室町時代

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5.室町時代の宗教・文化

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6.大内氏と北九州
 

1395(応永2)年、今川了俊は九州探題を更迭され、渋川満頼(みつより)が就任します。了俊を支持した細川頼之が失脚したことが理由といわれますが、少弐氏や大友氏の利権を侵し、領国化しょうとする姿勢に、了俊に従って九州進出した大内氏も、それを嫌い讒言したといわれています。

渋川満頼は大友・少弐・菊池氏を抑えるため大内氏の助力を頼んでいましたが、1399(応永3)年、大内義弘は、幕府に反抗した応永の乱で、堺で戦死します。
この後継を弟の盛見(もりはる)・弘茂兄弟が争います。結果的には盛見が家督を継ぎます。幕府は周防・長門・豊前の他、幕府直轄国の筑前を盛見に預け、渋川満頼を補佐させます。
山口市瑠璃光寺の国宝五重塔は盛見が兄義弘の冥福を祈って香積(こうしゃく)寺に建立したものです。香積寺は後、毛利氏によって萩に移され、その跡に仁保の瑠璃光寺が移って来ました。
盛見は筑前守護と探題補佐で、博多の貿易利権を獲得しました。しかし、豊後の大友氏は元寇役後、博多の西部を恩賞として与えられていましたし、少弐氏は筑前に勢力を張っていました。


打倒大内の声が上がり、上洛していた盛見は帰国します。大内氏は歴代上洛していました。この反乱は治まりますが、大友・少弐氏との間は対立したままで、遂に、豊前・筑前で反大内の挙兵があります。これに対し、盛見は筑前に進軍します。1431(永享3)年、大内盛見は筑前怡土郡(糸島郡)で、大友持直(もちなお)・少弐満貞(みつさだ)の連合軍と戦って戦死します。
大内盛見の死後、兄義弘の子、持世・持盛兄弟の対立があり、持世は弟持盛を豊前篠崎(小倉北区)で討ち果たします。
更に、持世は大宰府に攻め込み、少弐満貞は自害します。遺児二人は対馬の宗氏を頼って逃げます。対馬に逃げた遺児は再起を図りますが、再び大内軍に攻められます。失意のうちに兄は死去し、弟が少弐家を継ぎ、少弐教頼となり、大宰少弐に任ぜられ、大宰府に復帰します。

幕府は赤松満祐を討ちます。この時、少弐教頼に対し出陣を命じますが、これに応じませんでした。このため、大内教弘に、少弐教頼討伐を命じます。教弘は大宰府を奪回します。教頼は、配下の竜造寺氏を頼って肥前に逃げました。
大内教弘は、筑前守護代に陶(すえ)弘房を任じて箱崎に、仁保弘直を大宰府に置きました。その教弘も、伊予へ遠征中に死去しました。この頃の大内氏の領国は周防・長門・豊前・筑前・秋・石見の6ヶ国に及んでいました。
教弘の跡を大内政弘が継ぎます。政弘が家督を継いで間もなく、応仁の乱が起こります。

政弘は東軍細川氏と対立していましたので、西軍山名氏に味方して、軍勢を率いて上洛します。少弐教頼は大内氏に対抗して東軍に付き、対馬の宗氏らと大宰府奪回を目指しますが、戦死してしまいました。
教頼の跡を少弐頼忠が継ぎました。頼忠は1469(文明元)年、対馬の宗氏の軍勢とともに博多に上陸し、秋月・原田・草野・山鹿・麻生・長野氏らが味方し、大内の代官仁保氏がこれに通じて、頼忠を大宰府に迎え入れました。
大宰府に入った頼忠は九州探題渋川氏を追放し、肥前・筑前の旧領を復し、豊前の大半を制しました。この後、頼忠は上洛し、将軍義政より、一字を戴き、政資(まさすけ)と改名します。そして、大友氏より正室を迎えたり、肥前の千葉氏や、竜造寺氏と関係を固めました。

応仁の乱後、大内政弘は幕府に許され、帰国します。留守中に奪われていた豊前・筑前の奪回を目指します。1478(文明10)年、政弘は大軍を率いて、博多を奪回し、大宰府に攻め入り、少弐政資は敗れます。政資は肥前に逃れます。
少弐氏が筑前・肥前の有力国人層を掌握できなかったのに対し、大内氏は巧みに支配下に組み入れていきました。
九州探題であった渋川氏は少弐・大友の守護との対決に精力を使い、筑前守護の大内氏の圧迫によって、居城を博多から肥前へと変えねばなりませんでした。そして、実力のない名ばかりの探題となり、後には渋川氏は大内氏の部将的な存在となり、事実上、九州探題は崩壊してしまいました。

 

応仁の乱後、大内政弘の勧めで、京都にいた連歌師の宗祇は、山口に西下します。山口で厚いもてなしを受けていた宗祇は、領国内の豊前・筑前の国人領主達の招請を受けて、領国内を旅行します。これは政弘からの領国内の視察の任も帯びていました。
門司に着いたところから、その紀行文「筑紫道記(つくしのみちのき)」は始まります。門司氏の船で小倉から若松に向かいます。若松で麻生氏の歓迎を受けました。
木屋瀬では、筑前守護代陶氏の館で、連歌の会を開いています。この時代、既に木屋瀬は遠賀川の水運と大宰府道が交差する要衝でした。
筑前へ進んで、陶氏の博多の居館に着きます。大宰府を訪れ、天満宮に参詣します。宗祇は筥崎宮・香椎宮・宗像宮に参詣しています。
帰路、遠賀川河口の蘆屋(芦屋)で、宗祇は花尾城を明け渡した麻生家延に接待されています。蘆屋を出て、江川を経て洞海湾に出て、赤間関に着き、山口に帰着しています。

 

大友氏は政親からその子の義右(よしすけ)の代になった時、政親・義右親子の不和のため家中が対立します。義右の妻は大内政弘の娘でした。
1496(明応5)年、当主義右が急死します。父政親は義右毒殺の疑いをかけられ、政親は逃げる途中、大内氏に捕らえられ、自害させられます。このため両派は争いますが、政親の弟の親治が家督を継ぎます。親治は大友家に分裂を狙う大内氏に対し、対抗していきます。
1495(明応4)年、大内政弘が没し、義興が家督を継ぎます。この後も、大内・大友氏は対立していきます。

 

北九州の西部を所領とする麻生氏は、南北朝時代、嫡流の山鹿氏は南朝方につき、庶流の麻生氏は幕府方につきます。そのため、麻生氏は山鹿氏所領の山鹿荘を支配するようになります。
麻生氏は山鹿氏を凌いで、勢力を伸ばします。この時代、麻生氏は将軍家と直参関係を持ち、奉公衆になっていました。これには、大内氏の後ろ盾がありました。
大内盛見が筑前守護になった頃より、麻生氏は将軍奉公衆から、大内氏の被官になっていきました。1433(永享5)年、麻生家春が家督を継ぎます。
この翌年の将軍義教の所領安堵状によりますと、麻生荘・野面荘・山鹿荘・感田荘が記されています。現在の洞海湾を取り囲む北九州西部市域と遠賀郡・直方市の遠賀川流域がこれに当たります。

家春は少弐氏との戦いに大内方として出陣しますが、その子とともに戦死します。家春の孫が継ぐはずでしたが、病死したため、家春の先々代義助の子、弘家が継ぎました。
麻生弘家は山口で大内政弘に仕え、側室と間に弘国が生まれました。弘家が重病になった時、内紛が起きました。弘家の跡に先代家春の子、弘助を継がせようとする動きに対し、大内政弘は弘助を殺害しました。

麻生氏の本拠花尾城には家春のもう1人の子、つまり、家春とともに戦死した子や弘助と兄弟の家延がいました。この頃、応仁の乱の最中で、大内政弘は上洛していました。その留守中に麻生家延は花尾城で挙兵しました。応仁の乱が終息すると、政弘は大軍を率いて豊前・筑前制圧に乗り出します。
1478(文明10)年、花尾城は大内軍によって包囲されています。博多に入っていた政弘は、部将らに花尾城攻略の指示を出しています。家延は抵抗しますが、遂に降伏し、花尾城を出ました。家延は、遠賀郡吉木村(遠賀郡岡垣町)に岡城を築いて移り住みます。家延の子の興春が麻生家を継いでいきます。

花尾城の井戸跡


将軍家の奉公衆であった麻生氏は遠賀川水域の年貢輸送・物流の通行権を支配していました。そして、大内氏被官へ変わっていきます。大内政弘の京都への献上品の中に、筑前蘆屋釜が入っていますが、これは麻生弘家から政弘への協力によるものと思われます。
この蘆屋釜は京都の茶道界で、非常にもてはやされます。吉木の岡城に移った家延の領内の高倉神社(岡垣町)は蘆屋の鋳物師達が信仰した神社で、彼らが奉納した銅造りの毘沙門天が残っていますし、山口県長門市の大寧寺にある梵鐘も蘆屋で鋳造されたものです。
時宗の一遍上人が九州を遊行したのは鎌倉時代文永の役の後でした。1368(応安元)年、蘆屋に金台(こんたい)寺が創建されました。当時、金台寺は垂間野(たるまの)道場と呼ばれていました。時宗の道場は芸能・商工を生業にする人々の拠点としても使われました。
金台寺は麻生氏の保護を受けていたと思われます。1462(寛正3)年から1588(天正16)年までの記載のある時宗の信者である時衆過去帳が残されていて、麻生・香月氏の国人領主や芦屋鋳物師達が記載されています。
蘆屋津の船乗り達は古くからの海人達であり、この地を支配した麻生氏は松浦党や宗像氏とともに朝鮮貿易に乗り出しました。

この時代、北九州の東、豊前規矩郡には門司氏、西の筑前遠賀郡には麻生氏が国人領主として存在していましたが、それ以外にも、長野・貫・香月氏などの中小の国人が活動していました。北九州の周辺の豊前仲津・京都郡には宇都宮一族、筑前宗像郡には宗像大宮司家などの国人領主が活動していました。
豊前・筑前の守護になった大内氏は彼ら国人を家臣団に組み込むことに努力しました。筑前より早く領国になった豊前の門司氏は麻生氏以上に大内氏に接近していて、大内氏奉公人の一人に門司氏はなっています。山口に邸を構え、小郡や赤間関に拠点を置いていました。

 

大内持世と持盛兄弟の対立の時、持盛は豊前にいました。大友持直は持盛を援けて豊前南部に進出しています。持直の弟大友親世は規矩郡辺りまで兵を進めています。そして、大内持盛は持世を一時は石見に追い出し、長府に入りますが、最後には篠崎で戦死します。
戦場になった北九州の国人は大内・大友いずれの旗下に入るか迷ったに違いありません。大内持世に麻生家春や吉志系の門司親忠が従っていることが記録されています。大内教弘の代になると、領国支配の体制が整備されました。
大内政弘の代は応仁の乱により、政弘が領国を留守にしたため、大友・少弐氏により、更には大内氏内部や被官の間で、大内氏の領国支配は各地で寸断される状態になりました。
政弘は応仁の乱後、山口に帰国し、翌年豊前・筑前の制圧に取り掛かります。長野氏は応仁の乱前は大内氏、乱の時は大友氏、乱後は大内氏の被官になりました。国人領主層のこの様な動きは当時としては当たり前でした。

北部九州に進出した大内氏の大きな狙いは朝鮮半島や中国との貿易がありました。1404(応永11)年、明との間に勘合貿易が始まると、幕府の他に、大内・細川・大友・島津氏が参加していましたが、後には、堺の商人と結ぶ細川氏と、博多の商人と結ぶ大内氏に絞られ、関門海峡や博多を抑えた大内氏が圧倒的優位に立つようになっていきました。

 

鎌倉後期、筑前国が安楽寺の造営料所となり、領家の菅原氏は知行国主になりました。菅原氏の下で、目代職が正税の徴収を行いました。目代職には留守職の大鳥居氏や小鳥居氏がなりました。
室町時代になると、彼らは次第に菅原氏の支配から離れ、領主化する傾向にありました。そこで、菅原氏は安楽寺天満宮領の支配を代官に任せ、豊凶にかかわらず、一定の年貢を受け取る代官請負制に切り換えていきます。こうして天満宮領の年貢を菅原氏は戦国時代まで受け取っています。

 

豊前の彦山は九州最大の修験道の山です。江戸時代に英の尊称を受け英彦山と書くようになりました。中世には山伏が定着し、衆徒・山伏が一体になって教団を形成しました。南北朝時代、京都から公家を初代座主として迎えました。室町時代に彦山は最盛期を迎え、道場や宿坊数千を数えたといいます。
同じく豊前の求菩提山(くぼてさん)も中世以降修験道の道場として栄えました。
豊前規矩郡貫(ぬき)山(小倉南区)も山岳信仰の対象でした。南北朝時代から室町時代にかけて、山麓の社寺の梵鐘を小倉鋳物師達がつくったことが知られています。

 

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