南北朝時代

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南北朝時代
1.南朝 
 

1333(元弘3)年、鎌倉幕府壊滅の後、後醍醐天皇は京都に入ります。直ちに持明院統の後伏見・花園上皇の所領を安堵し、公家・寺社の所領を安堵し、討幕の功労者に除目(じもく、官に任命すること)を行いました。そして、綸旨(りんじ、天皇の勅旨を受けて出される文書)によってのみ土地所有は確認されるとしました。
これは土地の支配が20年過ぎると、理由の如何を問わず認められるとした従来の慣習の覆すものでした。全国各地から所領の安堵を求めて、京都に殺到し、大混乱になりました。そのため、綸旨による安堵から、国司の責任で行うように変更しました。後醍醐天皇の現状無視の政策はその第一歩から破綻しました。
 

新政府にとって、政権樹立に到る過程の論功行賞は重要な問題でした。恩賞方がその機関として設置されました。吉田定房・結城親光・名和長年・楠正成らがこれに当たりました。
土地関係の訴訟を処理する機関として、雑訴決断所を設置しました。しかし、訴訟の数が多く、すぐに増員され、規模も大きくなりました。そして構成員には前の鎌倉幕府の官僚が多く含まれていました。
恩賞方、雑訴決断所のほかに記録所、武者所が置かれました。両方とも不詳の点がありますが、記録所は雑訴決断所と同じように本領安堵の訴訟を扱っていたと思われますし、武者所は皇居、京都の警備に就いていたと思われます。
このような機関は一握りの貴族と武士、それと旧鎌倉幕府の一部の官僚によって運用されました。このことは、後醍醐天皇の理想に反して、人的基盤は弱いものでした。


国司の任命も行われました。足利高氏は武蔵守となり、後醍醐天皇の名を一字与えられ、尊氏と改名しました。彼の弟直義(ただよし)は相模守、新田義貞は越後守、楠正成(まさしげ)は摂津・河内の国司、名和長年は伯耆守、北畠親房の子顕家(あきいえ)は陸奥守に任命されました。このように武士で国司になったものもありましたが、国司には貴族が、守護には武士が多くなりました。
守護は犯罪人の捜索・検挙、犯罪人の所領・財産の没収を行いました。国司はその没収した所領・財産の処分を行い、国司には守護を上回る権限が与えられました。これは、在地支配をする武士にとって不満でした。
新政府は奥羽と関東を重視し、奥州将軍府と鎌倉将軍府を設置しました。奥州将軍府は陸奥守北畠顕家が義良(のりなが)親王を奉じて多賀に下向し、鎌倉の動向を牽制し、関東の有力武士を吸引しようとするものでした。
鎌倉将軍府は相模守足利直義が成良(なりなが)親王を奉じて鎌倉に下向し、関東の武士を配下に置こうとしました。

この新政府が発足する前、鎌倉幕府によって派遣され、上洛した足利高氏は山陰道を進みます。事前に後醍醐天皇と密約していた高氏は、反幕府の立場で挙兵し、全国の有力武将に自軍への参加を呼びかけます。九州の大友・阿蘇・島津氏にも呼びかけています。
六波羅探題を滅ぼした後、上洛した多くの武士達は足利高氏の配下に入りました。そして関東や九州の戦況は高氏に報告されていました。
新政府発足に際し、改名した足利尊氏は政府機関には入りませんでした。新政府で軍事を受け持っていた護良(もりなが)親王は尊氏の勢力拡大を危惧し、対立していきます。

1334年、年号を元弘から建武に改めます。後醍醐天皇の政治をこの年号から建武の新政と呼びます。
延喜・天暦の治世を目指す後醍醐天皇は、大内裏造営を計画しますし、造営費捻出するため、検注(けんちゅう、年貢徴収のための土地調査)を行おうとしますが、田畠を所有する武士達の反発を受け、中止せざる得ませんでした。
護良(もりなが)親王と尊氏の対立は遂に表面化します。1334(建武元)年、親王による尊氏打倒の噂が流れます。その騒乱は一時治まりますが、その後、親王は宮中で捕らえられ、尊氏の手に渡され、鎌倉に幽閉されます。

 

建武の新政府の政策に対し、地方の武士や農民達も不満を募らせました。かっての鎌倉幕府の御家人達は、北条氏一族を擁立して挙兵しました。奥州、関東、紀伊などで挙兵がありましたが、北九州の挙兵を見てみます。

北条氏一族で、豊前国規矩郡に所領があったと思われる、肥後国守護であった規矩高政は鎮西探題北条英時が討たれた後、芦屋に逃れていました。1334(建武元)年、帆柱山(八幡東区)で挙兵します。北九州の武士達は、この挙兵に参加します。これに呼応して、豊前国守護糸田貞義が筑後三池郡で挙兵します。糸田貞義は田川郡糸田に所領を持つ北条氏一族でした。
宗像氏の軍勢が帆柱山城を攻撃しますが、撃退されます。帆柱山城は花尾城の南面防御のため築かれた麻生氏の山城でした。
しかし、少弐頼尚(よりひさ)は松浦党や原田・秋月氏の軍勢を率いて攻撃し、帆柱山城は落城します。規矩高政は小倉南区蒲生の居城虹山城に逃げ、そこで自害しました。

左の帆柱山、中央の花尾山の山頂が城跡


翌年にも、長門国府で長門探題の遺児が挙兵します。伊予でも挙兵がありました。この年、持明院統の後伏見法皇を奉じて、後醍醐天皇を暗殺し、全国各地で蜂起するという陰謀が発覚します。関係者は処断されますが、反政府の動きは拡大します。
北条時行を擁して信濃で挙兵があります。信濃を抑えると、鎌倉を目指します。北条時行の軍勢は足利直義の軍勢を破り、鎌倉に入ります。直義は出陣に際し、幽閉していた護良親王を殺害します。以前の北条氏を先代、足利氏を後代、北条時行を中先代と呼び、この騒乱を中先代の乱と言います。
直義敗走を聞き、援軍のため足利尊氏は京都を発ちます。大半の在京の武士がこれに従います。尊氏は直義と合流し、鎌倉を奪還します。北条時行は敗走しました。
 

鎌倉に入った尊氏は配下の武士に恩賞を与え、新田義貞の分国の上野国に上杉憲房を守護として派遣し、斯波(しば)家長を奥州管領として陸奥に派遣します。
尊氏の行動に驚いた建武政府は、尊氏に上洛を促しますが、直義はそれを押し留めます。直義は新田義貞から上野国守護職を奪い、更に義貞を除こうとして、全国の武士に檄を飛ばしました。これらの動きに、遂に政府は義貞を大将とする尊氏・直義追討の軍を派遣します。
尊氏の軍は義貞の軍を破り、敗走する義貞の軍を追って、京に上ります。この頃、京都には細川氏や赤松氏に率いられた四国・中国の軍が迫っていました。
新田・名和・楠木の兵、公家の侍、僧兵だけでは迫ってくる軍勢を防ぐのは不可能でした。後醍醐天皇は比叡山に行幸し、畿内・近国の兵を召集し、陸奥の北畠顕家の軍勢の上洛を待ちました。激しい戦闘の結果、足利軍は敗走します。

兵庫に布陣した尊氏は四国の長沼氏、九州の大友・相良(さがら)・島津氏に参軍の書状を出します。新田義貞らの追撃により、尊氏は兵庫から九州に渡ろうとします。尊氏は持明院統の光厳上皇より、朝敵の汚名を逃れるため、院宣を受けます。
筑前葦屋津(芦屋)に着いた尊氏は少弐頼尚(よりひさ)に迎えられます。この間、菊池武敏と少弐頼尚の父貞経との間で、高良山合戦・有智(うち)山合戦がありました。

有智山で、少弐貞経を破った菊池武敏・阿蘇惟直・秋月寂心らは博多筥崎に入ろうとしていました。一方、尊氏は宗像社に入り、大宮司に歓待されていました。

 

1336(建武3)年、多々良川の河口、多々良浜(福岡市東区)に菊池軍と尊氏軍が対峙しました。兵力で圧倒的に有利な菊池軍に対し、尊氏は地形を有利に利用して、勝利します。この勝利によって、九州の豪族を尊氏は配下に加えます。
仁木良長・一色範氏を九州に残して、尊氏は大水軍を従えて、博多を発ちます。途中、厳島・鞆津を経由し、中四国の軍勢を加え、直義は陸路を、尊氏は海路を東上します。
少弐頼尚以下多くの九州の武将が従いました。北九州の武将では吉志系門司親胤(ちかたね)や長野助豊・香月経氏・麻生家氏・山鹿家員(いえかず)などが含まれています。

一方京都では、播磨で赤松軍と交戦中の新田義貞を召還し、天皇は比叡山に行幸し、尊氏を京都に入れ、比叡山と河内から京都を攻撃するとの策が楠木正成から献じられますが、受け入られませんでした。
楠木正成は手勢を率いて西下します。新田軍と楠木軍の間を割るように足利方の先発、細川軍が和田岬に上陸します。戦闘が始まります。直義の主力が近づくと正成は攻撃します。激戦の末、少数の正成軍は敗れ、湊川で楠木正成は自害します。尊氏軍は敗走する新田軍を追って京都に迫ります。
京都では急遽山門(延暦寺)に後醍醐天皇の行幸が決まり、新田一族、宇都宮公綱、千葉貞胤、菊池武重、名和長年らが従います。
直義は山門を攻撃します。京都市中でも戦闘があります。これらの戦闘で、千種忠顕、結城親光、名和長年が戦死します。
山門攻撃は続きますが、容易に落ちることはありませんでした。山門は運輸業と金融業を掌握していましたが、そのため、尊氏は北国路や琵琶湖の舟運を抑え、糧道を発ちました。また山城の在地領主層を味方に取り入れました。
山門を孤立させた尊氏は持明院統の光明天皇を立て、両統迭立を条件に、後醍醐天皇が京都に戻るように申し入れます。

後醍醐天皇は京都に向かう際、恒良親王に譲位し、尊良親王に新田義貞をつけて越前に下向させ、北畠親房を伊勢に下し、再起を期します。
新田義貞は越前敦賀に向かいますが、行く手を阻まれ、苦労の末、敦賀金ヶ崎城に入ります。越前守護斯波(しば)高経が金ヶ崎城を攻撃します。新田軍はこれを凌ぎます。1337(建武4)年、尊氏は高師泰(こうのもろやす)が率いる大軍を投入します。金ヶ崎城は完全に包囲され、攻防3ヶ月の末落城します。尊良親王は自害し、新田義貞は逃れ、皇太子恒良親王は捕らえられます。この後、新田軍と斯波軍は越前各地で戦いますが、新田義貞は移動の途中、敵軍と遭遇し、矢を受け、自害しました。
京都に戻った後醍醐天皇は花山院に軟禁され、直義から神器を光明天皇に渡すように言われます。しかし、北畠親房の勧めで、神器を奉じて、花山院を脱して、楠木一族の案内で、河内から吉野に入ります。

 

後醍醐天皇の吉野入りは、畿内近国の軍事勢力をはじめ、寺社衆徒に大きな影響を与えました。1336年、後醍醐天皇は延元の年号を復活させます。ここに、半世紀にわたって、南北朝時代が始まります。
1337(延元2)年、後醍醐天皇の呼びかけに応じ、東北の北畠顕家(あきいえ)が軍を動かします。義良(のりよし)親王を奉じて、足利軍の妨害を排して、鎌倉に入ります。さらに、宗良(むねなが)親王、北条時行軍を加えて駿河・遠江・三河の足利軍を破り、美濃青野原で増援軍も破ります。ここから伊勢・伊賀・大和に入ります。
顕家軍は高師直(こうのもろなお)軍と南都で交戦します。ここで敗れた顕家は河内に逃げます。後に、天王寺で戦いますが、和泉に退きます。その後、堺・石津を中心に合戦を繰り返し、顕家軍は壊滅し、顕家は敗死します。

新田義貞・北畠顕家の死は南朝側に大打撃を与えます。この劣勢を挽回するため、南朝側は新しい計画を立てます。北畠顕信を陸奥介鎮守府将軍として、父の親房とともに義良親王を奉じて陸奥に下向させ、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に派遣するものでした。親房によって軍事的基盤が築かれていた伊勢から陸奥・遠江へ大船団が出発しました。しかし、この大船団は暴風雨のため、四散してしまい、各地に漂着しました。
1339(延元4)後醍醐天皇は病床に伏し、漂着から吉野に戻った義良親王に譲位します。後村上天皇に譲った後醍醐天皇は翌日死去します。

常陸に漂着した北畠親房は、わずかに常陸の西南部にある南朝の拠点を中心に、体制の強化に努めます。小田氏の居城小田城に入った親房に対し、足利方は高師冬を関東に下向させ、小田城攻撃が開始されます。しかし、この攻防は長い期間続きます。小田城は落ちますが、その後、関城に移って親房は合戦を続けます。
北畠氏は村上源氏の流れをくみ、公卿の座に連なった親房は後醍醐天皇に登用されました。その後、出家しますが、長子の顕家とともに奥州に下向していました。
親房は小田城の攻防戦の最中、「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)を書き上げます。ここには神代からの歴代天皇の事跡が綴られ、南朝の正当性が主張されています。
関城も、1343(康永2)年落城します。親房は危うく脱出し、伊勢を経て、吉野に戻ります。

 

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