室町時代

北九州の歴史

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室町時代
5.室町時代の宗教・文化
 

各宗派が政治権力との接触を避けようとした中、禅宗、特に臨済宗は公家・武家と積極的に結びつき、その保護の下、宗勢を伸ばしました。五山官寺制度の下で、中国文化を紹介し、文芸を興隆しました。
室町時代、禅宗は夢窓疎石(むそうそせき)が基礎を固めた五山派の叢林(そうりん)と曹洞宗や大応派など地方で活動した林下(りんか)の二つの流れがありました。
夢窓疎石は、当初、天台・真言の教えを学び、更に、宋朝風の禅を学んでいます。そのため、密教的要素が強く、平安以来、密教と縁の深い公家や室町幕府の首脳の帰依を比較的容易に受けることができました。
夢窓疎石は甲斐の恵林寺(えりんじ)や京都の天竜寺を建立し、その門下には春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などを輩出しました。
春屋妙葩は2代将軍義詮・3代将軍義満の信任を得て、天下僧録(禅宗の寺院と人事を司る僧職)に任命されます。また京都に相国寺(しょうこくじ)を建て、将軍家の菩提寺とし、夢窓派五山統制の拠点とします。

五山の制度は、我国に禅宗が伝えられて以来、鎌倉幕府・南朝・室町幕府の保護の下で、整備されていきました。3代将軍義満は京都の南禅寺を五山の上に置いて、京都・鎌倉の五山の制度・順位を決めました。
五山叢林の寺院が荘園や所領の寄進を受け、経済的に安定してくると、修行がおろそかになり、中国五山で流行っていた文筆活動に専念することが理想と考えられ、五山文学の黄金期を迎えます。
五山叢林で洗練された文化が、五山文学として歴史的に評価されるまで高められました。そして、いわゆる幽玄・わび・さびといった文学理念や日本人の思想の基礎が生み出されました。
15世紀後半の東山文化の時代、五山内に浄土思想が入り込み、禅宗の隠遁思想と結び付き、隠者を輩出するようになります。

五山に対し、林下の禅は南北朝時代に地方に根を下ろしていきました。それらは、色々な派や流れがありましたが、主なものは次の通りです。
曹洞宗の越前の永平寺、能登の総持寺の系統、曹洞宗で道元の宗風を変え、密教化の色彩を強めていった流れ、臨済宗で隠遁思想の影響を受けた流れ、大徳寺開山の宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)の弟子で、妙心寺を開いた開山慧玄(かいざんえげん)と大徳寺を継いだ徹翁義亨(てつおうぎこう)の二つの流れが有名です。
大徳寺は皇室や公家に接近して貴族化しますが、中には一休宗純のような型破りな傑僧を輩出します。妙心寺は細川持之・勝元の保護を受け、妙心寺を中心とする開山派は全国に勢力を伸ばしていきました。
林下の諸派は民衆の信仰を得るために教義を単純化していきますが、禅に参加できる人々は限られ、国人領主・地侍・医者・連歌師・能楽者、そして、博多・堺の商人などのごく限られた人々でした。

戦乱をよそに文芸に専心する五山叢林の退廃や、諸大名や国人領主の祈祷寺や氏寺になってしまった禅宗寺院に反対し、隠者として批判する禅僧の一群が15世紀現れました。その代表が一休宗純でした。
一休は後小松天皇の御落胤として生まれたといわれていますが、その根拠ははっきりしません。一休は、粗末な身なりで、酒屋や遊郭に浸ってはばからず、五山の権威主義や貴族趣味に対し、人間的・民衆的禅を身を持って主張しました。
晩年、戦乱で焼失した大徳寺の再建に尽くしました。そんな一休の元に、連歌の宗祇、能の金春(こんぱる)禅竹、茶の湯の村田珠光、俳諧連歌の山崎宗鑑、碩学者の一条兼良などの有名な人々が参禅しました。

戦乱のこの時代京都を離れ、地方の大名から厚遇され、儒学を講じた禅僧もいました。特に九州では石見・長門・筑後などの守護や国人領主に儒学を講じた桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)がいました。そして、桂庵は菊池氏や島津氏の求めで、儒学を教えました。特に島津氏の元で熱心に教え、彼の死後、薩南儒学という流れが現るようになりました。
こうした地方での儒学が興隆することの中に足利学校の存在があります。足利学校は創立は平安時代といわれています。足利氏の本領足利荘に開かれたこの学校の歴史には空白が多くあります。
関東管領上杉憲実の時、鎌倉円覚寺の僧を招いて、初代の校長にしています。この後は、上杉・武田・後北条・徳川氏の保護を受け、坂東の大学として、その使命を果たしています。教科の中心は儒学で、ここで学んだ学生は故郷に帰って諸大名に召抱えられました。
 

親鸞によって開かれた真宗は、彼の死後、京都大谷の祖廟を守り、その血統を受け継ぐ本願寺派、伊勢高田の専修寺派、京都の仏光寺派、越前の三門徒派などの教団が分立し、対立していました。
本願寺派を除く教団は現世の幸福を求める門徒の要求に応えて布教に異端の方法が取られました。これに対し、親鸞以来の布教の立場を守った本願寺派は沈滞を余儀なくされました。
本願寺第八世法主(ほっす)に就いた蓮如は農民組織を村の組織ごとに捉え、庶民にも分かるように仮名交じりの手紙である御文(おふみ)を門徒や末寺の坊主に書き与えて、教えを説き、念仏は現世の幸福のためであるとし、門徒には道場の坊主に志(こころざし)を納めるように指導しました。
蓮如は長い間本願寺で否定されていた方法で布教を行い、親鸞の祖廟と血統によって他の諸教団を吸収していきました。
本願寺教団の台頭に山門延暦寺は強い脅威を感じていました。山門は京都の本願寺を焼打ち、堅田本福寺に身を寄せていた蓮如・地侍・農民は堅田を捨てて離散しました。
1471(文明3)年、蓮如は布教の新天地に北陸を選び、その拠点として加賀と越前の国境に当たる吉崎を選びました。
吉崎御坊で、蓮如は御文を作って門徒に与え、門徒を大切にしました。このため、蓮如に北陸の門徒はひきつけられ、吉崎御坊を訪ねる門徒のために吉崎には宿坊が軒を連ね、寺内町ができました。


蓮如は自治的村落組織である惣を宗教組織である講に組み替え、講の寄合で、信仰や農事や日常生活を話し合いました。寄合は村落の道場で開かれましたが、それはお堂や門徒の住居が当てられました。道場主は門徒で、多くの道場を統轄したのが末寺でした。
1474(文明6)年、一向一揆は加賀の守護富樫氏の内紛に介入し、一族の高田専修派の者を駆逐しました。平和的に教団の発展を望んだ蓮如は御文の中で一揆行動を禁止し、守護・地頭への服従、年貢・公事の貢納を説きますが、組織に地方武士を迎え入れた門徒達は蓮如の命令を受け入れようとしなくなっていました。

真宗と同様に宗祖の日蓮の没後、多くの宗派に分立して、対立していました日蓮宗は、地方の守護・地頭の帰依を通じて、農民層を信者にしていく方法を取っていました。このため、日蓮宗寺院の多くは領主の氏寺的性格を帯びていました。
南北朝時代、日蓮宗は京都に進出していきました。この時代、現世利益のために、加持祈祷を行ったことにより支配階級や町衆を引き付きました。
このように、中央や地方に勢力を伸ばしていた日蓮宗内部に矛盾を抱えていました。各派はその正当性を主張して、一つの教団として大同団結することはありませんでした。宗祖日蓮の純粋さや情熱は薄れていきました。
こうした中、宗教論争を積極的に行い、厳格な立場を主張した日親が登場してきました。日親は京都で辻説法を始めますが、迫害を受けました。日親の論争を行って折伏(しゃくふく)するという日蓮以来の布教方法は幕府からも、各地の領主からも迫害を受けました。
度重なる迫害にひるまない日親の態度は、自らの力を信じる京都の町衆の共感を得ました。

 

室町時代の文化は、3代将軍義満が晩年、京都北山に築いた山荘に因んだ北山文化と、8代将軍義政の東山山荘に因んだ東山文化の2つの大きな山があります。
北山山荘金閣の一層は寝殿造の阿弥陀堂、二層は観音を祀る潮音閣、三層は禅室で、全体として浄土・禅を兼ね、住宅と仏殿の融合・調和が図られています。
東山山荘の建物のうち東求(とうぐ)堂と銀閣だけが現存します。東求堂は義政の持仏堂で、阿弥陀三尊が安置されています。観音堂は後、銀箔で飾ったため、銀閣と呼ばれるようになりました。その一階は心空殿と呼ばれる書院造で、二階の潮音閣は禅宗様と和様を折衷した仏室です。
庭園については、北山山荘は金閣に焦点が置かれ、建物に付随する形で造られています。東山山荘は庭園の中に建物が溶け込む様な侘びの世界が表現されています。

東山山荘に見られる書院造は、わが国の和風建築の源流といわれました。平安時代以来の寝殿造は、公家の公的な場と私的な場が包括された建築様式でした。これが15世紀になると、生活の場が独立する傾向が強くなり、書院造に移り変わっていきました。
この書院造は禅宗寺院から将軍の住居、更に、守護大名・国人領主や公家の邸宅になっていきました。
東山山荘では寝殿を造らず、謁見や色々の催しの会場として、会所を作りましたが、部屋の壁や襖には障壁画が描かれ、輸入された宋元画などの掛軸を鑑賞する押板が考えられ出されました。これは床の間の前身をなすものでした。
また、寝殿造は渡来した美術品を鑑賞する棚がありましたが、書院造では押板・床の間の関連で、違い棚が作られるようになりました。
書見のための出文机いわゆる付書院も必要となりました。寝殿造では部屋の一部に敷かれた畳は、書院造では部屋全体に敷かれました。
書院造への変化により、襖による間仕切りが行われ、その装飾で襖絵が流行りました。床の間は書画や生花を飾る場所になりました。そして、掛軸といわれる絵画が流行りました。

幽玄といった東山文化の独特の雰囲気を最も表現しているのは庭園です。それは象徴美の極限を表したもので、石庭や枯山水といわれるものです。代表的なものに、竜安寺(りょうあんじ)の石庭や大徳寺塔頭(たっちゅう)大仙院の枯山水があります。

禅宗とともに大陸から伝えられたものに水墨画があります。その絵画を理解するには禅宗の教養が必要でしたが、雪舟が出てからは、日本的な水墨画が完成されていきました。
雪舟は京都の相国寺の周文に指導を受けます。45歳になった雪舟は周防山口の大内氏の元に来ます。そして、応仁の乱が始まると、明に渡り、3年間水墨画を学んで帰国します。帰国後も、山口に留まり、後、大友氏の豊後府内に移ったり、また山口に戻ったり、晩年は漂泊・行脚を重ねました。
代表作は豊後時代の「鎮田(ちんだ)の瀑(たき)図」や全国行脚による「山水長巻」「破墨山水」「天の橋立図」があります。

この時代、脚光を浴びるものの一つに茶の湯があります。喫茶の風習は奈良時代からあるといわれていますが、鎌倉時代になると、栄西により禅宗の喫茶の作法が広く武家社会にも普及していきました。庶民の間にも喫茶は広がっていきました。
南北朝時代、守護大名の間で、茶の産地を当てるという闘茶という茶会が開かれました。
喫茶の風習は広い階層に広がり、義政の東山文化の時代には宋元の画を架け、違い棚に唐物の美術品を飾って、茶を味わう書院の茶が行われていました。これに対し、庶民の間の茶の湯に禅の精神を加味した「わび茶」としたのが僧侶の村田珠光(じゅこう)でした。
珠光の四畳半の「わび茶」を三畳・二畳に縮め、一切の飾りを取り払って、自然のままの姿で見つめようとしたのが、堺の豪商の武野紹鴎(たけのじょうおう)でした。
「わび茶」は千利休によって大成されますが、庶民の間には形式や作法にこだわらない茶会が催されたり、往来に茶売りが現われたりして庶民の日常生活の中に喫茶の風習は入り込んでいきました。

この時代、大きく発展したものに能があります。能は奈良春日神社に奉仕する大和四座の猿楽や畿内・近国の有力社寺の神事・仏事に結びついて成立した芸能に起源をもつといわれています。
観世の祖の観阿弥は大和の結崎(ゆうざき)座を率いて、南北朝時代の猿楽の素朴で庶民的なものを基に、その音曲と技能を高めていきました。
観阿弥とその子、世阿弥は将軍義満の前で能を演じました。これから先、公家や武士も鑑賞に堪える洗練されたものになっていきました。
世阿弥は父、観阿弥の遺訓をまとめた「風姿花伝」や自分の能楽論の「花鏡(かきょう)」を著しています。世阿弥は洗練された幽玄・優美な能を心掛けました。

茶の湯・能と並んで、当時流行ったものに連歌があります。15・6世紀、京都は勿論、大内氏の山口、奥州の伊達氏・駿河の今川氏・能登の畠山氏などの城下町では、当代一流の連歌師であった宗祇(そうぎ)・兼載(けんさい)、宗祇の弟子の宗長(そうちょう)などが訪れ、最大な連歌会が催されました。
連歌の元は、奈良時代、万葉集にあるような対話問答歌で、平安時代には洒落を競う一句連歌になり、平安後期から鎌倉時代には、五七五七七を繰り返す鎖連歌となり、南北朝時代、連歌の形式も定まり、完成されました。
茶の湯や能と同じように無常・幽玄を追及し、戦乱などで動揺する心に安らぎを与えて、癒してくれました。代表作は宗祇、その弟子の宗長・肖柏(しょうはく)の3人で詠んだ「水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)」があります。

この時代あらゆる分野で、農民・商人・職人などの庶民の活躍が顕著になってきました。そんな庶民の活躍は文学の世界でも例外ではありませんでした。
民間で伝承されていた語り継がれた話が、この時、庶民を対象に読み物にまとめられました。「御伽草子(おとぎそうし)」は、その典型といえます。
その内容は立身出世譚で、庶民の夢が託されていましたが、その可能性もあるこの時代になって、作られ読まれたと思われます。
中世の歌謡は古代末期からの今様・和讃・巡礼歌などの仏教歌謡、舞楽に伴う小歌、田植えなどで歌われた民謡などでした。これらの庶民の間で歌われた歌謡をまとめたのが「閑吟集(かんぎんしゅう)」でした。
能と能との幕間に演じられたのが狂言です。狂言の主人公は無名の者で、滑稽さや風刺を内容としました。そのため、当初は反権力的性格もありましたが、支配階級の前で、能と能の幕間に演じられるに従い、その性格も薄まっていきました。

 

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