室町時代

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室町時代
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畿内では東西南北に走る碁盤の目の小径、畦、用水路が古代の土地区画の条里の線であったりする場合があります。条里制の方一町の坪を単位とした方形の集落は垣内(かいと)集落といいます。これは中世以来の村の形を伝えています。
垣内集落も最初からこの様な形でなく、14世紀から15世紀にかけて散村から集落化の動きがあり、垣内集落の周りに濠をめぐらす環濠化の動きがありました。
この様な現象は土一揆、徳政一揆の発生、山賊・強盗の横行、軍勢の往来などに対応した村落の自衛や自治化の動きによるものでした。
村落にはこの様な古代からの系譜がたどれるものと、この時代に開発されたものがあります。谷あいや山麓の小村とその周りの棚田・迫田・谷田の開発は中世の名主や在家と呼ばれた農民の家族労働力や原始的な用水技術によって行われ、その地方にふさわしい村落と耕地の形をしています。

朝廷や官司あるいは京都の賀茂社などに御贄(みにえ)やお供えの品を貢進する贄人や供御人(くごにん)は魚などが獲れる近江に多くいました。
その湖の民が漁業・水運・商業に生活をかけるのは、零細な土地を補うためでした。その村落構成員には厳しい規律があり、村内の秩序が保たれていました。これは漁業や商業といった非農業部門に依存する度合いの強い村落に共通するものでした。
京都・奈良といった王都は商業化し、大変発展した港湾都市である淀・大津・坂本・堺・兵庫などと繋がった近江は特産物の生産、その運送や取引などの非農業的集落成立の条件が満たされていました。いわゆる社会的分業が著しくなり、15世紀には漁民、商人、手工業者、馬借・車借などの運送業者だけの、あるいは混在した小集落が到るところに生まれました。

古代においては、戸籍・計帳が作られ、村の住民の状況が把握されましたが、中世には作られませんでした。12・3世紀、荘園領主や地頭が年貢収納のための検注帳には名主や本在家クラスの農民の名前だけが記載されました。
しかし、14・5世紀になると、荘園の土地台帳には作人以下の小農民が多く登録されました。これは耕地開発、商品作物栽培・加工によって小農民達の経済生活が自立したため、荘園領主が年貢の賦課基準を広げたためと思われます。

荘園村落内には地侍と百姓といった大まかに二つの階層が現れてきています。元来侍とは朝廷や権門勢家の警固や供奉した侍者(じしゃ)でした。平安中期には地方の武士が登用され、武士一般を侍と呼ぶようになりました。侍身分は権門勢家との関係から生まれたものでした。荘園や村落の中で侍身分を得た者のうち、源頼朝と主従関係を結んだ者を御家人と尊称されました。彼らは守護・地頭・御家人といった侍達でした。
これに対し、地侍は荘園村落内での優れた経済力、武力に基づく指導的家柄が重要な条件でした。
地侍を除いた百姓達は支配階級からは名主百姓と呼ばれましたが、名主と百姓はっきり区別されていました。名主は有力な名の耕地を保有し、名別に賦課される年貢・公事物の徴収の責任者として、下級荘官の機能を持つ地侍を狙える立場にありました。
重い年貢の取立てや凶作に苦しむ一般百姓は地侍や名主から米や金銭を高利を払っても借り入れなければいけませんでした。両者の立場は相互扶助と搾取の関係にありました。

農業生産を支えたのは、古代では郷戸・房戸、中世では名主(みょうしゅ)・在家(ざいけ)、近世では本百姓と呼ばれた農民でした。中世、名主・在家の耕地は地域・身分・年代によって千差万別ですが、14世紀以降、小農民の分離・独立により、細分化されていきました。
水田の収穫は荘園領主や地頭が徴収する年貢、農民の手取りの分の他、14・5世紀には加地子得分といわれる剰余生産物の徴収権が設定され、それが物権として売買・譲渡の対象とされました。
この加地子得分は年貢を凌ぐ量の例さえ見られました。中世の土地売買は保有地の耕作権や自作権の売買より新しい物権である加地子名主職を分離売却する例が多く見られました。
この様な加地子得分徴収権は荘園領主・荘官・地頭、地侍、名主百姓、土倉などに転々と売買されました。この様な現象は稲作生産力の向上によるものですが、商品貨幣経済が農村に浸透することにより、農民に還元されることはなく、剰余分の多くは支配階級や高利貸に吸い上げられました。
中世では、平安時代末期に後三条天皇が制定した宣旨枡が公定枡とされましたが、実際に使用された枡は市場ごと、村落ごとに違っていました。年貢米を収納する時は、容積の大きな収納枡を使い、支払う時は、収納枡より小さい下行(げぎょう)枡を使いました。このように支配階級は二重の搾取を行っていました。

耕地の利用率が中世では高まってきました。耕地には片あらしと呼ばれる不定期に耕作される耕地と恒常的に耕作される耕地がありました。片あらしは地力が回復のため意識的に休耕したものと灌漑用水及び労働力不足によるものが考えられます。
しかし、室町時代に入ると片あらしは減少する傾向が見られます。これは荘園領主の勧農政策とともに、農民の生産意欲と灌漑設備の整備によるものと思われます。
水稲の刈取りの後、麦を蒔くなどの二毛作や三毛作が普及してきました。これにより、農業の集約化は進み、小農民が自立化していきました。
しかし、多毛作は地力を消耗します。肥料を絶えず補給することが必要となってきました。古来より草木灰や人糞尿が肥料として使われてきました。二毛作・三毛作が普及していくと、追肥して草木灰を施すことは重要になり、それにつれ山野の利用について農民同士の山争いが水争いとともに激しくなりました。

水田稲作において水の問題は重要なものでした。日照りが続いた場合の河川からの引水の順序と時間は大きな問題で、当事者同士の話合いでは解決できませんでした。荘園間の利害調整に荘園領主が登場し、支配下の荘園の引水の順序と時間を割り当てていきました。これが番水という方法です。これにより領主の権力は長く温存されました。
次は分水の方法です。川の中に堰堤を築いて流れを堰き止め、溜まった水を取水口から取り入れ、用水路を通じて各荘園に灌水します。この場合、用水路の分岐点に分木(ぶんき)という標識を立てて分水口を設け、そこから樋を引いて水を分け合いました。
河川からの取水にはこの他に、平安時代から水車による揚水の方法があり、室町時代には盛んになっていました。

この時代の荘園村落は惣荘、惣村、惣郷と史料には記されています。惣とは総であり、全ての意味を持ちます。つまり、名主以下、中小農民である百姓達を含めた共同体である集団組織を指します。
惣荘、惣村には惣掟・村掟が決められました。そして、違反者には惣のリーダーである年寄(としより)・乙名(おとな)によって処罰が執行されました。彼らは地侍・名主によって構成され、彼らによって決められた惣掟は他所者を排除する排他的なものでした。

 

平安時代、莫大な田畠・家財を持つ人達を富豪とか長者と呼びました。鎌倉時代から裕福な商人を有徳人(うとくにん)と呼びましたが、富裕な人、金持として定着するのは室町時代です。
この有徳人を代表するのが都市の土倉(どそう)と酒屋です。平安時代の日宋貿易により莫大な宋銭が日本に流入しました。鎌倉時代には山僧・借上(かりあげ)という高利貸が現れました。
山僧は山門延暦寺の僧侶で、高利貸を営む者をいい、借上は利息を付けて貸付を行った出挙(すいこ)の和訳で、借は出から、上は挙から訳されたといわれています。
山僧・借上が貸付に対して担保の品物を取れば、それを保管する倉庫が必要になります。この様な貸借が増えるにつれ、土倉・土蔵を持つ高利貸が出てきます。
京都・奈良は勿論、15世紀になると、地方都市・市場にも多くの土倉が現れ、地方の領主や農民も貨幣経済に巻き込まれていきました。

1393(明徳4)年、将軍義満は京都の土倉・酒屋に課税する法令を発します。この土倉・酒屋役はこの後の日明貿易とともに、貨幣獲得策として重要なものでした。
この課税は政所の倉奉行に属する納銭方一衆(のうせんかたいっしゅう)が担当しました。担当者は幕府の役人でなく、坊号をもつ土倉や酒屋を兼ねる土倉によって構成されていました。
倉奉行ですら山門所属の有力土倉が担当していました。室町幕府の場合、将軍の個人的経済と公の幕府財政が一体化していました。幕府の財政機関の中に土倉は富を背景に入り込んでいました。
禅宗寺院も高利貸を行っていました。信者から寄進された祀堂(しどう、死者を祀る堂)銭を貸付けていました。禅宗の歴史は浅く、荘園や所領が乏しいため、この様な祀堂銭を貸付けたり、加地子名主職を買い集めました。
土倉と並んで有徳人を代表するのは都市の造り酒屋でした。醸造・販売による利益を土地購入や高利貸付に利用しました。これらの酒屋は現在の造り酒屋と一杯飲み屋を兼ねたようなものでした。

都市に大きな店舗を構える豪商が現れるのに対し、地方と都市とを往来する行商人が活躍するのも室町時代の特徴です。彼らが扱うのは日常物資でした。
この様な行商を代表するのが大山崎の油商人でした。天王山の麓の山崎には離宮八幡宮がありました。この八幡宮を本所として、その神人(じにん)の身分で、油の原料である荏胡麻(えごま)を仕入れ、製品の油の販売を行った油商人がかって大山崎と呼ばれたこの地に住んでいました。大山崎油神人は瀬戸内海や九州で原料を優先的に仕入れ、大山崎に搬入しました。そして、油の独占販売を行いました。油を売るにはその傘下に入るしかありませんでした。

琵琶湖の水運により、その湖岸には年貢・商品の陸揚げ、積替え、運送を営む問丸(といまる)が早くから居住していました。また、琵琶湖の漁業により、朝廷・官司・神社に生魚などの生鮮食料品を貢納する贄人・供御人も住んでいました。この様な状況で、近江は多くの商人たちが輩出されました。
農業・手工業・漁業などに依存して自給経済の社会では交易を生業とする一部の人達は蔑視されていました。しかし、中世に入って、貨幣が重視され、商人の役割が大きくなる変化の兆しを見せます。鎌倉から南北時代にかけて、富が万能との拝金思想が商品貨幣経済とともに普及します。室町時代になると、拝金思想はますます広がし、銭の有用性を肯定し、卑しいという考え方は否定されていきます。
拝金思想が広まると、商売繁盛を願う福神(ふくじん)信仰が有徳人の間に広まりました。これは鎌倉時代から南北朝時代にかけて荘園内に多くの定期市が開かれるようになると、荘園領主などが取引の安全と平和を祈って夷(えびす)神を祀ったことに由来します。
福神のうち夷神は初め海上守護神として漁師の間で信仰されていましたが、そのうち、海運の神として廻船業者、更には一般商人の間にも商売繁盛の神として信仰されるようになりました。

商人達の活動舞台は港町や荘園村落で開かれた定期市でした。特定の日に、月3回ほど開かれた三斎市(さんさいいち)は13世紀以降多く見られるようになりました。
定期市は平安末期、干支(かんし)の市に始まります。午(うま)の市、子(ね)の市などといわれるものです。鎌倉時代に入ると、10日に一度、月三度の日切りの三斎市が圧倒的になります。二日市、四日市、五日市などといわれるものです。
この三斎市から六斎市に移っていきます。それは仏教で悪日といわれた毎月の8.14.15.23.29.30の6日でした。しかし、室町・戦国時代になると、月のうちの2と7、3と8、4と9という一定の日の組み合わせで周期的に開かれました。

現物のまま京都の荘園領主の元に送られた地方の荘園の生産物は、室町時代には、商品として流れ込んでいました。地方から大量に流れ込んでくる生活必需品の円滑な流通のため、京都や中継の港湾に集散卸売市場が成立しました。
15世紀の後半、諸国からの米は上・下京の米場座につけられ、小売商人に卸売りされる米の流通機構が幕府公認の下にできあがっていました。かって自給自足していた公家や社寺、幕府や守護大名も商品米に依存すると、卸売市場が整備されていきました。他の生活必需品についてもそのようになっていきました。
卸売市場や消費市場での取引は権門社寺を本所と仰ぐ卸問屋である座商人の特権的・独占的機構の下に置かれました。そしてこの問屋が生産地商人・仲買・小売・馬借などの運送業者を一つの系列に編成し、かっての中央都市と地方生産地との貢納関係から経済関係で結び付けました。

京都・奈良・堺などの中央都市では織物や美術工芸品を生産し、地方では食糧や原料品を生産して、相互補完しあう形で結びついていました。定期市や港町には中央と地方、市と市、村と村を行商人達が往来しました。
行商人のスタイルは色々ありました。近距離行商では頭上に荷を載せて運ぶ戴(いただき)の法、天秤棒の両端に荷を架ける振(ふり)売りがありました。遠隔地行商では、千駄櫃に商品を入れて歩いた商人は高荷(たかに)商人といわれました。戦国時代になると、高荷商人は鳥の形に似た木の枠に荷物をつけて背負う連雀(れんじゃく)商人に代わりました。  
高荷・連雀商人は、山賊・夜盗から身を守り、相互扶助のため、領主との市場税軽減交渉のため、大人数で行商しました。

室町時代遠隔地との商業が発展しますが、それには割符(さいふ)と呼ばれる為替(かわせ)が役割を果たしました。割符は鎌倉時代から旅費や年貢銭の送金に使われていましたが、室町時代には商人の取引にも使われるようになりました。
行商人が遠隔地で取引する場合、銭貨の持ち歩きは危険でしたので、支払いに割符を使うようになりました。しかし、割符の受取人は危険と負担が伴いました。この様な為替使用が増えるにつれ、その発行と支払いを専業とする割符屋が京都や港湾都市に現れました。しかしまだ信用経済が発達する段階にはまだなっていませんでした。

遠隔地との商業発展の要因の一つに交通運輸の発達があります。室町時代、陸上では馬借・車借、水上では巨船を要する廻船業者が登場します。
港湾には散所・河原者と呼ばれた隷属運送業を営む者が多くいました。主要街道沿道には農閑期には駄賃稼ぎの兼業的な下層農民がいました。これらの者がその地の馬借になりました。
鎌倉時代までの道の通行者は、国府の官人、武士、軍勢、勧進僧、年貢を運ぶ名主百姓が主でした。しかし、室町時代の通行者は武士・農民をはじめ商人、馬借・車借、職人、社寺参詣の旅行者、巡礼など多彩になりました。

通行者を妨げるのが関所でした。古代の軍事治安上のため設置されたものと違い、通行税徴収のため、朝廷・公家・大寺院・幕府が立てたものでした。
諸国から人馬が出入する京都の諸口に関所を設けるのは関銭徴収に最適でした。1459(長禄3)年、幕府は伊勢神宮造営費に当てるため朝廷・公家から権利を奪って京都に七口(しちこう)関を立てました。しかし、これらの造営費は一国平均の役、つまり段銭段米でまかなわれていましたが、この頃、幕府は全国から段銭段米を徴収する力はなくなっていました。
京都・畿内あるいはその周辺の街道に張り巡らされた関所網は商業活動にとって障害になり、関銭として徴収された分は価格に転嫁されました。しかし、この時代の消費者は全体の人口のうちの限られた都市の公家・社寺・武家・商工業者などの一部の人達でした。

畿内と瀬戸内は水運が非常に発達していました。水運の基点・中継の港湾には、荘園制時代、年貢の陸揚げ、中継・運送を行う問丸(といまる)がいました。彼らは年貢だけでなく、一般商品も取り扱いました。問丸の機能は分化し、堺の豪商である納屋衆のような倉庫業者に、あるいは特定商品、特定地域からの商品を一手に扱う卸売問屋などになっていきました。
この頃、国内水運や海外貿易に使われた船の規模は、五山僧策彦周良(さくげんしゅうりょう)の「戊子(ぼし)入明記」によりますと、門司所属の和泉丸は2500石という、当時では桁外れに大きく、操船が難しいか、構造上の問題なのか、明への渡航には使われなかったとされています。
同じく、門司所属の1800石の寺丸も大きな船で、渡航に難儀したと書かれています。他に、門司所属の1200石の宮丸、700石の夷丸が記載されています。この当時は500〜1000石程度の船が渡航には最適のようでした。

 

1428(正長元)年、将軍・天皇が代替わりし、政情不安な中、近江の坂本・大津辺りの馬借達が徳政、即ち債務の破棄を求めて土倉・酒屋を襲い、借金の証文を奪い、焼き捨てました。
このような土一揆は洛中にも及び、更に、奈良にも波及しました。驚いた幕府は、徳政を要求する土一揆を禁止しました。しかし、翌年には、大和南部、播磨まで飛火しました。
正長の土一揆は情報が入り易い馬借によって始められ、商品貨幣経済が発達した畿内・近国で、そして南朝勢力が残存している伊勢・大和・吉野で起こっています。特に、支配力の強い寺社や公家の領内で起こっています。

1441(嘉吉元)年、将軍義教が赤松満祐によって殺され、満祐が自害した嘉吉の乱が一段落した頃、近江の坂本、三井寺、京都の鳥羽・伏見・嵯峨・賀茂辺りで一揆が起こります。
将軍の代替りの時期に、京都を包囲する形で起こります。この嘉吉の土一揆では地侍に率いられた周辺荘園村落の住民が組織的に、大挙して徳政を要求しました。
一揆は京都に入り、土倉・酒屋を襲います。幕府は土民だけに徳政を認めようとしますが、武家・公家をも含めた一国平均の徳政を一揆側は要求します。この土一揆は借入れに苦しむ下級武士や、中下級貴族とも繋がっていたと思われます。
幕府は一国平均の沙汰としての徳政令を発布します。しかし、一揆側は永代売却地や年紀契約地(期限付売却地)が除外されていたため、攻撃はやめませんでした。このため、幕府はそれらも認め、一国平均を天下一同に適用しました。
これに対し、比叡山延暦寺は反対の訴訟を起こしました。同調して、支配階級や高利貸資本や地主層は攻勢をかけてきました。これに便乗して幕府は再び永代売却地を除外しました。そして土一揆側もまもなく退散しました。

徳政とは、奈良時代から平安時代にかけて、天皇の病気、飢饉、天皇即位後の大嘗会などに際して、農民救済のため、公私の貸借は破棄することでした。鎌倉時代になると、売却・質入された社寺領の返却に適用されました。これは武家社会にも適用され、御家人の売買・質入された所領を取り戻させ、所領問題の越訴と金銭貸借の訴訟を停止させる永仁徳政令が発布されました。
室町時代は嘉吉の徳政令までは鎌倉時代の武家徳政と共通していました。1454(享徳3)年の徳政令以降は債務・債権者とも幕府に債務・債権の1/10ないし1/5の分一銭(ぶいっせん)を納めさせ、彼らの権利を認めるという分一徳政令に変わってしまいました。権利者は分一銭を納入しうる者に限られ、債務・債権の両者に、公家や幕府の奉行人、大社寺の関係者が並ぶようになりました。
ところで、嘉元の徳政令では結局永代売却地は除外され、大社寺・国人領主・地侍・土倉・酒屋の権利は守られました。

正長から嘉吉における徳政により、債務は帳消しになり、土倉・酒屋は大打撃を受けましたが、債務者は喜んでばかりはいられませんでした。貸出を渋ったり、利子を上げたり、質流れの期間が短縮されることが予想されました。このため、徳政令が発布されても、債務者と土倉との話合いは土倉ペースで進められました。
荘園村落で行われた在地徳政や私徳政は地侍・名主や社寺が債務者の場合が多く、貸借が破棄され、彼ら指導者層が打撃を受けることはありませんでした。利子や元金の一部免除程度の徳政で終わりました。
村落内の土地売買・質入・米銭貸借は鎌倉時代以来行われ、村落内の階層化、貧富の差を生じさせていましたが、これは共同体を維持するためには必要なこととされました。

 

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