南北朝時代

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南北朝時代
4.南北合一
 

足利直義(ただよし)の死により、足利直冬(ただふゆ)は打撃を受け、九州から長門に転進し、中国地方の直義派と結び、各地の反幕府の有力者と同盟を結び、南朝と協力関係を整え、幕府と対抗しょうとしました。楠木正儀(まさのり)らの南朝方や、山名時氏が京都に突入しました。足利義詮は京都を放棄しました。
美濃で幕府軍の決起を呼びかけ、赤松則祐(のりすけ)は播磨から兵庫に進出し、足利尊氏も東国から引き上げます。幕府軍が次第に優勢になり、義詮は京都を奪回します。
直冬を大将とする反幕府軍は再び京都に迫り、義詮は直冬を播磨で迎え撃ちますが、これに敗れ、直冬・山名の中国からの軍や、北国からの軍が入京します。しかし、これも長続きせず、直冬は近江からの尊氏の軍に挟撃され、直冬は京都から去ります。
二度の京都放棄により、義詮の権威は低下し、京都奪還に功績のあった有力武将の幕府内の発言は高まります。しかし、やがて有力武将相互の対立が見られるようになります。
義詮は守護らの行動を抑えて、主導権を発揮するための行動を起こします。1355(文和5)年、寺社本所返付令を発布します。争乱中の半済は認めるが、それが回復した土地は荘園領主に返せというものでした。それと同時に南朝方や直冬軍の武将に対し、幕府への復帰を呼びかけました。そのため、越前守護斯波高経が復帰しました。

1358(延文3)年、足利尊氏が死去しました。父を失った義詮は南朝の根拠地を攻撃しょうとしました。関東管領の足利基氏に命じ、関東の国人層を上京させ、その後、畠山国清が大軍を率いて鎌倉を発ち、入京します。義詮は大軍を河内に進発させます。しかし、幕府軍内部の対立が顕在化し、十分な効果をあげることができませんでした。
尊氏から政権を引き継いだ義詮は権力を集中化させようとします。この結果、将軍の代官の役割を果たす執事の地位が高くなります。執事・引付方頭人・侍所頭人の俗称の管領が執事に限って使われるようになります。
有力守護間で対立が表面化していました。幕府は不安定な状況にありました。斯波義将が執事に任じられました。これは足利一門中最高位の斯波氏が執事に任命することによって、譜代並みに取り扱って将軍家を絶対化しょうとするものでした。

大内弘世が安芸に転戦中の細川頼之と九州探題の斯波氏経の仲介によって帰順しました。大内氏は朝鮮・中国貿易で巨額の富を得ていました。弘世は京都では輸入された銭貨や唐物によって人気を博していました。
山名時氏は直義派として直冬に従っていました。赤松則祐や細川頼之と対峙していました。大内が帰順すると、情勢を判断して、時氏は帰順しました。
1366(貞治5)年、斯波氏一門によって要職が占められていることが反感を買い、義将は管領の地位を奪われます。斯波高経は管領義将以下一族を引き連れて、越前に下ります。

 

尊氏が東国から上洛する頃、関東は関東管領足利基氏、執事畠山国清・高南宗継の体制でした。畠山国清は独断専行に走るため、関東の国人から批判されていました。国清が義詮の要請を受けた時も総動員をかけ、在地領主から反発を買っていました。大軍で上洛した国人達は、帰国後、国清の圧制を基氏に訴えました。基氏は国清を執事から罷免し、追放しました。
基氏は関東を掌握できる人物をして、一時は尊氏に反逆していた上杉憲顕(のりあき)を執事に復帰させました。憲顕は鎌倉で基氏を助け、次第に関東の守護職は上杉氏一派に独占されるようになりました。1367(貞治6)年、基氏は死去し、氏満が関東管領を継ぎます。

 

1367(貞治6)年、義詮は讃岐から細川頼之を呼び寄せ、病床の足利義詮は10歳の義満に政務を譲り、細川頼之(よりゆき)を執事(管領)に任命しました。その直後、義詮は死去します。細川頼之は阿波の守護の嫡男であり、後、阿波をはじめ讃岐・伊予・土佐4国の守護を兼任し、四国管領と呼ばれました。
細川頼之が最初に発布したのは綱紀粛正に関する法令でした。続いて1368(応安元)年、半済令を発布しました。その内容は権門寺社など大荘園領主に対する半済令は認めず、中小貴族層には半済令を適用して、その土地の半分を与え、国人領主層の要求に応じようとするものでした。大荘園領主と国人領主層との勢力均衡の上で幕府政治を運営しょうとしました。
 

この頃、南朝側は幕府との講和を考えていました。佐々木道譽(どうよ)と楠木正儀(まさのり)の間で、内々に交渉は進められていました。ところが、1367(貞和6)年、足利義詮が死去し、続いて南朝の後村上天皇死去しました。
後村上天皇の後に即位した長慶(ちょうけい)天皇の側近には抗戦主張派によって固められ、このため、これまで交渉に努力してきた楠木正儀は細川頼之の求めに応じて幕府方に付きました。
正儀が河内・和泉の守護になると、南朝の強硬派は合戦の準備をし、頼之は正儀を援けるため、幕府軍を派遣します。畿内近国各地で、南朝軍と幕府軍の戦闘が続きます。この様な戦闘の中、幕府の中では前管領の斯波義将(しばよしまさ)と管領細川頼之の対立が激化してきました。
頼之が思うままに操ることができた義満も成人し、幕府内で頼之に反目する守護も激増していました。
義満は北小路室町に新しい邸を造営していました。この邸は花の御所と呼ばれました。


その前の1378(永和4)年、紀伊で南朝軍が動き出します。これに対し、細川氏の指揮の下に大軍を派遣します。南朝軍は兵をおさめますが、幕府軍も細川氏の指揮のため、多くが帰京してしまい、この機に南朝軍は反撃し、幕府軍は大敗します。
この報に怒った義満は、和泉・紀伊の守護に山名氏を任命し、自ら幕府軍を率いて出陣します。ところが、出陣した守護の間で、細川頼之排斥の動きが出ます。このため、義満は帰京を命じました。
1379(康暦元)年、反頼之派の守護は花の御所を包囲したため、義満は頼之を罷免します。義満は頼之と対立していた禅僧春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を南禅寺住持に就け、斯波義将を管領に再任しました。

1381(永徳元)年、完成した花の御所に後円融(えんゆう)天皇が行幸しました。ここにまさに名実とともに室町幕府となり、同年、義満は内大臣となり、管領斯波義将とのコンビでの幕府政治は着実に効果を上げていました。
九州の戦乱は今川了俊によって、畿内は山名氏清によって終息していました。関東管領の足利氏満との関係も平穏なものでした。南朝方では強硬派の長慶天皇が後亀山天皇に譲位していました。
この様な状況の中、義満は諸国遊覧を行い、その権力の強大さを印象付けました。
東大寺・興福寺へ参詣し、南都衆徒の懐柔を目的とし、南朝へ圧力をかけました。富士見と称して駿河に赴き、勢力拡大している足利氏満に無言の圧力をかけました。
義満は安芸厳島に参詣しました。義満は四国に戻っていた細川頼之にその際の乗船の準備を命じました。義満は讃岐宇多津を経て、厳島に参詣し、周防下松で大内氏の歓迎を受けています。その後、九州に向かいますが、暴風雨に遇い、帰途に着きました。
帰途、宇多津で義満は頼之を召して密談した、と同行した今川了俊は紀行文に書いています。この間の旅行で、義満は瀬戸内海の海賊も支配下に入れ、その制海権を掌握しました。

美濃・尾張・伊勢の守護であった土岐氏の内紛に乗じて義満は兵を尾張に送りました。義満は守護職の相続に介入し、一族の分裂を画策します。この結果、伊勢の守護職は取り上げられ、土岐氏はその力を削られていきました。
義満は次に、山陰地方を中心に11国の守護職を持つ山名氏の勢力の削減にかかります。義満は山名惣領家と庶子家の対立を利用し、惣領家が幕府の命に従わないとその討伐を命じ、庶子の舅の山名氏清の討伐の功に、但馬と伯耆・隠岐を取り上げて、与えます。しかし、その庶子には口実を設けて、出雲守護職を取り上げます。そして惣領家の罪は許しました。
1391(明徳2)年、その処置に不満な庶子は氏清と一族の紀伊守護を味方にし、京都に攻め入ろうとします。義満は細川一族、畠山基国、一色詮範(あきのり)、大内義弘、赤松義則、佐々木高詮(たかあき)らを集めて布陣しました。戦闘は山名軍が大敗し、氏清は討死しました。
翌年、論功行賞があり、前年に管領になっていた細川頼元が丹波の守護、大内義弘は和泉・紀伊の守護に任命されるなど、山名氏の分国はこの戦闘で功績のあった武将に配分されました。これを明徳の乱と言います。

この明徳の乱で将軍の権力は一段と強化されました。軍事力の面では、馬廻衆(うままわりしゅう)と言われる直轄軍団が乱の際に活躍しました。これは一門の子弟や地頭御家人から選抜された近習と奉公衆を中心に山城の地侍を加えた2・3千騎と言われています。
経済的基盤は各地の将軍御料所と領国の山城です。更に、流通と分業生産の結節点の京都を掌握したことが挙げられます。
幕府の体制を固めた義満の次の課題は南朝を解体することでした。明徳の乱後、南朝との交渉は大内義弘が進めました。形式的には南北朝の合一は両朝の和議でしたが、実質は幕府と南朝の間で進められ、南朝が幕府の力の前に屈服したというのが正確でした。そして、合一の条件の履行も無視されてしまいました。

 

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