南北朝時代

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南北朝時代
3.南北朝時代の社会
 

南北朝内乱期、在地領主層は、生き抜くために結集することが必要であり、国人一揆の発生は、戦闘の際の中小武士団の結合にありました。
国人一揆は、守護の軍事編成の基盤でもありました。在地領主層は、一揆の人々が助け合う相互扶助をつねとしました。
国人一揆は守護配下に置かれたとはいえ、家臣団には入らず、自由な立場にありました。それだけに戦局判断の誤認は、国人領主にとって命取りになりました。国人一揆は新たに入部してくる守護への抵抗の組織にもなりました。
ところで、国人一揆内の争いは各国人領から逃散(ちょうさん)する農民の抱え込みで発生したと思われます。この解決法は国人間の「人返し法」の制定にありました。国人一揆は支配下の農民の闘争を弾圧する組織ともいえます。

鎌倉期、守護は国司の権限の行使を認められず、大番催促と謀反人・殺害人の検断に限られていました。南北朝期の守護は謀反人・殺害人のほか、窃盗人・放火人などの検断、刈田狼藉、犯人の検挙・断罪、一般訴訟の裁判権も確立しました。その支配は御家人に限らず、寺社や地下人にまで拡大していきました。更に、半済(はんぜい・年貢の半分を兵糧として武士に与える権限)・兵糧料所の配分権もありました。
兵糧米の調達は現地調達が原則で、農民を苦しめ、荘園領主の年貢収納を不可能にしました。このため、荘園・国衙領は急速に疲弊していきました。
そこで、幕府は1352(観応3)年、半済令を発布しました。寺社本所領に対する守護や在地領主の乱暴や押領を厳禁しますが、近江・美濃・尾張の3国の本所領の年貢の半分は当年限り、兵糧料所とするとしました。しかし、半済令が出されると、守護・在地領主達は半済と称して乱用していきました。
1357(延文2)年には、半済、年貢半分を土地そのものの折半に使用するようになりました。そして、当年限りの規定も消えました。
守護がどの荘園を誰に与えるかの権限を得たことは大きな意味を持ちました。在地領主達を配下に治めるため、半済・兵糧料所の配分権をもって、所領拡大を目指す在地領主を被官化しょうとしました。
大田文の記載により段銭が徴収されました。鎌倉時代、国衙の役人によって検注が行われ、大田文が作成されました。南北朝時代後期には検注権は守護に掌握されていました。こうして、守護は国衙の重要な職務の一つを掌握していきました。14世紀後半になると、半済・兵糧料所の設置、守護請、守護役の賦課などにより、荘園体制は崩壊し始めます。

 

鎌倉時代末期以降、村落では問題に対処するため、村民が鎮守や寺庵を中心に寄合を持って、定書や起請文(きしょうもん)をつくりました。即ち、農民の結合である惣が成立していて、農民の訴えや要求が寄合で検討され、起請文によって荘園領主に提出されました。
農民達は要求を実現するため、逃散をほのめかしました。これは田畠を荒廃させ、年貢米の確保ができず、領主階級に打撃を与えるものでした。
逃散が可能ということは公的な田畠以外に、山野の開墾、新田開発が行われ、近隣の農民達との連帯が成立していました。
農民の結合が進むにつれ、その組織維持・発展のため、規約がつくられました。その中で、組織に対する裏切りの罰が設けられました。それは追放刑でした。この時代、共同体からの追放は浮浪そして死を意味していました。惣にはこの様な検断権がありました。
惣の寄合は春秋の農事・祭礼・節句などを機会に定期的に行われ、そのほか臨時の寄合ももたれました。有力名主層を含んだ惣百姓組織へ発展していきました。
農民闘争の原因の一つに労働力の収奪がありました。農民の農業維持発展に必要な労働力は代官や在地領主の佃や直営地経営にも必要でした。また守護による夫役徴発も守護と惣との対立を深めていきました。

 

農業は産業の基礎であり、その中心は水稲耕作でした。耕地拡大は困難なため、耕地をいかに利用するかが問題とされました。深耕に耐える鍬、牛馬の利用、肥料施入などが行われました。
農作業に要する労働力は大きなものがあり、田植え時の労力確保は一番の問題でした。結(ゆい)という協業は必要不可欠でした。
旱水害という自然災害に対処するには灌漑施設を充実することと、早稲・晩稲などの収穫期の異なる稲を栽培することでした。しかし、その努力にもかかわらず、自然災害から逃れることはできませんでした。また、虫や獣の害にもあいました。
耕地の高度利用として、稲の後に麦を蒔いたり、畠地で雑穀を年2度栽培したりする二毛作が行われました。これが可能になるには水田と畠地の切り替えができる灌排水技術や地力を維持する肥培技術の進歩がありました。
肥料としては草木灰の利用があります。この肥料の利用により、山野の領有・帰属に関心が集まり、荘園領と地頭、荘民の間で対立が起きました。この山野は薪炭の生産を行う場でもあったため、争いを起こすことになりました。
牛馬による犂(すき)で耕作することにより、農業生産は発展しました。この時代、牛馬は重要な財産でした。

地方へ、貨幣や商品は浸透していきました。名田畠の質入・売買が行われ、富む者と没落していく農民が出てきました。
在地領主層は直営田を持ち、山野河海を領有し、支配地域に手工業者を居住させて、彼らの必要とするものを生産させました。更に、市場を支配下に置いて、農民層の支配を確実なものにしていきました。
京都は武家・公家・大寺社の権門から町人に至るまで、大きな人口を抱える消費都市と同時に、各地荘園から送られた原料を加工する生産都市でもありました。
生産において、座商人によって生産独占・販売独占が行われました。この中では大山崎油座神人(じにん)が有名です。石清水八幡宮をバックに諸国に荏胡麻(えごま)購入の行商に赴いていました。幕府によって諸関津料が免除され、次第に保護され、大山崎油座は生産・販売の独占権が与えられました。

 

元王朝は少数のモンゴル族が広大な中国を支配したため、独特の身分制度を持っていました。第1がモンゴル族、第2が征服支配を補佐した色目人、いわゆる西域の人々、第3が被征服民の漢人でした。漢人の中でも南宋支配下の江南の人々は最下位に置かれました。
政治・経済の実務は漢人の手にゆだねられました。実務を担当した彼らの中には税を着服する者もいました。支配階層の末端より混乱は生じてきました。
モンゴル貴族の中では定住する者と遊牧する者との対立が生じ、王室はチベット仏教を狂信し、多大な貢物を奉じ、その費用のために増税しました。この様な社会不安の中、紅巾軍による白蓮教徒の乱などが江南で続発します。
日本とは文永・弘安の役後も日本商船の渡来は許可され、貿易が行われました。杭州や泉州には外国貿易を管理する役所が置かれていました。私貿易は盛んに行われると同時に、公許の建長寺造営船、住吉社造営船、天龍寺船が入元しました。
1357年、叛乱が続く江南で、朱元璋(しゅげんしょう)は挙兵しました。回復中華をスローガンに勢力を伸ばし、1368年帝位に就きました。
朱元璋は大都の元王朝を中国から追い出しました。朱元璋(洪武帝)は明帝国の独立を宣言し、同盟軍であった紅巾軍を切り捨て、白蓮教を禁止しました。
明は外国貿易を厳しく制限し、冊封体制下の国々とのみ朝貢貿易を行いました。

 

元が日本征服に失敗した後も、元の勢力下に朝鮮はありました。高麗王朝は積極的に元王朝と結びつきを強めていきました。
地主である両班(ヤンバン)と寺院は私的大土地を私有していました。彼らは元と結びつき、私的利益に走りました。
元王朝が衰退した頃、高麗王は親元派の一族を退け、鴨緑江以北の元を攻撃しました。
明が建国すると、友好関係を結び、大土地所有の制限などの国内改革に着手しました。しかし、親元派と親明派の対立は激しく、改革は失敗しました。そして、親元派が勢力を回復しました。
この頃、朝鮮は倭寇に悩まされていました。李成桂は、寺社・権勢家が田地をかすめ取り、民衆の苦しみは増している、倭寇と戦うにはこの様な状況を改め、軍人として能力の優れた者を選ぶべきだ、と建策しています。
明が支配していた遼東を攻撃する将軍に李成桂は任命されていましたが、彼はその無謀を説きました。しかし、聞き入れられず、戦闘に入りましたが、途中その遠征をやめることを決断しました。これを民衆は歓迎しました。
帰国後、李成桂らは親元派を追放しました。権力は次第に彼に集中していきました。無力化した高麗王は李成桂に王位を譲りました。1392年、李成桂(太祖)は都を京城(ソウル)に移し、新王朝の成立を明に報告しました。ここに李氏朝鮮が成立しました。

 

倭寇は14世紀中頃、高麗王朝が衰退するとともに朝鮮半島の南岸を襲いました。漕船(米穀輸送船)を襲い、兵営を襲撃し、民家を焼き払ったため、租税が納まらず、官僚達は俸禄を得ることができない状態でした。
この為、高麗王朝の経済力は急速に低下していきました。兵士は戦わず、高麗王朝の消極策により倭寇は増長していきました。倭寇の略奪対象は米穀と奴隷でした。奴隷は使役したり、転売したり、捕虜としてある程度の値段で送り返したりしました。
倭寇の根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦と言われています。この地方は昔から土地が狭く、飢饉が多かったのと、この頃の国内流通の発展が、住民を海外に向かわせたと思われます。しかし、高麗王朝は対元交渉に忙殺され、日本との通商関係は拒否していました。これが海の商人を海賊に変えた第1の理由と思われます。
第2は内乱期、南北朝とも海賊を重視しました。熊野水軍・村上水軍がこれに当たります。松浦党や対馬・壱岐の海賊も軍事力として動員されたと思われます。こうした中で、彼らの造船技術、航海技術、戦闘能力は大きく向上しました。

放置していた高麗政府も対策に乗り出しました。しかし、年間数十回に昇る侵入回数、規模においては、数百から千、二千人に昇る大規模なものになっていました。
高麗は明に火器の供与を要請し、手に入れていました。1380年、鎮浦口(ちんぽこう)に侵入した500艘の倭船を高麗軍は新式火砲で全滅させます。この新兵器で李成桂らは倭寇を鎮圧していきます。
1389年、高麗軍は倭寇の根拠地の一つである対馬を襲撃しました。この後、小規模な倭寇を除いて、大規模な侵入はなくなりました。
李氏朝鮮は倭寇に対する兵船の整備を行いました。その一方で、懐柔策も取り、投降した倭寇を厚遇しました。そして通商を許可することにより、懐柔を行いました。倭寇は消え、大内・渋川・宗・菊池・島津氏や松浦党などの豪族が通商を行いました。
1392年、李氏は幕府に使者を遣わし、倭寇禁止を要求しました。将軍義満は守護に命じて倭寇を禁圧すると禅僧絶海中津(ぜっかいちゅしん)に答書させています。
明も高麗と同様に倭寇に苦慮していました。山東地方沿岸から、江蘇・浙江・福建・広東地方に到るまで、倭寇は侵入しました。明は何度か日本に使節を派遣しますが、禁圧の実は上がりませんでした。義満が対明交渉に乗り出すまで、両国の正式な外交関係は生まれませんでした。

 

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