南北朝時代

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南北朝時代
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後醍醐天皇から光明天皇へ神器の授受が行われた1336(建武3)年、どのような政治を行うべきかの具体策としての建武式目が定められました。
民家の強制収用をやめ、住宅を保障をすることに一条が設けられています。これは民政不在の建武の親政を批判するものでした。
守護には最適任者を任じるべきで、国司・守護併置を否定し、守護によって地方統治を実現しょうとしました。
裁判制度においては、貧者の訴訟は第一に取り上げるべきだとしました。大寺社からの訴訟は神輿入京等の強訴が繰り返されても十分に審理するべきとしました。そして、裁判の公正・迅速を目指しています。
これらを内容とする17条の建武式目は是円を中心に作成されました。
 

足利尊氏は、1338(建武5)年征夷大将軍に就任します。尊氏は武士に対する指揮権と恩賞権を、弟の直義(ただよし)は民事裁判権と所領安堵権を分担しました。
尊氏は侍所長官に譜代の家臣高師泰(こうのもろやす)を、恩賞方長官に執事の高師直(もろなお)を任命しました。幕府内の高氏強大の力は絶大なものとなりました。
高師直は鎌倉幕府の執権政治を理想とし、安堵方、引付方、禅律方、官途方等の機関を統括しました。特に、所領関係の訴訟を担当する引付方は重要でした。
幕府の支配体制が整備されてくると、幕府内部で対立が発生してきました。足利直義は惣領尊重でした。これに対し、新興勢力の実力を高師直は重視しました。関東・奥州・九州等は直義派で、畿内近国の新興在地領主層は師直派でした。

 

室町幕府による、全国統一が進められると、戦没者の慰霊を弔い、天下泰平を祈願する機運が高まり、一国一寺一塔の建立を夢窓疎石が勧め、尊氏が賛同し、直義が推進しました。1337(建武5)年以降、計画され、実行されました。そして、これらの寺と塔を安国寺と利生(りしょう)塔と称したいと朝廷に奏請し、1345(貞和元)年、許されました。

1339(暦応2)年、後醍醐天皇が吉野で死去すると、足利尊氏・直義は冥福を祈って、洛西嵯峨野に一寺を建立することにしました。光厳院は後醍醐天皇の離宮の亀山殿を禅刹にし、夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする院宣を下します。これが天龍寺です。
各地の荘園が造営料所として施入されました。しかし、戦乱が続き、年貢は減少していき、新しい財源が必要となりました。直義は夢窓と相談し、商船を元に派遣し、造営費を得ようとしました。この船が天龍寺船です。天龍寺船は巨額な利益をもたらしました。天龍寺はこの資金で完成し、落慶法要が執り行われました。

吉野の南朝が勢力を減退するに従い、幕府の武将達は勢力を伸ばし、公卿の権威を無視するような者も現れました。それは下克上の風潮でもありました。
佐々木道誉(どうよ)は、ばさら大名と呼ばれました。ばさらとは派手な、無遠慮など、常識はずれな行動を表す流行語でした。

 

南朝に対し、軍事的優位に立っていた幕府内部に対立が顕在化してきました。足利直義は私闘を禁じ、他人の所領に入って年貢を押領することや、一揆(同盟)を結んで私闘に及ぶことを禁じました。
南朝はこの幕府の動揺を見逃さず、各地に蜂起を命じました。
楠木正成の遺児正行(まさつら)は1347(貞和3)年、河内藤井寺に布陣します。幕府軍も対抗しますが、敗れ、天王寺に後退します。幕府は増援しますが、正行は一気に勝負に出て、幕府軍は京都まで敗退します。
幕府は侍所長官として、畿内の在地領主を配下に置く高師泰に期待します。直義派に対し、師直・師泰派が台頭してきます。
師直・師泰を大将として、大軍が進発します。南朝も総動員をかけます。
1348(貞和4)年、四条畷(しじょうなわて)において、両軍入り乱れての激戦となります。南朝側は正行以下多くの武将を失いました。

正行の死は南朝側の大きな痛手でした。幕府軍は更に吉野攻略を期して進軍しました。
師直軍は大和に入ります。南朝側は攻撃に備え、後村上天皇を賀生名(あのう)に移しました。師直軍の進軍は早く、南朝側の防衛体制が整う前に吉野に入り、吉野は焼き払われます。
師直は賀生名の背面を襲おうとしますが、南朝の呼びかけに応じた長谷寺・多武峰(とうのみね)の衆徒や野伏らの攻撃を受け、京都に逃げ帰ります。

直義派と師直派の対立は吉野攻略戦後から激しくなります。1349(貞和5)年、足利直義の奏上により、高師直の朝廷への出仕が止められ、執事職も取り上げられます。
これに対抗して師直は河内で楠木正行の弟の正儀(まさのり)と対峙している師泰を交代させて呼び戻します。京都では武将達が両派に集結します。

師直方は直義方を圧倒し、直義は足利尊氏の高倉邸に逃げ込み、師直方は邸を囲みます。師直は尊氏に直義の政務停止、足利義詮(よしあきら)を関東から上洛させ、政務に就かせることなどを約束させ、囲みを解きました。

長門探題になって下向中の、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は備後鞆津(とものつ)にいましたが、師直は備後の地頭・御家人に命じて直冬を襲わせました。
九州に逃れた直冬は京都からの命により下向したとして、武将達の参集を呼びかけました。
九州は南朝方と幕府方に大別されます。幕府方は在地勢力代表の少弐頼尚(よりひさ)と九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が対立していました。直冬は少弐氏に味方したため、直冬方に応じる在地勢力が続出しました。


直冬は九州の国人領主層の所領確保の要求を受けて、守護職を与え、被官化し、権力を樹立していきます。このため九州では幕府方、宮方(征西将軍宮)、直冬方が三分立します。更に、中国地方でも、直冬の勢力は拡大していき、一大勢力となります。1350(観応元)年、直冬が少弐・大友氏を配下にして挙兵したとの報が入り、尊氏は師直らを率いて京都を発します。この間、義詮が京都の警備に当たります。
政務を離れて出家していた直義は京都を出奔します。直義は南朝と連絡を取り、帰順の意を表します。
直義派は南朝と結びついたことにより、勢力を回復し、京都を目指します。
京都を警備していた義詮は西走し、尊氏の軍と合流して京都に帰ります。しかし、尊氏軍は敗れます。摂津打出浜で師直・師泰は重傷を負います。
尊氏は直義に対し、師直・師泰の出家を条件を和議を申し入れます。尊氏は上洛します。これに従っていた師直・師泰は途中、上杉・畠山の軍勢に襲われ、殺害されます。その後、尊氏・直義・義詮は表面上は穏やかな日々を過ごします。

この頃、南北朝の交渉が行われますが、決裂します。直義が義詮を援けて政務を見るというのが建前でしたが、実質的には直義派が実権を掌握していきました。しかし、これは将軍尊氏と直義の対立を激化させます。
尊氏と義詮は計略をもって行動に出ますが、直義はこれを察知し、北国に逃げます。北陸道一帯の守護は直義派であり、上野の上杉氏、信濃の諏訪氏を通じて鎌倉と、山陰の山名氏を通じて九州の直冬と連絡し合えました。
直義は近江に進出し、尊氏軍との間で激戦となります。この後、直義は加賀から鎌倉に向かいます。尊氏は京都に戻り、鎌倉入りする直義を討つべく方策をめぐらします。
直義を討つべく尊氏は南朝に帰順します。天皇・東宮を廃し、北朝年号観応をやめます。
直義追討の綸旨を得て、尊氏は東国に向かいます。関東の武将はしだいに尊氏軍に加わったり、尊氏派の旗色を鮮明にし、遂には直義軍を圧倒します。
直義は尊氏に降伏を申し入れ、鎌倉の寺に幽閉され、そこで毒殺されました。
この後、尊氏派、直義・直冬派、南朝の三つ巴の争いは全国各地で続きます。足利一門の争い、即ち観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南朝に再起の機会を与えます。

新田義貞の遺児が上野で挙兵し、直義派の諏訪氏が南朝に加担して鎌倉を攻撃します。しかし、尊氏は鎌倉を回復し、南朝と手を切ります。この後、新田軍は尊氏軍と対峙し、尊氏を関東に釘付けにします。
九州・中国では直義・直冬派の勢力が強い状況でした。尊氏・義詮の南朝帰順により賀生名に北朝貴族が参り、改めて南朝より官位を受けました。南朝は更に、新補地頭職の安堵を発表しました。しかし、これは武士にとっては所領没収の危険を意味するため、京都に残った義詮は抵抗しました。
南朝は1352(正平7)年、後村上天皇の帰京を義詮に通告し、南朝軍は京都に突入します。義詮は近江に逃げます。この時、北畠親房は京都に帰ってきます。
しかし、京都占領は長く続かず、義詮の軍勢が上京して、後村上天皇は賀生名に逃げます。この2年後、北畠親房は死去します。

 

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