西探題北条英時は一族郎等とともに滅ぼされます。そして、諸国の北条氏一門の守護・地頭は次々と討たれました。

 

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