室町時代

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室町時代
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室町時代は、多くの町が都市としての体裁を整えていった時代でした。土地所有を基礎にした身分制や、惣掟・村掟で規制される農村と違い、芸能・技能で生計を立てることができる自由な雰囲気の職能共同体が成立していったといえます。都市は土地を持たない商工業者・馬借・車借が自立できる機会のある場所であり、農村からはみ出した流民の最後の拠り所でした。
中世の都市には次のようなタイプがありました。京都・奈良のような古代からの都市、中央都市への年貢や商品の集散機能によって都市化した港湾都市、これには、淀川沿いの淀・山崎、琵琶湖の坂本・大津、瀬戸内の兵庫・堺・室津・尾道・厳島、日本海の小浜・敦賀・三国・直江津、太平洋岸の伊勢・大湊・桑名、九州の博多などがありました。
地方の有力守護大名や国人領主の城館町ができました。大内氏の山口が特に有名で、他に大田道潅の江戸、越前朝倉氏の一乗谷などがあります。
社寺参詣の流行によって、有名社寺の門前に、参詣客相手の門前町ができました。摂津西宮、天王寺門前、越前の吉崎御坊、備前西大寺があります。
遠隔地行商・社寺参詣が盛んになるにつれて、主要街道沿いに宿場町ができました。

これらの都市が形成され、そこに商人の勢力が台頭し、町人文化が芽生えてきました。京都の商工業者は寺社本所との間で、座人・供御人・公人・寄人(よりうど)・神人という縦割りの身分関係で拘束されていました。しかし、14・5世紀の自由な営業活動により、惣町・町組といった地縁的共同体を作り上げていきました。
京都全体は上京・下京を代表する月行事・総代の協議によって処理されました。町衆最大の行事祇園会山鉾(ぎおんえやまぼこ)巡行、禁裏の修理に要する経費割当、喧嘩の仲裁・調停などは土倉・酒屋出身の月行事・年寄によって処理されました。

15・6世紀経済の発展の上で、職人の役割は大きいものがありました。従来、都では、官衙・貴族・社寺、地方では国衙・荘園政所・地頭に隷属していました。この支配関係は、中世に入ると、本所と座人という緩やかな関係に変わっていきました。中世では、手工業者に限らず、一芸一能で身を立てる人は全て職人と呼ばれました。
中世の職人は仕事場や市場を確保するには寺社本所に従属し、職能別に座を結成していました。座内では技術に基づき、序列ができていました。職人の報酬は手間(てま)と呼ばれる賃金が払われました。仕事の合間に食料が与えられることもあり、衣服支給の慣行もありました。

職人の世界では、この時代、後世に残る技術が確立したものもありました。織物では西陣織・博多織が成立しました。
港町の堺には、15世紀に入ると、綾・羅紗(らしゃ)を織る技術が発達していました。ここに日明貿易により、中国の織物の唐物が入り、明の模様織の技術も入ってきました。応仁の乱を避けて移り住んだ京都の大舎人(おおとねり)織手座の職人達が堺と明の織物技術を学び、京都西陣に帰って伝統の技術と堺・明の技術を融合した西陣織を編み出し、16世紀半ばに、絹織物における地位を確立しました。
大内氏の支配下で、朝鮮貿易の拠点で、日明貿易では堺と競合した博多にも、大陸の織物技術が伝わり、16世紀半ば、博多織が編み出されました。
織物業と並んで、金属手工業もこの時代、その技術は発達しました。刀剣・刃物や農機具を作る鍛冶は忙しい時代でした。戦乱があり、また明や朝鮮への輸出品として需要が大きく伸びた日本刀はこの時、名人芸から量産への時代に入っていました。備前の長船・京都の三条粟田口・美濃関などの刀剣生産地が有名でした。
鍋・釜や梵鐘を鋳造する鋳物師(いもじ)は、河内・和泉の鋳物師が独占的地位にありましたが、15世紀には到る所に鋳物業が成立しました。九州では筑前蘆屋(芦屋)・豊前今井・豊後高田などがあります。

産業技術の革新は、農業においてもありました。寒冷な気候の東国では早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)が作付けされました。
西国で作付けされた赤米は、インドシナ半島の占城(チャンパ)を原産地とする品種で、南宋時代江南で普及し、中国との貿易の中で種籾が日本に移植されました。色が赤く、旱魃・虫害に強く、炊き増えする品種でした。気候に適した品種の作付の他に、西国では多毛作と畠作が行われました。
養蚕・絹織りは、古代では各地域条件を無視して全国に強制されていましたが、地域の特質を生かした特産地が確立してきます。それらは東海・東山・北陸・山陰・北関東地方でした。
この時代、庶民の衣料の中心になったのは、麻・苧(からむし)でした。これらは全国で栽培されましたが、寒冷地を好むため関東が主産地で、越後は青苧(あおお)の特産地でした。
木綿は14世紀末からの日明貿易で綿布が入ってきました。15・6世紀になると、その量は急激に増えました。この頃、日本に移植された木綿も定着して、東海道で栽培されたものが京都に入ってきました。この時代、木綿は支配階級の贅沢品でした。

 

13世紀半ばから15世紀半ばまで、倭寇によって朝鮮の南岸は荒廃しました。倭寇は2・3隻の小さなものから50〜500隻の大きなものまでありました。その根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦が中心で、北部九州・瀬戸内の海賊もいました。
14・5世紀の倭寇の略奪は米・豆などの穀物と捕虜でした。捕虜は送還する対価として銭貨や綿布を要求しました。
1390年代以降、日本と朝鮮の公貿易は厳しい制限貿易でした。開港場は富山浦(釜山)・乃而(ないじ)浦・塩浦(蔚山、うるさん)の三浦が指定されました。
そして、貿易者は朝鮮国王の私印を与えられた者、倭寇懐柔策として、朝鮮で官職を与えられ、貿易を許された者に限られました。また、貿易者は対馬の宗氏の許可を受けるという統制を受けました。

この様な制限貿易の参加を許れたのは、将軍家、畠山・細川・斯波・山名・京極・渋川・大内・少弐・大友氏、対馬の宗氏一族、壱岐の志佐・佐志氏、宗像社、松浦党の領主層、九州の秋月・菊池・島津・伊集院氏、安芸の小早川氏でした。
朝鮮貿易の輸出品は畿内や山陽道からは絹・綾・扇子・屏風・刀剣などの奢侈品や美術工芸品が中心で、対馬・壱岐・松浦や南九州からは馬・硫黄・馬具でした。そして、いずれの地方からも、南方の胡椒・沈香・犀角・蘇木などがありました。これは琉球-日本-朝鮮といった三角貿易が博多商人・琉球商人を仲介して展開され始めていました。
輸入品は、三島地方(対馬・壱岐・松浦)は米・豆などの穀物、九州諸大名は麻布・綿布、将軍や有力諸大名は人参・虎皮・豹皮・特に大蔵経などの経典を求めました。

1419(応永19)年、朝鮮の軍が対馬を襲いました。応永の外寇と呼ばれています。倭寇の根拠地に打撃を与えるのが目的でした。朝鮮は説明するため、使節を送りました。この使節と幕府の話合いを斡旋したり、使節を応対したのが、博多商人宗金(そうきん)でした。宗金は海賊達とも関係を持っていたと思われ、朝鮮使節が瀬戸内海で宗金の力で海賊の襲撃を避けることができたり、対馬の倭寇の首領の早田氏と組んで貿易をしたことも伝えられています。宗金は、一時中断されていた日明貿易の再開のため、将軍義教の使者として、朝鮮に仲介を依頼しています。

 

1401(応永8)年、将軍義満が明に国書を送り、翌年、明の返書を携えた使節が来朝して、平安時代の遣唐使廃止以来途絶えていた日中の国交が再開されることになりました。
この背景には明にとって冊封体制の中に日本を取り込み、従属させる、倭寇を日本の手で鎮圧させるという意図がありました。日本にとっては、将軍の地位を高め、国王の地位を確立する、国内の大名、特に九州の大名や領主達を貿易参加で統制下に置く、そして、幕府及び将軍家の財政を貿易収入で補うという意図がありました。
日明貿易は勘合貿易と呼ばれます。これは倭寇と区別するため、勘合符を持参させたため、こう呼ばれました。文字の半分を押印した紙と、別の半分を押印した原簿を勘合、つまり、照合して正規の貿易船かどうかを判別しました。

日明貿易は15世紀初頭から約1世紀半、19回に及びました。最初8回までは幕府船のみが渡航しました。9〜11回は将軍・大名・社寺船が渡航しました。12〜19回は細川と大内氏が独占し、実質的には堺・博多の商人が日明貿易を牛耳り、莫大な富を蓄積しました。
当初、博多・赤間関・門司・蘆屋・兵庫の商人によって運営されていました。しかし、12回の船が戦乱の瀬戸内海を避け、九州南端から土佐を経由して堺に帰港しました。13回目の船は堺から出港して、堺商人はクローズアップされました。
 
かって宋や元の時代、南方の産物は中国の商人によって日本や朝鮮にもたらされました。明は鎖国政策を取ったため、中国商人に代わって、琉球商人が活躍しました。
琉球では、英祖王統が衰え、中山・南山・北山に分裂して争う状況になりました。そして、それぞれが中国に朝貢しました。15世紀初め、中山王尚巴志が三山を統一し、首里を都としました。
琉球は幕府に使者を送り、琉球船は畿内に来航するようになります。将軍への献上のほか、取引が行われるようになります。南方の産物は支配階級に喜ばれました。琉球商人はシャム・パレンバン・ジャワ・マラッカ・スマトラ・安南にも進出し、仲介貿易を行いました。
島津氏は地理上の関係もあり、15世紀以来、日琉間の関係に介入しました。1471(文明3)年には、琉球への渡航船取締りを幕府から命じられました。

 

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