室町時代

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室町時代
3.応仁の乱
 

1441(嘉吉元)年、将軍義教が暗殺された後、その子義勝(よしかつ)が7代将軍に就きました。しかし、義勝は病弱で、10歳で死去してしまいます。この後、次男の義政が継ぎ、1449(宝徳元)年、8代将軍となります。
義政の治世の20年余りの間は、土一揆が頻発し、天災・疫病・飢饉が相次ぎました。しかし、徳政令、土倉・酒屋対策など幕府財政にかかわる政策が優先され、緊急の政治的・社会的問題を積極的に取り組む態度ではありませんでした。
1459(長禄3)年から翌年にかけて、ことのほか天候不順が続き、日照り・暴風雨・冷害が繰り返し襲い、疫病が流行り、飢餓に襲われました。備前・美作・伯耆で、その状況はひどいものでした。

1462(寛正2)年、それまでの凶作のため、食糧不足は全国に及びました。京都は生き地獄となりました。餓死者が大量に発生しました。地方でも餓死と流亡のため一村が壊滅した所も少なくありませんでした。
この様な社会状況の中、義政は室町第の復旧工事を始めました。そんな状況に時の後花園天皇は義政を諌めました。しかし、それも一時のことで、その後も、母のために高倉第をつくりました。

武家の相続は鎌倉時代、当初は分割相続でしたが、所領の分散を避けるため、惣領の単独相続の傾向が強まってきました。そのため、家督相続争いが激化していきました。
足利将軍家の承認が家督相続に必要となり、守護の能力が重視されることが将軍義教の時には顕著となりました。しかし、これはあくまで原則で、一族・家臣たちの力関係によって左右され、将軍の承認は時には紛争をあおる結果となりました。
斯波義健(よしたけ)が死去すると、一族の義敏が継ぎました。しかし、越前守護代甲斐常治は主君の義敏と対立します。その弟の甲斐近江は義敏をたすけます。義敏は常治との対立で、将軍義政の怒りに触れ、失脚します。その後はその子の松王丸が継ぎ、やがて一族の中から義廉(よしかど)が入って相続します。しかし、義敏は、周防の大内政弘や将軍の側近の支持で、義廉にかわって惣領職に復帰することができました。

この様な相続争いは畠山氏にも及びました。畠山持国には実子がありませんでした。弟の子政長(まさなが)を養子に迎えます。しかし、実子義就(よしなり)が生まれ、家督を義就に譲りました。
重臣神保・遊佐(ゆさ)氏は政長を支持します。政長・義就両派は河内・摂津・大和を舞台に、国人領主を巻き込んで争いました。しかし、将軍義政・細川勝元・山名持豊(もちとよ、宗全)が政長を支持したため、義就は吉野に逃れました。政長は1464(寛正5)年、管領に就任しました。
相続争いには細川・山名の有力者の他、将軍の側近がかかわりました。これら側近の言うがままになった義政は政治には次第に意欲を失っていきました。

1464(寛正5)、将軍義政は30歳で隠退し、弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ、義視(よしみ)と名乗らせ、家督を継がせ、細川勝元を後見人にしました。しかし、その翌年、夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を生みました。義尚を将軍にしたい富子は義視・勝元に対抗して、山名宗全を後ろ盾にしました。

1467(応仁元)年、管領畠山政長は突然解任され、義就に邸を明け渡すように命じられました。政長を援けていた細川勝元は義就追討を将軍に上申しょうとしますが、山名らに妨げられ、将軍より政長を援けることは反逆行為であるといわれ自重します。
失脚した政長は洛北の上御霊神社に布陣します。山名方の援助を受けた畠山義就軍は政長軍を打ち破ります。敗れた政長は勝元邸に密かにかくまわれました。
山名宗全は第一の実力者になりました。勝元は宗全・義就討伐の準備をしていました。東上の噂のある大内氏を牽制するため安芸の毛利豊元(とよもと)に協力を呼びかけました。斯波義敏の軍で山名方管領斯波義廉の領国越前・尾張・遠江に圧力をかけさせました。勝元方の世保(せほ)政康は伊勢の山名方を攻撃し、赤松政則は山名領国になっている旧領の播磨を攻撃しました。
そして、細川氏の被官の摂津の国人の池田氏が軍勢を率いて上洛する状況になりました。受身に回ってしまった山名方は斯波義廉邸に集まった山名宗全・畠山義就・一色義直は善後策を協議しました。
洛中の細川勝元邸・山名宗全邸を本陣として、両軍は対峙します。両軍の位置から細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれました。西軍山名方が布陣したところから西陣の名が生まれました。細川方の領国は北陸・畿内・四国で、山名方の領国は細川方の外側の東西の遠隔地にありました。


足利義視を総大将にした東軍は緒戦では優勢でした。劣勢の西軍に大内政弘、伊予の河野氏の水軍が登場してきました。大内義弘の時代、義弘は足利義満に討たれ、多くの守護職と堺を失いました。これを応永の乱といいます。このため、日明・日朝貿易に深く関わっていた大内氏は、堺を支配し、貿易の実権を握ろうとした細川氏とは対立の関係にあり、山名氏と結びつきました。

この大内・河野軍が南禅寺に入ると、西軍の動きは活発になり、幕府に隣接する相国寺を巡る戦いは、両軍の主力が投入されました。しかし、それ以降は小競り合いだけの戦いとなり、悪党・野伏・足軽の乱暴狼藉や略奪放火が繰り返されました。
 

政争を嫌って、伊勢の北畠氏に身を寄せていた足利義視は義政や勝元の要請で京に戻ってきました。義視は自分を敵視する将軍側近の解任を要求しますが、容れられませんでした。勝元は、義政や富子に遠慮して、義視を支持せず、出家を勧めました。このため、義視は東軍から西軍に身を投じました。
宗全は義視を迎え入れました。開戦当初、義政・義視・勝元の東軍対富子・義尚・宗全の西軍の関係が、戦い2年目にして、義政・義尚・富子・勝元の東軍対義視・宗全の西軍といった関係に変わってしまいました。
こうなると、将軍義政・夫人富子は1470(文明2)年、実子義尚を9歳で元服させ、将軍宣下を受けました。しかし、惰性的な両軍の戦闘は続いていました。


斯波義廉の下で西軍に参加した守護代朝倉孝景(たかかげ)は東軍諸大名の軍を破って武名を挙げていました。しかし、東軍の斯波義敏が越前に引き返し、制圧したため、義廉・孝景は糧道を断たれます。丁度この頃、勝元より孝景は越前国守護職と引換えに東軍への寝返りが打診されます。室町時代、足利一門以外で守護に任命されことは稀で、地頭上がりの朝倉氏が名門の斯波氏に代わって就くことは考えられないことでした。すでに噂にもなり、孝景は1471(文明3)年、東軍に寝返りました。

当時の武士団は惣領を中心に、一族・郎党へ更に侍身分の若党・中間によって構成され、これに多数の農民が狩り出されました。その頃の構成では、武装農民集団の野伏(のぶし)の比重が非常に高くなっています。
狭い京都で布陣する大軍に補給することは、その戦いが長引けば、大変でした。そして、その補給を断つには京都を良く知る土一揆の経験がある牢人・乞食・悪党らを使うことでした。
応仁の乱では、足軽・雑兵といわれる、野伏・牢人・悪党が大量に動員され、補給戦やゲリラ戦が行われました。

応仁の乱の当初、上洛した守護大名や国人領主達も、戦いが長引くにつれ、領国では守護代や国人領主の不穏な動きが気になり、次第に国許に帰国する者達も出てきました。
1490(文明2)年、山名政豊が父宗全を見捨てて、東軍に走りました。翌年には朝倉孝景が東軍に寝返りました。このため、1492(文明4)年、宗全は勝元に和平を申し入れます。しかし、東軍の赤松政則が嘉吉の乱で山名氏の領国になった播磨・備前・美作の返還を主張したため、和平は不調に終わりました。
この和平不調により、山名宗全は自殺を図ります。その傷が下で、翌年の1493(文明5)年、宗全は亡くなります。同年、細川勝元も急病で亡くなります。両軍の中心人物が亡くなりましたが、戦いは都の内外で続きました。

西軍のうち有力大名は大内政弘だけが京都に残りました。しかし、守護代の反乱や九州の大名の反攻もあって帰国を希望していたため、将軍家もこれをいい機会として、1477(文明9)年、大内政弘の帰参を許しました。西軍のうち、大内政弘と山名政豊だけが将軍家への帰参が許されました。足利義視は土岐成頼を頼って美濃に下って行きました。
1473(文明5)年、足利義尚は将軍に就き、母富子は後見役として幕政に深く関わっていきます。応仁の乱の後半からは、酒に浸り、連歌などに凝り、風雅で隠遁生活をする義政を妻子や諸大名も相手にせず、義政は孤独な身になっていきました。

1482(文明14)年、人々の応仁の乱の痛手が癒えてない中、義政は長年の願いであった東山山荘の造営に着手し、翌年完成し、ここに移り住んでいます。この山荘には東求(とうぐ)堂や銀閣が建てられていきました。
山荘造営に足掛け9年の歳月と経費・人員が費やされました。造営費は国毎の段銭が徴収されましたが、山城では、寺社本所領から徴発された人夫が動員され、更に、寺社本所所領の負担は荘園農民の臨時課税となりました。応仁の乱の痛手を受けた山城の荘園村落の荒廃に拍車をかけました。
3代将軍義満以来、公家日野家から将軍家に嫁いでくるのがしきたりでした。日野富子は8代将軍義政に嫁いできました。富子は初めの男子が夭折した時、義政の愛妾今参(いままいり)の局の呪詛のせいとして、今参の局を殺害させました。
富子は義尚を生むと、義視が将軍になる約束を破り、義尚擁立に執念を燃やし、応仁の乱の要因を作りました。
富子が政治の実権を握ると、富子に取り入るため、諸大名からの贈物で門前市をなしていたといわれます。

 

山名宗全・細川勝元が亡くなり、惰性的戦いが続いていた頃、応仁の乱の発端になった畠山政長と義就は家督・守護職・管領の座を争い、必死に戦っていました。11年に及ぶ応仁の乱が1477(文明9)年終結した後も、政長と義就、それに加担する山城・大和の国人領主達は畿内で戦い続けていました。
1485(文明14)年になると、南山城を舞台に戦われました。田畠を戦場に、兵糧米の徴発に苦しむ農民、奈良街道の物資輸送で生計を立てている馬借・車借は怒り、地侍も将来に疑問を持ち、住民たちの怒りに動揺していました。
1485(文明17)年、南山城の国人と呼ばれた地侍や土民と呼ばれた農民達は集会を開き、畠山両軍の山城からの撤退を要求しました。住民の意向や地侍の同調を無視できず、両軍はこれを受諾しました。

山城国一揆と呼ばれる国人土民の結合と、これを基礎にした自治的南山城の運営である国持(くにもち)体制が、1493(明応2)年まで8年間続きます。
国一揆の国人達は、両畠山方は国中に入ってはならない、本所領は元のように寺社・本所の知行とする、新しい関所などを設けないの3つの大綱を打ち出しました。そして、国の掟として、本所領は本所の直接支配とし、山城出身者以外の代官の排除を取り決めました。翌年、宇治平等院で国一揆の大集会があり、以上の大綱や国の掟が承認されました。
山城国一揆を指導したのは、36人衆といわれる地侍たちでした。彼らは荘官や有力名主として地位を築いていた地侍でした。その多くは勝元以来のよしみで、その子の細川政元と結びついていました。36人衆の中から月行事が交替で選ばれ、南山城二郡、相楽(そうらく)・綴喜(つづき)郡の運営が行われました。
国持体制では検察と断罪の検断権の行使、年貢の半分を徴収する荘園等の半済賦課権、通行管理権の権限が行使されました。これらは本来、幕府・守護の権限に属するもので、山城国守護の権限を代行するものといえました。

1493(明応3)年、将軍義材(よしき)は、義就の子の畠山基家(もといえ)を討つため、河内に出陣していました。しかし、細川政元はクーデターを起こし、足利政知の子、義遐(よしとお、後の義高)を擁立し、義材を軟禁しました。
そして、政元は父勝元以来の盟友畠山政長を攻めました。政長は自殺してしまいます。義材はこの後、逃亡し、長く流浪します。
この様な状況で、細川政元は南山城のことに対応する余裕はありませんでした。山城の守護になった伊勢貞宗は大和の豪族古市澄胤を南山城に入部させようとしました。この様な動きも政元は黙認しました。
国一揆の指導者達は進攻してきた古市方の井上九郎の軍を迎え撃ちますが惨敗しました。井上はそのまま代官として南山城二郡を支配することになりました。ここに山城国一揆は終わりました。

 

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