室町時代

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2.室町時代の社会 

室町時代
1.足利義満
 

足利氏の邸宅は、尊氏の二条高倉、義詮の三条坊門万里小路(までしょうじ)にありました。三代将軍義満になって北小路室町に室町第(むろまちだい)が建てられました。花の御所と呼ばれるように絢爛たる造作で、ここに室町幕府の基礎もようやく固まりました。
義満が晩年北山第に移るまでの室町第の20年間は、公家化し、専制権力確立の時代でした。将軍でありながら、38歳には太政大臣にまで任じられています。
室町幕府の政治的・軍事的基礎は守護大名に置かれていました。しかし、時々の力関係によって結ばれた足利氏と守護大名の関係はそれほど固いものではありませんでした。そのため、将軍個人の優れた資質が幕府の権威を高め、幕府の基礎を固める要因となりました。
義満は優れた資質を持つ将軍でしたが、その権威を高めるのに力があった人物がいました。初代管領の細川頼之と、その後管領になった斯波義将でした。


細川氏は足利氏の一族で、尊氏挙兵以来戦功に輝く家柄でした。頼之は二代将軍義詮の遺命により、幼い義満を補佐しました。管領の権限を強化することにより、将軍の権力強化を果たしました。将軍・管領の下に守護大名を統制しょうとしました。しかし、有力大名との抗争に敗れ、下野しました。
頼之に代わって管領になった斯波義将は足利将軍家に最も近い血筋の家の出でした。義将の仕事は管領の下に職制を統制することでした。義将は幕府内部を取り仕切り、義満の権力の基礎を固めていきました。
義満の公家化は武家の権力を握った上で、公家の最高に地位に就くことによって公武の権力を掌握しょうというものでした。公家で橋渡し役を果たしたのが、北朝で、摂政・関白を歴任した二条良基でした。良基は義満に、宮中内での作法や、和歌・連歌・管弦等の当時の公家がたしなんでいた芸能を指導しました。良基の義満への接近は他の公家にも影響を与え、義満はスムーズに公家社会に溶け込んでいきました。

社寺は精神性の面からも国家権力を担う一面からも大きな勢力を持っていました。その社寺勢力と義満の関係を見ていきます。五山制度統括の役割を果たしたのは夢窓疎石(むそうそせき)の高弟、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)でした。同じく義堂周信(ぎどうしゅうしん)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らは義満の信頼を得ています。彼ら五山叢林(ござんそうりん)の禅僧達は義満の朱子学・漢文・禅の師であり、明との関係で使者や通訳、国書の起草等の役割を担っていました。
なお、彼らが亡くなると、義満は次第に密教に傾斜していきます。

 

室町幕府は、尊氏・義詮の時代には、独自の機構や制度を作り上げる余裕がなく、多くは鎌倉時代のものを踏襲しなければいけませんでした。3代目の義満の時代になって、その体勢固めや多くの課題に取り組みました。
関東公方足利氏満に対し、新たに陸奥・出羽を関東分国としました。一方、奥州の伊達氏、関東の宇都宮・小山氏ら鎌倉以来の北関東の豪族に扶持を与え、関東公方の背後から牽制するようにしました。
初代管領、細川頼之の時代、五山制度を定め、寺社本所に対する半済や段銭の賦課の方針を決めました。更に、訴訟制度の中心の引付の制度を管領の管轄の下に置き、訴訟問題に直接関与する途を開きました。このようにして幕府機関の一元化が進められました。


管領の力の強化は他の有力守護大名の反発を買い、頼之は失脚しました。しかし、管領制は既に制度として固定化されていました。義満は朝廷の五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条家)・七清花の制度に倣って三管領(斯波・細川・畠山家)・四職(侍所の山名・一色・赤松・京極家)の家を定めました。
侍所は洛中の警備、御家人の刑事訴訟処理を担当しました。そして、その頭人は山城の守護を兼任しました。侍所は平安時代に設置された令外の官の検非違使の役割を奪い取ったものと言えます。
室町幕府の軍事的基盤は、在京有力守護大名の軍事力でした。室町時代の守護大名は、関東公方の下の東国10国に、陸奥・出羽、九州探題の下の九州などの11国の守護を除く21守護が室町殿分国45国を管理していました。彼らの本領や管国の支配は守護代や家臣に任せきりでした。
管国の数によって彼らは多国持ち・一国持ちと呼ばれました。彼らは一国平均300〜500の軍勢を持ち、室町第の周りに館を構え、将軍の警備を行い、管領・侍所頭人・山城国守護などを務めました。そして、叛乱や一揆の際には、その討伐・鎮圧の任に就きました。
この時代の将軍と諸大名との関係は、絶対的服従関係でなく、一家一門的関係で結ばれていました。そのため、下克上や叛乱という行動も企てられますが、お家の存続や再興は比較的寛大に認められました。

 

1379(康暦元)年、管領は細川頼之から斯波義将に代わり、鎌倉時代以来政所の執権を勤めてきた二階堂氏に代わって、足利氏譜代の家臣の伊勢氏が就きました。以来、伊勢氏がこの職を世襲します。
幕府の財政を所管する政所には、作事・普請・段銭・倉奉行が職務を分担していました。将軍家の御料所からの年貢米の出納を司る倉奉行の下に、納銭方一衆がありますが、これらは洛中洛外の土倉(どそう)酒屋からの課税徴収を担当していました。この納銭方一衆に山門を本所に仰ぐ土倉衆が多数参加していました。
室町幕府の財政は御料所と呼ばれる直轄地に基礎が置かれていました。これは38国、数百箇所に分散していました。そして、それらの多くは、将軍直属の家臣や地方の地頭御家人の給与に支払われました。御料所からの年貢米や銭貨は将軍家の日常生活や社寺や朝廷への献上に費やされました。
このほか、全国の荘園や公領から臨時に、いわゆる一国平均役といわれた段銭は、天皇即位、内裏や伊勢神宮の造営等の経費調達のため、南北朝時代より幕府が朝廷に代わって徴収しています。
 
この時代、注目されるのは、土倉酒屋からの課税徴収です。高利貸の土倉は京都・奈良だけでなく、地方都市や市場にも現れていました。一方、酒屋も都市に集まっていました。これら土倉酒屋は巨額の土倉酒屋役を運上しました。
以上の他に、将軍御所・北山山荘・東山山荘の造営の際、幕府は守護大名に臨時の出銭を命じています。また、日朝・日明貿易に基づく収入等が幕府の財源となっていました。
当初は、御料所からの年貢収入に依存していましたが、14世紀末から15世紀にかけては、土倉酒屋役への依存が高まっていきました。これも不安定となり、次第に海外貿易や関銭などの臨時収入を期待し、商品貨幣経済へ15世紀に入ると傾斜していきました。

 

1394(応永元)年、義満は将軍職を子の義持(よしもち)に譲り、太政大臣も辞して、出家しました。しかし、将軍後見役、大御所として実権を握っていました。
1397(応永4)年、洛北北山に、北山第の建設が、守護大名の経費負担で始まりました。北山第は、種々の建物が配置され、そのうちの舎利殿は、いわゆる金閣でした。
この山荘の造りは義満の出家、あるいは浄土思想を表すものです。しかし、依然として、政治への意欲や関心を示すもので、法皇の生活を真似たものといえます。
北山第は義満夫妻の死後、主な建物は他所に移され、山荘は義満の出家名に因んで、鹿苑(ろくおん)寺と呼ばれ、建物は金閣だけになりました。この金閣も、1950(昭和25)年焼失し、その後再建されています。

義満の晩年、日明貿易は始められます。明の側からは、倭寇の襲来を抑え、冊封体制の中に日本を組み込むために始められました。
義満は商人肥富(こいずみ)と僧祖阿に託して国書を明に送りました。これに対し、1402(応永9)年に来朝した使者が明の恵帝の国書をもたらしました。そこには日本を明の属国とみなし、義満を日本国王と呼び、その忠誠を褒めています。
翌年、義満は新帝永楽帝に、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)起草の国書を送っています。当時、義満が明に対し、臣の礼を取ったのはいけないとの批判が出ました。しかし、日本国王の称号は天皇に対し僭越であるとの批判はありませんでした。この様な不敬であるというのは後世になって出てくる考えでした。
日明貿易により、将軍は覇王であり、国王であるとの認識を公武及び社寺に植えつける役割も果たしました。

 

義満の専制の下での矛盾や課題は、4代将軍義持の時代に出てきます。1416(応永23)年、前年まで関東管領の犬懸(いぬかけ)家の上杉禅秀(氏憲)が東国の守護大名や豪族の支援を得て挙兵し、鎌倉の公方邸を攻撃しました。公方足利持氏は管領山内家の上杉憲基邸に逃げ、憲基は越後に逃げます。これを禅秀の乱と言います。
上杉家は足利尊氏・直義の生母が上杉氏の娘であった関係もあり、関東公方を補佐する管領の職を代々担ってきました。家は四家に分かれ、この時代は犬懸・山内の二家が勢力を二分していました。
この様な東国の戦火に対し、京都の幕府は他人事のように思っていましたが、その火種は将軍の間近にありました。禅秀の挙兵は将軍の異母弟義嗣(よしつぐ)と呼応した幕府転覆の陰謀でした。
幕府は義嗣を幽閉し、討伐軍を派遣し、鎌倉を攻略しました。禅秀の一族・郎党は自害し、足利持氏・上杉憲基は公方・管領に復帰しました。

持氏は乱の後始末として、禅秀に味方した豪族の討伐のため兵を動かしましたが、これらの北関東や東関東の豪族は関東公方封じ込み政策の一環として保護されていた者が多く、公方の将軍への挑戦に到る危険をはらんでいました。
この乱における禅秀配下の国人領主達は、当初禅秀に組し、途中から公方側に寝返りました。彼ら国人領主は守護大名の圧力に対抗し、一方で農民達の結合組織惣に対処するため、従来の惣領制と呼ばれる血縁中心の組織を再編成し、地縁的組織に転換し、地域的連合組織である一揆を結成する傾向にありました。
一揆と言う言葉には結集する意味があり、国人一揆とは国人領主達の連合を意味していました。これらの一揆は大きく編成替えされて、一国を単位とした上州一揆、武州一揆など大国人一揆ができました。彼らの去就は東国の政局の鍵を握っていました。

4代将軍義持は、父義満の在世中、実際の執政はできせんでした。父の死後、20年間執政し、歴代将軍の中では平穏な治世だったといえます。
しかし、その子義量(よしかず)は将軍になりますが、すぐに死去します。そして、その後、重病になった義持は後継者を決めずに他界します。
そのため、後継者選出は神前でくじ引きで行われました。義持の弟で、青蓮院(しょうれんいん)に出家していた義円が当たり、還俗して義宣(よしのぶ)と名乗りました。

義宣にとって幕府内では管領以下の重臣の発言力が強まり、関東公方は反抗的な動きをし、社会的にも不穏な動きがありました。義宣は「世を忍ぶ」に通じるとして、縁起を担いで、義教(よしのり)と改名します。
義教は管領の下に置かれ、形骸化した評定・引付の制を復活させます。更に、管領の下に行われていた御家人達の訴訟に直接将軍が裁断を下すようにしました。そのため、右筆(ゆうひつ)方の意見具申の慣習を制度化しました。
更に、将軍直轄軍を再編成しました。義満の時代から直轄軍はありましたが、これを五番の番衆組織に制度化しました。
この様な訴訟・軍事制度を整備して、義教は無能な守護は罷免し、能力あるものを一族から抜擢して任用する方針の下に、守護や地頭御家人の家督相続に介入していきました。

当時の多くの家では、鎌倉時代以来の惣領制は崩れ、惣領家と庶子家が対立する傾向がありました。しかし、南北朝の動乱はその対立を許さない状況にありました。動乱の危機を乗り切るため、所領の分割相続をやめ、惣領が一族の所領を単独で相続し、一族はその下に結集する傾向が強くなりました。
しかし、誰が惣領として家督を継ぐのか、その資格は何かは大きな問題でした。色々条件を満たすには、一族内の多数派工作は熾烈なものとなりました。この様な状態は、家督決定に将軍の裁定が決定的な力を持つようになりました。
禅秀の乱後、公方足利持氏が、幕府が保護する立場の豪族を滅ぼすに及び、将軍義持は持氏討伐を決意しますが、持氏が詫びました。この様な将軍と関東公方の対立は初代公方基氏が兄の義詮と仲が悪かった以来歴代対立していました。
持氏はこれに懲りず、義教が将軍に就任すると、京都に攻め上がろうとし、関東管領上杉憲実に諌められ、思い留まりしました。その反幕府行動は止むことはありませんでした。この様な持氏の行動を支えていたのは憲実の存在でしたが、次第に疎んじられれるようになりました。

1438(永享10)年、憲実は重臣たちの勧めで、領国上野に引き揚げました。持氏は憲実討伐に出陣します。憲実は幕府に救援を訴え、幕府は奥州や関東東部の豪族に持氏討伐を命じました。
将軍義教は持氏追討の綸旨をもらって軍を派遣します。上杉憲実の軍も南下し、持氏の下に参じた国人領主達も寝返り、大勢は決しました。
持氏は監禁され、憲実は助命と、子義久の関東公方就任を嘆願します。しかし、義教の命により、持氏は自害、義久も自害します。他に持氏の子の安王丸・春王丸は下野に落ち延びます。これが永享の乱です。

1440(永享12)年、安王丸・春王丸は下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)を頼り、氏朝は挙兵します。この挙兵に多くの豪族が参加します。その動きは単純なものでなく、関東公方の再興への願い、上杉憲実や幕府への反感、豪族内部の家督相続などが絡んでいました。
挙兵して結城城に籠城します。その抵抗は以外に強かったのですが、翌年食糧は底をつき、落城します。安王丸・春王丸は京都に護送中に斬られ、末子の永寿丸だけが命を助けられました。この戦いを結城合戦といいます。

上杉憲実は結城合戦の後、関東管領の職を弟清方に譲ります。1449(宝徳元)年、足利持氏の末子成氏(しげうじ、幼名永寿丸)が関東公方に任命され、鎌倉に下向すると、憲実は鎌倉を去り、伊豆で出家します。憲実は晩年、大内氏を頼り、長門で死去しています。
憲実の子の憲忠は関東管領に任じられますが、1454(享徳3)年、公方成氏に殺害されています。

6代将軍義教の政治は、生来の性格もあって、専制独裁の厳しいものでした。妥協を許さぬ厳しい態度は宗教界にも同じものでした。
山門延暦寺は義満の霊を葬っていた相国寺内の六苑院と所領を争っていました。高利貸の山僧が幕府の山門奉行や将軍中次役の赤松一族の者と共謀して山門と敵対していると、山門側は彼らの処分を幕府に迫っていました。彼らは義教の側近でした。
義教は山門討伐を固めました。管領細川頼之、播磨の守護赤松満祐(みつすけ)らは円満解決を進言しますが、1434(永享6)年、義教は六角・京極氏に延暦寺攻撃を命じました。多くの僧侶が抵抗し、根本中堂に火を放って、自殺しました。

赤松満祐には山門討伐に対する進言が拒否されたことの他に、播磨・美作・備前の3国領国没収問題がありました。これは3国を義教の寵愛する赤松一族の貞村に与えるという噂が流れました。
前将軍義持の時、播磨を取り上げ、寵愛する赤松持貞に与えようとしました。この時、満祐は怒って播磨に引き揚げたため、義持は討伐しょうとしますが、諸大名が反対したため、満祐は許され、京都に戻りました。
1441(嘉吉元)年、京都赤松邸で結城合戦の戦勝を祝って、当時流行していた猿楽鑑賞の宴が開かれ、将軍義教をはじめ諸大名が招待されました。宴もたけなわの頃、甲冑の武者が将軍の座の後から躍り出て、義教は暗殺されてしまいました。
事件の後、赤松一族は邸に火を放って播磨に落ち延びました。突然の事件のため、幕府の追討はもたついていました。そんな中、丹波・但馬の国人領主を従えた山名持豊(もちとよ)は播磨を南下し、次々と城を陥落させました。
播磨に引き揚げた満祐は足利冬氏(直冬の嫡孫)を将軍に担ぎ上げ、新幕府樹立を諸大名に訴えました。義教の子の義勝はこの時8歳で、将軍の宣下をまだ受けていませんでした。管領細川持之は赤松討伐の綸旨を受け、大義名分を整えました。
赤松の領国の国人領主達は満祐を見放していきました。頼みの国人領主に裏切られた満祐は遂に自害してしまいました。この事件を嘉吉の乱といいます。

 

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