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北条早雲や今川氏綱が台頭してきた頃、関東で公方足利氏も管領上杉氏も分裂して、衰退していました。後北条氏の他、安房の里見氏が台頭し、下総北部では衰退していた結城氏が力を得て、常陸北部では佐竹氏が、上杉氏の分国であった越後では、守護代長尾為景(ためかげ)が台頭してきていました。
北条氏康、上杉謙信(景虎・政虎・輝虎と改名、入道になって謙信)、武田信玄(晴信、入道になって信玄)が、この後東日本で抗争を繰り広げます。
北条氏康は、1541(天文10)年、父の氏綱の死とともに、跡を継ぎます。父祖二代の奮闘により、伊豆・相模・武蔵の3国を引き継ぎます。この時氏康は27歳でした。
 

1541(天文10)年、武田信玄(晴信)は父信虎を駿河に追放します。この時信玄は21歳でした。
父信虎が甲斐守護代武田家を継いだ時、国内は有力国人が割拠し、一族の中でも反乱を企てる者もいたため、信虎は討伐を進めました。躑躅崎(つつじがさき)に本拠を移した信虎は相模に進出したり、信濃に進出します。そして、佐久進攻に成功し、甲斐に戻った時、信虎は静かに駿河に向かい、今川家に身を寄せました。
この後、信虎は娘婿の今川義元が死去すると、高野山に移り、信濃高遠で死を迎え、甲斐に戻ることはありませんでした。
信虎の追放については、その行動に家臣や国人、更に領民達の信頼を失うことがあったのではないかと思われます。

 

1548(天文17)年、上杉謙信は兄晴景(はるかげ)の跡を継ぎます。父長尾為景は越後守護代でした。主家の越後守護上杉家を打倒して越後を手に入れました。この越後は甲斐よりも国人の割拠が激しく、長尾氏も同族が分裂して争っていました。
守護上杉房能(ふさよし)の養子の定実(さだざね)を形だけ立てて、為景は房能を攻めて敗死させ、その兄の関東管領上杉顕定も敗死させています。その後担いだ定実を幽閉しました。
幽閉されていた上杉定実は国人を動かして挙兵します。この争いの中、為景は死去し、晴景が家督を継ぎました。協力して状況を打開するため、晴景は寺に入っていた弟の景虎(謙信)を還俗(げんぞく)させます。
抗争中の反晴景派国人達は、景虎を担ぎ上げ、両派は戦い、晴景は隠居させられ、景虎が家督を継ぎ、春日山城に入りました。

 

信玄の父信虎は地理的に近い諏訪氏には娘を嫁がせて、強攻策は採りませんでした。これに対し、信玄は諏訪勢力の分裂を画策しました。伊那の高遠氏や諏訪上社・下社に働きかけ、諏訪氏を孤立させた上に、諏訪に侵入し、諏訪氏を滅ぼしました。
高遠氏や協力した者達も、諏訪が武田氏の直接支配になると信玄に反抗します。しかし、信玄は諏訪氏の遺児を立てて、諏訪を制圧し、伊那高遠城を落とし、諏訪・伊那は信玄の支配下に入ります。
この制圧が一段落した後、信玄家法といわれる領国統治基本法の「甲州法度之次第」が制定されます。
まず、国人・地侍が罪科人の所領跡という名目に土地を処分することを厳禁し、領国全体の武田氏の領有を主張しています。国人・地侍が農民から理由なく名田を取り上げるようなことを禁止して、農民を保護していますが、年貢滞納には厳しい態度で臨んでいます。又、分国諸法度は分国内のいかなることも拘束し、信玄自身も、この基本に拘束されることを記しています。
諏訪を制した翌年、佐久方面に兵を進め、その方面の国人を制圧しました。その後、北信濃を目指しますが、その地の有力国人村上氏との戦いに敗れ、制圧した佐久や諏訪でも動揺します。武田方は再度佐久を制圧し、村上氏を打ち破ります。

村上氏は上杉謙信を頼って越後に走りました。この他の北信濃の国人達と謙信は連絡を取り合って武田信玄が制圧した信濃に侵入しました。1553(天文22)年、武田と上杉両軍は川中島で戦いました。これは第一次川中島合戦と呼ぶものです。
川中島は、千曲川と犀川の合流点近くで、広くは高井・水内・埴科(はたしな)・更級の4郡を川中島4郡といい、善光寺平に属する肥沃な地域です。それと同時に、北は謙信本拠の春日山、南は松本平・諏訪平に通じた軍事上の重要地でした。特に謙信にとっては、信玄本拠の甲府からも春日山に近い地点であったので、信玄の善光寺平への進出は非常に脅威でした。
川中島を巡る戦いは、この後数次にわたって行われますが、それに先立ち、信玄は駿河の今川、相模の北条との間で三国同盟を結んでいました。

 

上杉謙信は、長尾家家督を継いだ当時は、一族の中には対立する勢力もありました。1550(天文19)年、越後守護上杉定実が謙信に上杉家の跡を託して死去したため、謙信は上杉姓を名乗り、守護職を得て、国内を安定させました。
1552(天文21)年、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政が、謙信を頼って、越後に逃れてきました。翌年、最初の川中島の合戦の後、謙信は少人数で上洛しています。
その目的は幕府や朝廷に対し、関東に進出し、関東管領の地位を復活させる行動を了解してもらうことのありました。又、その際、脅威になる越中の一向一揆に対する融和策を講じることであったと思われます。

1554(天文23)年、北条氏康は古河(こが)公方を幽閉しました。謙信はこれを回復するためには信玄の北信濃進出の不安を解消しなければいけませんでしたが、第二・第三次川中島の合戦で勝利することはできませんでした。

美濃では斉藤道三が子義竜に攻められて死去しました。将軍足利義輝が三好長慶と和睦して入京し、謙信に信玄と和睦するように呼びかけました。その翌年には織田信長が上京し、義輝に謁見しています。信長に続いて謙信は再び上洛しました。1560(永禄3)年、今川義元が桶狭間で敗れて戦死します。同年、古河公方が死去し、関東ではその後嗣で混乱します。北条氏康が後嗣を立てて、実権を握ることを謙信は阻止せねばならず、大軍をもって関東に進出することを決意します。
一方の北条氏康はこれを迎え撃つため、武蔵に出陣しますが、上野は上杉方に落ちていました。同盟関係にあった武田信玄は一向一揆が越後を衝くように本願寺に使者を送りますが、これも遅きに失していました。
謙信は上野に布陣し、下野・常陸の国人に参陣を促しました。翌年、1561(永禄4)年、氏康の本拠小田原を目指しました。この攻撃で、小田原の城下町は焼失してしまいました。氏康は武田信玄・今川氏真(うじざね)に援軍を求めて、籠城し、夜間ゲリラ戦法で上杉軍を撹乱しました。
小田原城包囲は1ヶ月近くになりますが、上杉軍の兵糧が欠乏し、武田の援軍が来ていることを知り、上杉軍は鎌倉に引き上げました。
この間に上杉憲政から関東管領の地位を謙信は譲られました。この後、越後に帰国します。謙信は関東に領国や家臣団を作ることはできませんでした。

1561(永禄4)年、謙信は帰国してまもなく信濃に出陣しています。一方の信玄もほとんど同じ頃甲府を出発しています。謙信は信濃に入ると、妻女山を抑え、武田方の海津城に迫りました。
両軍の決戦は川中島で行われ、合戦は上杉軍の優勢で始まり、武田軍の軍勢が側面攻撃をかけたため、上杉軍も手痛い攻撃を受け、勝敗が決しないまま戦いは終わりました。この合戦が頼山陽の「鞭声粛々、夜河を過(わた)る」の詩のものといわれています。
この合戦の隙を衝いて、北条氏康が武蔵から上野に向けて行動を開始しました。謙信はそのため帰国し、関東に出陣しました。
謙信は毎年、秋から冬にかけ関東に出陣しています。しかしその成果は少なく、交通路を確保する程度で、領国を拡大したり、家臣団を増強することはほとんどありませんでした。むしろ、軍事行動による消耗の方が大きかったといえます。

 

北条氏康は父から引き継いだ伊豆・相模・武蔵の領国を固めることに力を注ぎました。そのためには武蔵から上杉の勢力を駆逐し、領国の土地領有及び、年貢収得関係を整備することでした。
1559(永禄2)年、「小田原衆所領役帳」を作り、家臣団を確立しています。機能別・地域別に家臣団を編成し、知行貫高を基準にして各々の軍役量を記したものでした。
税制では、種々の付加税を整理して、基本年貢高の100分の6を役銭と決め、それ以外は免除しました。これは段銭といわれるものと同じでした。
又、従来の公事役も整理し、基本年貢高の100分の4の懸(かけ)銭としました。この二つを合わせて貫高の1割になり、家屋に対する棟別銭とともに三税といわれました。


小田原城の籠城の危機の頃、常陸の佐竹・房総の里見が上杉と結んで、氏康を包囲していました。1563(永禄6)年、再び上杉謙信が関東に進出すると、里見義弘は安房・上房の軍を下総に進出させました。氏康はこれに対して出陣しました。下総国府(こうの)台で激戦となりました。氏康は形勢を逆転させました。この後も北条・里見の対立は続きますが、北条側は大規模な衝突を避け、里見との融和の道を求めました。
武田・今川・北条の三国同盟により謙信の南下に対し、信玄は氏康をバックアップしていました。しかし、信玄が西上野を抑えたり、義元の死によって今川勢力が後退して、三河の松平氏の力が大きくなるに従い、信玄が駿河に圧迫し始め、1567(永禄10)年、三国同盟は解体します。
翌年、武田は松平と連携して南下し、駿府を占領し、今川氏真は遠江に逃げます。1569(永禄12)年、信玄は将軍義昭に依頼して謙信と和平を図り、謙信に繋がる常陸の佐竹氏とも手を結び、氏康を包囲します。
その年、信玄は伊豆・駿河東部に進入し、更に、上野・武蔵から相模に南下して小田原城下に火を放ち、反対に北条軍は相模・甲斐の国境まで武田軍を追い激戦になります。

 

中国地方では、尼子・大内・毛利を中心とする戦いがこの頃繰り広げられていました。尼子経久は守護代家柄でしたが、守護を廃して戦国大名として山陰の大勢力になっていました。

大内氏は南北朝時代以降周防・長門の守護であり、応仁の乱の際の打撃にも関わらず、明・朝鮮貿易の主導権を握り、大守護大名でした。これに対し、毛利氏は安芸の一国人に過ぎませんでした。
元来鎌倉御家人で、安芸国吉田荘の地頭であった毛利氏は、南北時代になって初めて入部します。毛利氏はこの時代から国人領主の途を歩きます。そして、応仁の乱には山陰から備後にかけて力を伸ばしていた山名氏と結びつき、毛利一族の所領も増えています。
毛利弘元の子で、元就の兄、興元(おきもと)の頃、安芸の有力国人に成長していました。この興元が死去し、その子も相継いで死んだため、家臣たちに擁立された元就が家督を継ぎました。

毛利は尼子と大内という二大勢力の間で、一国人として時々にいずれかになびいて、その存立を図っていました。元就は長子隆元を山口に送り、大内義隆との結びつきを強めていきました。
 

この頃、尼子経久は高齢で、孫の詮房(あきひさ、後の晴久)が家督を継いでいました。詮久は毛利制圧に出兵しました。しかし、毛利の頑強な抵抗にあいました。
1540(天文9)年、詮久は大軍を率いて安芸国吉田に向かいます。元就は居城の郡山城で籠城し、大内の援軍を頼みました。郡山城は落ちず、大内氏重臣陶隆房(すえたかふさ)の率いる軍勢が吉田に入り、尼子軍は敗れ、出雲国富田に逃げ帰ります。
この敗戦で、備中・備後・安芸・石見の国人の多くが大内方になびきます。1542(天文11)年、大内義隆は出雲遠征に軍をおこします。元就も他の安芸の国人と共に北に向かいます。
大内軍は十分な補給や休養をとりながら軍を進め、翌年富田に進入します。月山城を包囲・攻撃しますが、大内方についていた国人の寝返りにより、義隆は撤退を決め、元就は九死に一生を得て帰還します。

元就は軍事面でなく、政略や外交の巧みさによって有力国人を味方に引き入れました。小早川・吉川(きっかわ)という安芸国の有力国人に自分の子供を送り込んで、事実上これらの家を乗っ取ってしまいました。ここに毛利両川体制が確立されました。
 

富田月山攻撃に失敗して、大内義隆は戦国の覇権を制する気力を失い、文化人としての道を求めるようになりました。父義興は対明勘合貿易の実権を独占し、義隆も貿易船を派遣しています。又、朝鮮貿易も盛んに行っていました。
こうした貿易で得た富で、義隆は朝廷にも接近しました。応仁の乱以降多くの貴族・文化人が京都から大内氏の本拠で、小京都といわれて栄えていた山口に下って来ました。
この様な繁栄の中、大内氏の中では謀反の動きがありました。義隆の右筆(ゆうひつ)で、側近で文化人である相良武任(さがらたけとう)と、周防守護代で重臣、武断派の陶隆房の対立が背景にありました。


陶隆房は相良武任を追放しょうとしますが、大内義隆の相良に対する信任が篤く、豊前守護代杉重矩・長門守護代内藤興盛を味方に引き入れ、毛利元就をも引き入れようとしました。義隆も元就に対し援助を依頼してきました。
これに対し、隆房は豊後の大友義鎮(よししげ)の弟で、母が大内義隆の姉であった大友晴英を大内家に迎える工作をします。1551(天文20)年、隆房は杉・内藤らの兵と共に山口に乱入し、義隆は逃げ出しますが、大寧寺(長門市湯本)で自刃します。
陶隆房は大友晴房を迎え入れます。隆房は晴英の晴をもらって、晴賢(はるかた)と改めます。晴英はその後、義隆の一字を取って義長と改めます。

陶晴賢の謀反に元就は同調しませんでした。反対に対抗するようになっていきます。毛利の安芸・備後の領国体制確立のためには大内・陶の支配下の安芸国の西方を奪い取ることが必要でした。
元就は西進し、安芸を制圧します。更に周防の一角を脅かすまでになります。晴賢はこれに驚き、安芸進攻の態勢を整えます。元就は大軍を相手にするのは不利とし、厳島を決戦場に考え、宮の城を築いて誘導します。
1555(弘治元)年、水軍力に優れた大内・陶軍は岩国から厳島に上陸します。これに対する毛利軍は1/5、小早川水軍も1/4程度でした。元就は能島・来島の村上水軍に援助を頼みます。
夜陰に乗じて厳島に上陸した毛利軍は大内・陶軍を攻撃します。大混乱になった大内・陶軍は壊滅状態になり、晴賢は自刃します。晴賢を失った大内義長は無力で、長府で自刃します。ここに大内家は滅び、防長二国も元就の勢力下に入ります。

1556(弘治2)年、元就は次男の吉川元春を石見に出兵させます。この地方の大内・陶の勢力を一掃し、尼子方に圧力をかけ、大森銀山を奪取しました。
尼子晴久は1558(永禄元)年、銀山を見下ろす山吹城を包囲します。抗戦の甲斐なく、銀山は尼子方の手に落ちます。
尼子晴久は死去し、義久が家督を継ぎました。この頃、力関係では毛利方が尼子より優位に立っていました。これを利用して毛利は尼子と和議を結びました。
そして、山吹城主を懐柔し、大森銀山を再び手に入れました。これ以降毛利は関ヶ原合戦まで銀山を確保し、富を得ることができました。
1566(永禄9)年、毛利軍は尼子の本拠富田月山城を包囲し、尼子義久は降伏します。これで、尼子氏は滅亡します。この3年前元就の長子隆元が死去し、孫の輝元が家督を継いでいました。

 

1549(天文18)年、イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸します。ザビエルはその7年前ゴアに到着し、マラッカにいたヤジロウから日本の事情を聞いたといわれています。
鹿児島の領主島津貴久はザビエルに対し、好意的でした。しかし、仏教徒の反発が厳しくなったため、ザビエルはトルレスとフェルナンデスを伴って京都に向かいました。
途中、平戸に寄り、そして、山口に寄って堺に上陸しました。京都には11日滞在して、帰路につきます。帰路、山口を訪問して、5ヶ月滞在し、インド総督とゴア司教の公文書を大内義隆に奉呈します。
ザビエルはポルトガル船が豊後日出(ひじ)に到着していることを知らされ、山口から豊後府内(大分市)に赴き、大友義鎮(よししげ、後の宗麟)に謁見し、布教の足場を固めて、日本を去りました。

インド航路の発見、胡椒貿易権の掌握のためにポルトガルは略奪と殺戮を行い、他方では、カトリック教会の布教活動が行われていました。
マラッカに到達すると、中国商人の抵抗にあい、ポルトガルは極東進出の基礎が築けませんでした。日本は肉食でなく、胡椒を欲しがらないため、進出するには困難さがありました。
そんな時期、ザビエルは来日しました。ポルトガルは中国・南海・日本の間の中継貿易に活躍していた琉球商人に代わって、中国の生糸・絹織物や南海の特産物をもたらして、日本の銀を得ようと考えていました。
ザビエルはゴアに戻った後、再び日本を訪れる予定でした。しかし、中国の広東省で病気になり、死去してしまいました。ザビエルは山口や府内にキリシタン信仰の種を蒔き、ポルトガルへの彼の報告は対日貿易の発展を促進しました。

ザビエルが去った後、日本布教活動は彼と行動を共にしたトルレスによって行われました。トルレスは山口での伝道と教会開設を大内義長より許可を得ました。
豊後の府内にはザビエル離日の翌年、バルタザール=ガゴが訪れ、厳島合戦後、山口の政情が不安になると、トルレスも府内に移ってきました。
トルレスは1554(天文23)年、堺に行きます。1559(永禄2)年にはゴアから府内に来たガルバル=ビレラを京都に派遣します。ビレラは将軍義輝に謁見し、京都での布教の許可を得、堺・奈良でも布教を進めます。ついで、トルレスの命により、ルイス=フロイスも上洛してきます。
1557年、マニラを獲得したポルトガルの対日貿易は本格化し、府内・平戸に入港するポルトガル船も増えてきました。九州の大名は南蛮文明に惹きつけられていきます。

 

大友氏は少弐・島津氏と共に鎌倉時代以来の守護で、大友義鎮(よししげ、後の宗麟)の祖父義長・父義鑑(よしあき)以来、守護から戦国大名の道を歩いていました。
義長は義鑑に「義長条々」という置文(おきぶみ)をつくります。分国法の原型というもので、家臣団の統制と領国支配の心得を説いています。
義鑑は豊後の他、肥後の守護職も受けましたが、家臣の反逆を受け亡くなっています。これが二階崩れという事件です。
義鑑の長子の義鎮は、家臣の言葉を聞き入れない個性の強い人物でした。このため、義鑑は他の子に跡を継がせようとしました。しかし、家臣が反逆し、その子と義鑑は切られました。

この動きの裏で、家臣の一人がその子を擁立し、肥後の叔父の菊池義武(義鑑の弟で菊池氏を継いだ)とも密かに連絡を取って行動を起こそうとしましたが、義鎮は敏速に行動し、義武を謀殺します。ここに菊池氏は滅亡します。

義鎮が家督を継いだ翌年の1551(天文20)年、ザビエルが府内に来て、義鎮に謁見します。その年、重臣陶晴賢の謀反によって大内義隆が死去しています。
大友氏は対明貿易港の博多を抑えるため、北部九州への進出を願っていました。大内義隆の後を継いだ大内義長は大友義鎮の弟でした。
義鎮は積極策に出ます。まず、勢いのなくなっていた少弐の本拠肥前に圧力を加え、将軍義輝より肥前守護職を得ました。そして、少弐氏が滅亡すると、新たに、筑前・筑後・豊前の守護職を得て、九州探題になりました。
義鎮はポルトガルより手に入れた鉄砲や南方からの渡来品を献上することにより、守護職や九州探題などの地位を獲得するという古い型の行動パターンを採りました。これは国内の国人掌握に苦労したためと思われます。
1556(弘治2)年、毛利元就は大内義長を滅ぼすと、大友方に圧力をかけてきます。翌年には筑前の国人秋月氏が元就に通じます。1559(永禄2)年、元就が門司を攻めると、秋月の他、筑前の原田、豊前の長野・野仲の国人達も大友から離反します。
毛利が尼子に脅かされると、義鎮はその隙に肥前に出兵し、佐賀の竜造寺隆信と戦っています。

ザビエルの離日の翌年の1552(天文21)年、義鎮はガゴを府内に迎え、1555(弘治元)年にはポルトガル商人で、医術にも通じたアルメイダを府内に迎え、育児院・病院をつくらせています。1562(永禄5)年、義鎮は入道となり、宗麟と号し、臼杵に移り、ここには病院をつくらせています。1570(元亀元)年、トルレスの代わりにカブラルが布教区長として来ています。
宗麟はもともとポルトガル人に対しては軍事物資を期待したと思われますが、信仰に対しても真剣であったと思われます。宗麟の夫人はキリシタン嫌いでしたが、それは異常なものであったため離婚します。1578(天正6)年、新しい夫人を迎え、宗麟は妻と共に洗礼を受けました。

 

大友宗麟の城下町府内以上にポルトガル商人と宣教師で賑わったのは、肥前平戸でした。平戸は中国貿易の基地で、海賊の棟梁王直(おうちょく)の根拠地で、領主松浦氏の保護を受けていました。後、王直は明で殺害されます。
1550(天文19)年、ポルトガル船は平戸に初めて入港します。耕地が少ない平戸島を根拠として松浦党の一員として海上に活路を求めていた松浦隆信はポルトガル船を歓迎しました。
ザビエルが訪れ、その後ガゴが府内から移って布教を始めました。隆信は歓迎しましたが、仏教徒のキリスト教排撃の動きが高まり、隆信に対する圧力も高まりました。
宣教師に退去命令を出したり、ポルトガル船員との衝突事件があったりして、日本布教の責任者トルレスは平戸から隣接する大村領に港を求める方針を採りました。

平戸に代わる港として考えられるのは、大村純忠(すみただ)支配下の横瀬浦でした。純忠は港に続く土地を会堂領とする、その中には宣教師の許可なく異教徒は住ませない、ポルトガル船と取引商人には10年間諸役を免除する、という特典を与えました。
1562(永禄5)年、横瀬港は開港しました。そして翌年には大村純忠は入信し、最初のキリシタン大名をなりました。
これに対し、仏教徒や家臣達も反対し、翌年、横瀬港は焼打ちされました。そのため、一時ポルトガル船は平戸に入港しました。その後、大村領の福田に移りました。しかし、大きな船の入港には適さなかったため、1570(元亀元)年、深江浦が選ばれました。これが長崎です。ポルトガル宣教師や商人は長崎に永久的な基地を建築しょうとしました。1580(天承8)年、純忠は長崎を教会領として寄進しました。

 

島津氏は鎌倉以来、薩摩国守護で、南北朝時代以降は大隅・日向国守護でもありました。しかし、長期にわたる分割相続によって、同族が各地に分立していて、その統合には悩まされていました。
守護職を相伝するのは奥州家でしたが、絶対的地位を持つわけではありませんでした。総州家・薩州家・伊作家・豊州家などの島津姓を名乗る庶流や土地の名を採った一族も多く、互いに離合集散し、内部抗争は激しいものがありました。
 

1526(大永6)年、奥州家の勝久の養子に伊作家の貴久が入りました。貴久の父忠良は敵対する薩州家の実久と戦い、その加世田城を落としました。このため忠良・貴久は力を伸ばしました。
1545(天文14)年、有力一族に推される形で、貴久は島津本家の家督と守護職を継ぎました。1550(天文19)年、貴久は伊集院から鹿児島に移りました。
貴久は積極的に家臣団を編成し、軍事力を強化しました。それと共に薩摩・大隅の有力国人を服属させ、日向の伊東義祐(よしすけ)と対決しました。
伊東氏は日向国に地頭職を持つ古くからの国人でした。義祐は貴久と対決する大隅の国人と結んで、日向飫肥(おび)の豊州家島津忠親に圧力をかけました。1559(永禄2)年には忠親を救援した貴久の軍を大破しました。

1566(永禄9)年、貴久は入道となり、長子義久に家督を譲りました。島津と伊東氏の戦いは繰り返されていました。
1572(元亀3)年、木崎原で義久は義祐の軍を破ります。これが決定的となり、義祐に味方していた大隅肝付氏を服属させます。前衛を失った伊東氏の家臣にも離反が出てきたため、義祐は打開するため進出しますが、1577(天正5)年、高原で打ち破られ、義祐は大友氏を頼って逃げます。義久はここに薩摩・大隅・日向三国の統一を完成します。

 

この頃、大友・島津氏が九州で大きな力を持ちますが、佐賀の竜造寺隆信が力を伸ばしていました。竜造寺氏は鎌倉時代以来、肥前国佐嘉郡竜造寺村地頭職から成長した国人領主でした。当初その力は小さく、大内・大友の勢力の間で揺さぶられていました。
大友義鎮は、大内義隆の死によってその勢力が弱っている間に竜造寺氏に攻勢をかけます。竜造寺隆信は千葉・少弐氏を倒し、有馬氏を圧倒していました。1560(永禄3)年、大友軍が隆信の佐嘉城を包囲します。
隆信は毛利方と組んで、大友方に対抗しょうとしますが、毛利方の援助も期待できず、大友方と和平を結びます。しかし、和平したものの、竜造寺氏の力が大きくならないうちに抑えようと、1570(元亀元)・1576(天正4)年、大友方は竜造寺方を攻撃しています。

 

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