戦国時代

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2.戦国大名

戦国時代
1.戦国時代開幕
 

1493(明応2)年、細川勝元の子の政元が将軍義材(よしき、後、義尹よしただ、義稙よしたね、と改名)を廃して、足利義遐(よしとう、義高よしたか、義澄よしずみ、と改名)を擁立します。このクーデターの狙いは、幕府の実権を畠山政長から奪うものでした。
政長は自殺し、足利義材を幽閉しました。足利義高が将軍に就き、細川政元が管領となりました。畠山家はその後も政長と義就の争いがその子にも引き継がれ、次第に衰退していきました。
同族の多い細川家にも政元の跡継ぎ問題が起きます。その渦中で、政元は家臣に殺されます。


細川政元のクーデターで廃された足利義尹は大内義興(よしおき)を頼って周防に逃れていました。1508(永正5)年、義興に擁立され、細川高国(備中細川氏)の支持もあって義尹は将軍に返り咲きます。高国が管領となり、義興は管領代になります。

この頃の将軍は名ばかりで、京都を中心とする不安定権力でしたが、京都や畿内の持つ政治・経済的地位は特別のものでした。大内義興はこの後10年間在京しますが、その主な狙いは対明勘合貿易を独占することにありました。幕府の体制は既に崩壊していました。
義尹(よしただ)から義稙(よしたね)に改名した将軍は細川高国の専横に抵抗しますが、高国は前将軍義澄の子の義晴を新将軍としました。しかし、高国も畿内国人反乱で没落し、阿波の細川晴元にとってかわられます。

 

この時代、地方では守護体制を打ち破る戦乱が起こってきます。
伊勢新九郎長氏、即ち、北条早雲は1491(延徳3)年、駿河から伊豆に侵入し、堀越公方を殺害し、韮山を手中にします。早雲の生国、出自ははっきりしません。
4年後、小田原を襲い、その後、相模統一を目指して20年以上歳月をかけ、伊豆・相模を手に入れました。早雲はこの時既に80歳を超えていました。
早雲以来の北条氏を、鎌倉時代の北条氏と区別して、後(ご)北条氏といいます。
今川氏の一客将に過ぎなかった早雲には、同族や家臣が少なく、数人の部将がいたのに過ぎませんでした。そこで、早雲は国人領主を従属させ、組織化していきました。
国内の侍達を安堵したため、地侍・百姓が早雲に心服しました。そして、有力百姓達を農兵に編成しました。
早雲が残した家訓「早雲寺殿廿一箇条」があります。それは家中の者に記した日常心得作法というもので、平凡ですが、人生における信条が率直に述べられています。そこに述べられている、ありのままの態度が人心掌握の鍵であったと思われます。
早雲は、死の前年、家督を嫡子氏綱に譲ります。氏綱は20余年、武蔵に領国を広げていきます。

 

北条早雲と同様に出自・前歴がはっきりしないのが、斉藤道三です。早雲と道三は60以上も歳は違いますが、早雲が60歳で史上に登場するのに対し、道三は20代で美濃で活躍します。
美濃に入った道三は守護の土岐氏の重臣長井長広に接近します。この頃、土岐家の後嗣の内紛に、守護代斉藤家内の対立もあり、美濃の国人も二分されていました。
この様な国人の分裂抗争で、土岐家も、斉藤家も衰退していきました。こうした中で、美濃は国人の台頭と一向宗門徒の一揆によって揺さぶられていました。
西村勘九郎と名乗る道三は守護土岐政頼の弟頼芸(よりなり)に仕えます。相続争いに敗れた頼芸に勘九郎は謀反を勧めました。政頼を攻め、越前に走らせ、頼芸は守護職を手に入れます。この後、道三は長井新九郎規秀(のりひで)を名乗ります。
1538(天文7)年、病死した守護代斉藤氏の跡を継ぎ、道三は斉藤左近大夫利政と改名します。1542(天文11)年、頼芸を尾張に追い、道三は美濃に手中に入れます。
権謀術数に長けた道三でありましたが、国内外、反発も強いものがありました。1548(天文17)年、娘の濃姫を織田信秀の子、信長に嫁がせたのも、妥協策の一つであったと思われます。
稲葉山城を大改修して、道三は領国支配の拠点を固めます。そして、土岐頼芸の美濃復帰を道三は認めて譲歩していましたが、1552(天文21)年にはこれを攻め、名実とも美濃を支配するようになりました。

 

守護代から戦国大名になった例に、山陰の尼子経久(つねひさ)がいます。尼子氏は出雲守護京極家の守護代の家柄でした。
守護京極政高は、応仁の乱の最中、在京し、尼子経久の父、清定に国許の支配を任せていました。出雲でも国人達の離合集散が続いていました。清定は富田(とだ)の月山(がっさん)城を本拠にして、その安定を図っていました。
しかし、息子の経久の代になると、寺社本領の保護や段銭徴収の納入を無視し、石見の国人をも味方につけるような行動を行いました。
これに対し、幕府は下知を下し、京極政高は守護代の地位を奪い、出雲国人を動員し、経久を月山城から追放し、父の代からの所領も没収しました。
しかし、1486(文明18)年には、経久は月山城を急襲して、奪回しています。これ以降、経久は国人達の統合に腐心します。そして、領国の安定に20年以上の歳月を要しました。
尼子の本拠の富田の後背地はタタラの主産地でした。砂鉄が原料のタタラによる鉄の生産は、出雲・伯耆・安芸北部などの中国山地で行われていました。
古代以来の山陰の鉄は、この頃の武具の需要増加により、生産技術や産出量も向上し、原料鉄は各地に供給されました。
尼子はこの流通に統制を加え、積出港の美保関で鉄駄別銭を徴収しました。また、日御碕(ひのみさき)の宇竜津(うりょうづ)をも支配下に置き、鉄駄別銭を徴収しました。
この後、経久は将軍義尹(よしただ)を擁した大内義興の軍に加わって上洛し、8年間在京します。そして、帰国すると、活発な軍事行動を起こします。
その勢力は出雲・隠岐・石見・伯耆・安芸・備後・備中・備前・美作・但馬・播磨の11国に及びました。しかし、これは軍事行動に片寄り過ぎた感じがありました。

 

守護から戦国大名になった例を見ます。駿河の今川氏親(うじちか)の家は足利家の一族であり、南北朝時代以来、駿河の守護職を世襲していました。
応仁の乱の時、父義忠は遠江の斯波氏との戦いで戦死します。この後嗣を巡って駿河の国人達は抗争を繰り広げます。跡を継いだ氏親は、反対の国人と対決することとなります。
これ以来、氏親は国人を統制し、領国支配に積極的に乗り出すとともに、1517(永正14)年、斯波氏を攻め、遠江を手に入れます。
氏親の領国支配の政策として注目されるのは、領内を検地したことと、氏親の死の直前公布された家法「今川仮名目録」があります。「今川仮名目録」は領内統治の基本法で、主君の権力の確立を示したものといわれます。

この時代、幕府の行政・裁判権などの秩序から離脱し、多くの古代からの荘園や公領を含む広い地域を支配下に置き、その中の国人・地侍達を家臣として、土地や民に対する領主としての支配権を掌握した者を戦国大名と呼ぶことができます。
その出自としては
1.出自が定かでない戦国大名
 北条早雲(伊豆・相模)、斉藤道三(美濃)
2.守護代や国人からなった戦国大名
 上杉謙信(越後)、織田信長(尾張)、尼子経久(出雲)、伊達稙宗(陸奥)
 結城政勝(下総)、浅井長政(近江)、相良為続(肥後)、毛利元就(安芸)
 竜造寺隆信(肥前)、長宗我部元親(土佐)
3.守護からなった戦国大名
 今川氏親(駿河)、武田信玄(甲斐)、朝倉義景(越前)、大内義隆(周防)
 大友義鎮(豊後)、六角義賢(近江)、島津貴久(薩摩)
に分類することができます。

 

室町から戦国時代にかけて、稲作の生産力は増加しましたが、飢饉の年には餓死者が出るという不安がありました。そして、そんな不安の中、穀物の売買は意外に広く行われていました。
そんな中で、撰(えり)銭という通貨の混乱がありました。そのため、戦国大名の領国政策に市場の設立や撰銭の調整に力を入れました。
戦国時代、手工業や土木技術の発展はすばらしいものがありましたが、民衆は戦乱による飢饉・疫病・略奪などの苦しみを強いられました。
かっての荘園領主は、畿内のごく一部を除いて、年貢の徴収権を失っていました。年貢の大部分は、戦国大名の直轄地なら、大名自身の、国人領なら国人の手元に入るようになりました。場合によっては、村の寺院や有力名主がこの権利を買い入れて、上部に年貢を支払う領主がいない場合もありました。
一般農民と荘園領主の間に加地子(かじし)という、地代を取る地主的権利が、鎌倉時代末期から南北朝時代に成立してきました。戦国時代は一般的で、固定されている年貢を上回る額になっていきました。そして、加地子の権利者も流動化していきました。在村の寺社や名主だけでなく、かっての荘園領主や国人・地侍も時として、貨幣でこの権利を買い集めました。
農村でも、貨幣の必要性は高まる一方、作柄や物価の変動は激しく、戦争による臨時課税や人夫・兵士の徴発も少なくありませんでした。村民の不安定な経済条件の中で、在村の地主兼金融業者と呼ぶような村の蔵元の活動が見られます。

この時代、地主的な村落社会の上部を構成する層と、独立した耕作農民であるが、経済的に不安定な状態にある下部を構成する層との二階層に形成されていきました。
室町から戦国時代、各地の村落では、村民同士の社会結合と自治的権利を強めて、惣の掟をつくることが少なくありませんでした。この様な惣村を基礎に、その集合体の地域社会が郷です。郷では領主権力が大幅に排除され、年貢の多くの部分が郷内に留保されました。
この様な社会政治構造を更に大規模に拡大した例が伊賀惣国一揆です。惣国は村々の惣を基礎にして足軽、百姓の広範な参加の上に成立していました。
外部からの侵入者に対抗する防衛組織の性格が強く、支配被支配関係も包含していますが、百姓・地侍の横の結合による共同体ということができます。

 

百姓・地侍の結合が宗教を媒介にしてもっと強くなったのが、加賀門徒の惣国でした。応仁の乱で、守護富樫家は分裂し、政親は東軍、弟幸千代は西軍に分かれ、互いに国人達を集めて争っていました。弟幸千代はこの地方で力のあった真宗高田派の門徒を味方に入れました。これに対し、政親は本願寺派門徒を味方に引き入れました。
富樫政親は門徒の力で力を回復しました。しかし、政親と門徒は一致することができず、政親は門徒を弾圧します。将軍義尚が近江の六角氏討伐に出陣すると、政親はこれに応じ、戦費に当てる多額の守護役を農民に割り当てました。
1488(長享2)年、門徒一揆は富樫泰高を擁して、急遽帰国した政親を攻めました。政親は敗れ、自害しました。加賀は門徒の惣国となりました。

親鸞から蓮如に継承された同朋(どうほう)・同行(どうぎょう)思想は共同体の性格が強い惣国と呼ばれる社会構造にうまく適合しました。
差別を受けやすい渡り職人や下層商人たちも受け容れやすく、種々の職人達が門徒になっていました。百姓達も在俗のまま住居を道場として講の中心となりました。一向宗の場合、村民自身が伝道者になるため、村人達は安心して従いました。
党・組・郡・国といった次第に大きくなる組織をつくりましたが、道場・末寺・有力寺院といった寺院序列も同じようにつくられ、その頂点には本願寺がありました。
蓮如の跡を継いだ実如(じつにょ)、その後の証如(しょうにょ)の時代になると、本願寺法主(ほっす)は門徒勢力の頂点に立って、貴族化・封建領主化していきました。しかし、門徒大衆はその信仰の帰結として、年貢を納めるのをやめ、土地を仏法領とし、その収穫の一部を本願寺に懇志として納めることが往生の救いを得ると確信しました。

蓮如の布教活動は越前吉崎で行われていましたが、北陸門徒が先鋭化すると、1496(文明7)年、吉崎を去り、山科に本願寺を再建しました。これにより、蓮如は山城・摂津・河内・大和・紀伊の各地を回り寺院を建立しました。
1496(明応6)年、攝津に石山御坊を建てました。これが石山本願寺になります。この間、門徒は北陸から東海・東山道にも広がっていきました。
一向一揆は当初から政争と絡んでいたため、一揆の力が大きくなると、大名・国人達はこれを利用しようとしました。そしてその都度、内部で分裂を起こしました。
証如が本願寺法主の時代、細川晴元・六角定頼は京都の法華一揆と結んで、山科本願寺を攻撃しました。日蓮宗も他宗に対する排他性を持ち、信徒の団結も強かったため、一向一揆との対抗は宗教戦争の様相になりました。しかし、山門が法華一揆の強大化を恐れ、六角定頼とともに強襲したため、圧殺されました。

応仁の乱以前の土一揆の高まりは惣を発展させました。土一揆を通じて荘園領主や守護の力を後退させ、年貢不払いによって富が村落に残るようになると、有力名主や地侍が小領主化しました。
戦国時代の村落では、上層と下層とに村民が二分化されました。農民が地主化し、小領主化して大名や国人の被官化することはかなり自由に行われました。しかし、その関係は固定的・絶対的ではありませんでした。村落における階層化が進みながらも、民衆は大名とは対決姿勢を持ち続けていました。

 

1498年、ヴァスコ=ダ=ガマの率いるポルトガルの船隊は喜望峰を回ってインドに到着しました。このインド航路の開拓はポルトガルの東方貿易に巨万の利益をもたらしました。
ポルトガルはマラッカに進出し、その後、中国の広州に現れました。ポルトガルは中国に香料を運び、中国から生糸・絹織物をインドに送って利益を得ました。
この頃、朝貢形式の対明勘合貿易は、幕府の衰退により、細川・大内氏に握られていました。細川氏には堺、大内氏には博多の商人が背後にいて、主導権を争っていました。
大内義興の子の義隆の時代になると、大内氏が優勢になりますが、1547(天承16)年で勘合貿易は幕を閉じました。この後、大内義隆は陶隆房の反乱で亡くなり、細川氏も衰退していきました。

16世紀半ば、倭寇や密貿易が盛んになり、それに対して明は禁圧を強め、日明間の民間貿易はポルトガル商人によって中継ぎされるようになりました。
後期倭寇と呼ばれる海賊は、中国沿岸に出没しました。八幡大菩薩の旗を立てた八幡船(ばはんせん)は五島・壱岐・松浦から渡海し、中国の中南部の海岸を襲いました。
しかし、密かに貿易を求める中国商人も薩摩の坊津や五島列島に集まって来ました。中には、肥前平戸を根城にする王直(おうちょく)のような者もいました。彼は倭寇と結んで、五島・平戸を根拠に活躍し、明によって殺害されるまで、平戸城主松浦氏から厚遇され、密貿易を行っていました。
中継貿易に進出したポルトガル船は、1550年頃、平戸や豊後日出(ひじ)に本格的に来航しました。

 

1549(天文18)年、ザビエルは鹿児島に上陸しました。
ポルトガルの対日貿易が本格化する前の1543(天文12)年、種子島に漂着したポルトガル人が、領主種子島時尭(ときたか)に鉄砲を伝えました。
この時買い上げた二挺の鉄砲のうち一丁を紀州根来寺の杉坊(すぎのぼう)が譲り受けました。僧兵として武力を誇っていた根来は、鉄砲を新鋭兵器として採用します。根来の鉄砲技術の名声は、この後高くなりました。
種子島の鍛冶職人は伝来後すぐに鉄砲の製造に成功します。和泉堺の商人橘屋又三郎は種子島で鉄砲製造技術を習得して帰り、堺で鉄砲を製造し、鉄砲又と呼ばれるようになりました。
堺は商人だけでなく、鋳物師が集まっていたので、鉄砲製造の技術基盤はありました。鉄砲製造地として有名な国友村も、堺から技術が伝えられたと思われます。
堺・根来・国友などの畿内で鉄砲はつくられましたが、九州でも早くからつくられるようになりました。こうして畿内・九州でつくられた鉄砲は伝来して10年ほどで、実戦で使われたと思われます。
鉄砲に使われる火薬の主成分である硝石は、日本で産出されないため、南蛮貿易や中国から多くが輸入されました。しかし、輸入だけでは足りず、製法が広がって国内でも製造されました。

 

鉄砲と並んでこの時代渡来したものに木綿があります。木綿が普及する前は絹の他は苧(お)・麻が繊維の主力でした。江戸時代に入ると、木綿の時代になります。
木綿は初めは軍需品として使われました。第1は兵士の衣類に使われました。保温・吸湿性があって洗濯に強く、戦闘には最適な衣類でした。第2に船の帆布で、これ以前はむしろが使われていました。第3は鉄砲の火縄でした。
木綿は朝鮮からの輸入に依存していました。平安時代、中国から木綿は伝えられましたが、普及しませんでした。これは自然種であったためと思われます。14・5世紀、栽培種の木綿が中国から日本へ伝えられました。
応仁の乱以降、朝鮮木綿の需要は高く、西国の大名や国人は朝鮮貿易を行い、木綿を輸入しました。しかし、あまりの需要に朝鮮では国内経済に大変な影響を受け、輸出を制限する動きになりました。こうした中で、日本でも木綿の栽培や綿糸・綿布の生産が始まりました。その産地としては、三河・遠江・駿河・甲斐・武蔵などが挙げられます。

 

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